「――見事に、逃げちゃったね。」
「本当に、見事だね。」
もぬけの殻の客室と、小さく開け放たれた障子を見て、二人は顔を見合わせる。
片方は顔を青くしているが、もう片方は、しれっとした表情をしていた。
その様子を見て、青くなった方がもう片方に問いかける。
「なるほどくん、本当はわざと逃がしたんじゃないの?」
「いや、ちゃんとここにいるように見張ってたよ。」
よそ見してるうちに、逃げられちゃったけど――成歩堂は、のらりくらりとそう応じる。
やっぱり、と真宵は額に手を当てて顔をしかめた。
「なるほどくん、ちょっとあの子に同情的だったもんね」
「別に同情はしてないよ。手を貸したそうにしてたのは、真宵ちゃんの方じゃないか」
こともなげに、成歩堂はそう言ってのけた。
「だーかーらー!なるほどくんの意見に納得して我慢したんだよ、あたしは!」
それなのにどうして、と真宵が詰め寄ると、成歩堂は頭をかきながら困ったように応じる。
「やっぱり、僕たちがあの子を止める権利があるのかなって、疑問に思っただけでさ。」
「――それは十分、同情って言っていいと思うよ。なるほどくん。」
真宵は、もう、と呟いて言葉を続けた。
「そもそも、当事者の了承がないと手は貸せないって断ったのはなるほどくんなのに。」
「そりゃそうだ。ぼく達にはあの子を手伝う権利もないんだから。」
「自由とヒントをあげちゃったんだから、手伝ってるのと一緒だよ…!」
真宵が軽めにそう声を荒げるも、相手の男はいつものふてぶてしい笑顔でこう返した。
「たぶん、大丈夫だよ。僕の独り言、ちゃんと聞いてたみたいだから。」
「独り言?」
「行動次第によっては、あの子の大事な人が全てを失うかもしれないこととか。
ああ、あと人目につかないように駅まで行くための道のこととかも言ったかもなあ、ぼく。」
とぼけたようにそう呟いて、成歩堂はとげとげしい頭をわざとらしくかいた。
「――とにかく、無事に帰ってきてくれたらいいね。」
真宵は、もう全て諦めたかのようにため息をついた。
「その前に《あいつ》にかけた電話も聞いてたみたいだから、たぶん行先は決まってるんじゃないかな」
夕方になったら迎えに行くよ、と成歩堂は付け加えて言った。
「――それでそんなに落ち着いてるんだね。」
何て言ったの?という真宵の問いに成歩堂が答えると、真宵も少し安心した表情になった。
「だったら――、せめて少しでも望みが叶ったらいいね。」
「そうだね。」
二人は少し穏やかな様子で寄り添い、先程までここに居た「あの子」のことを思った。
「――まあ、それはそれとして、このことで発生する責任は、なるほどくんが全部とってね。」
「えっ」
「たとえ無事に迎えに行けたとしても、あの子の保護を怠ったペナルティは発生すると思うよ、たぶん。」
「ペナルティって?――あっ!!!」
何かが稲妻のように脳裏を駆け抜け、成歩堂は思わず身震いした。
「真宵ちゃん、できれば、何かの時には、口添えとか――」
「――あの子、無事に帰ってきてくれたらいいなあ」
「ま、真宵ちゃん――!!」
この日の白昼、遠い方を眺めて目を逸らす真宵にすがる成歩堂の声が、屋敷中に響いたという。
***
『ちょっとトラブルがあって、里がバタバタしているんだ。
遊びに来るのは、明日からにしてもらってもいいか?』
成歩堂からの、そんな連絡に了承の返事をして、御剣は携帯電話を終話させた。
『今日は事務所に大事な荷物が届くかもしれないんだ。
悪いけど、もし予定がなかったら留守番してくれると助かるんだけど』
成歩堂の事務所の鍵は、建物の集合ポストの中に入っているという。
御剣は、そのポストを開けるダイヤルキーの番号を知っていた。
いつだったか幼馴染で酒を酌み交わす時に頼まれて鍵を開けて以来、
何度かその鍵を使う機会があり、御剣もすっかり慣れている。
しかし、よくよく考えてみると――
「物騒なことだ」
御剣がそう言うと、成歩堂の声も笑っていた。
たとえ、大事なものは成歩堂が持つ別のカギが必要な奥の部屋に全て収められており、
御剣が入ることができるのが手前の応接室だけだったとしても、物騒には違いない。
――まあ、それだけ信頼されているということではあるが。
それはさて置き、そんな申し訳なさそうな成歩堂の願いも、御剣は気まぐれに快諾した。
今日は、特に用事もない。
12月29日。通例では年末年始の休暇に入る時期だ。
御剣は例年28日から早めの休暇をとり、父の墓参りに行くことにしている。
墓参りで休みを取る人間は検事局にそんなに多くない。どちらかと言うと稀だ。
しかし、法の闇の渦中で父を亡くした御剣がその命日に休暇をとることに、異を唱える人はいなかった。
御剣としては、仕事を休んでまで命日に父に会いに行くことは悩むところであったが、
やたらと休暇を勧めてくる上の人間の言い分を聞いていると、休まざるを得なくなったのである。
簡潔に言うと、12月28日に御剣が検事局にいるのは、都合が悪いらしいのだ。
御剣がいると、どうしても多くの人間が「検事が殺人を犯した」ことを思い出し
その被害者の息子たる御剣を、腫物を触るように扱いたくなってしまうらしい。
休日返上で働くことも多いのだから、下の人間の休みを取りやすくするためにも、と勧められ
御剣はこの数年、何もない限りは年末の休暇を有難く享受するようにしていた。
不祥事続きの司法の世界は、世間の目や職員の士気に敏感だ。
まだ若い御剣が驚異のスピードで出世街道を押し上げられているのも、
御剣の出自と潔癖さを旗印にイメージの転換を、という先程とは矛盾した思惑があるからこそ。
そんなわけで矛盾はしているが、お陰で12月28日以外は厄介者扱いされることもない。
少なくとも、表向きは。
御剣にも、上に立って成したい念願がある。
だから、衝突せずに済むところで上の言う通りにしておくのは、下策ではない。
本当は検事局に戻って仕事をしたいと思うワーカホリックの虫をそう言い聞かせて抑えながら
御剣は住み慣れた町へと車を走らせた。
父の墓は、日帰りできなくない距離ではあるが、車で数時間はかかる場所にある。
せっかくだからと昨日はその近隣に泊まり、ちょうど朝から帰途につくべく車を走らせているところだった。
目的地に着くまでには、まだ時間がかかる。
届け物は、何時になるかわからないと言っていた。
しかし、ポストを開ければ再配達も頼めるだろうから、何時に着いてもそこまで問題にはならないだろう。
――まずは本屋に寄って、今日読む本を探そう。
御剣は、特に急ぐこともなく車を走らせ続けた。
<つづく>