――とりあえず、一安心というところか。
御剣は小さく溜息をついていくらか緊張を解く。
どこか前向きではないものに突き動かされたような彼女を、どうにか収めるができたはずだ。
これから1年、気安く連絡を取ることも難しいであろうことを考えると、
彼女が傷つくような一晩にならなくて済んだことを喜ばしいと思う。
慈しむように軽く抱きしめ、顔を腕の中の髪に近付けると、ふわりと懐かしい感覚がした。
人それぞれが持つ特有の匂いと体温、そして彼女と接した部分の服越しに伝わってくる感覚。
全てがしっくりと彼の身に馴染み、この手の中にあるものが愛しいモノであることを、五感が証明している。
ただ――
――それにしても、痩せたか?
違和感を感じて、少し力を入れて抱き心地を確かめる。
しかし、肩周りが大きなパフスリーブに阻まれていて、よくわからなかった。
――脱がしてしまえばよくわかるはずなのだが。
そう思いながら、服を取り去った冥の姿と抱きしめた感覚を思い出す。
これが、いけなかった。
無意識のうちに、想像と今腕の中にある彼女の匂い――
そして頬に触れる髪の柔らかさが、即座に結びついてしまったのである。
一糸纏わぬ姿の彼女と過ごした情事の数々が、フラッシュバックのように御剣の頭を駆け抜けた。
同じスピードで、一気に体温が上昇する。
先程まで「彼女を傷つけたくない」という思いから綺麗に抑圧されていた男の性が、気の緩みと共に戻ってきたことを御剣は実感した。
ごくり、と喉が鳴る。
――これは、まずい。
この一年と数ヶ月、それどころではなく落ち込んでいたり、落ち着いたためかそこまで必要を感じなくなっていたりしたため
そのような行為をする機会が、特になかった。
そう考えてみると、生物としてこうした状況下に置かれること自体が随分久しぶりであるということに気付いてしまい――
飢えた獣が肉を前にお預けを喰らっているような目で、御剣は手の中にいる女性を凝視した。
――いやいやいや!今更本能に身を委ねてしまったら、それこそ冥は・・・。
先程の、男の汚さを全て知っていると言いたげな笑顔を思い出して、背中が少し寒くなる。
しかし、一度本格的に火のついた生理的な欲求を沈めるには、少々力が足りないようだった。
獲物となった相手の寝姿から視線を外せなくなった男は、それでもどうにか何事もなくこの場を収めるべく
できるだけ他のことに気を逸らすために頭の中で刑法の条文を1から暗誦し始めた。
――今晩、自分は眠れるのだろうか。朝までこのまま耐えられるだろうか。いや、耐えきらなければ。
そんな不安も相まって静かに恐慌状態に陥りつつ、御剣は一人真面目に努力を続ける。
だがその状態は、暗誦が比較的序盤の内に突如打ち破られたのである。
青灰色の光が、御剣の視界の中心からまっすぐ飛び込んでくる。
ぱちりと目を開いた冥の顔が上がり、じっと御剣を見ていた。
御剣の背中の神経を、ぎくりと何かが痛みを伴い走り抜けた。
「・・・ねえ」
冥の方は特に表情がなく、落ち着いているように見える。
「何だ」
何事もなかったかのように、御剣は彼女の呼び掛けに短く応じた。
「今からでも、遅くないわよ?」
「――何のことだ」
御剣が白々しく恍けると、そこでようやく冥が表情を見せた。
何もかもお見通しと言った笑顔は、優位に立っていることが嬉しくて仕方のない時のものだ。
冥は再び下の方を向くとしばらく御剣の胸のあたりに耳を当てた。
「さっきから呼吸が乱れているようだし、鼓動も大きくて速いわね」
「気のせいだ」
再度そう突っぱねると、冥は身体を起こして御剣の耳元で小さく囁いた。
「無理をするのは、身体に毒よ?」
御剣の身体がぴくりと動いたことに気がついたらしく、冥が満足そうに微笑む。
そして、馬鹿なモノを慈しむような目で御剣を見つめながら、ゆっくりと顔を近付けてきた。
このままだと柔らかい唇が、皮膚の上に降ってくる。
そんなことをされたら、彼は、もう――
「――ま・・・ま、待った!」
御剣は無我夢中で、絡みつく小悪魔に手を伸ばして掴みかかった。
痛みに響きにくそうな場所に手を置いて、どうにか引き剥がすことに成功する。
プライドを害されたのか、目の前の彼女は驚きつつもむっとした表情を見せていた。
「どうしてそんなに、その・・・そのようなことをしたがるのだ」
やっとの思いで御剣がそう問いかけると、冥は幾分表情をなくしてこう告げた。
「貴様にそれが必要なことだからよ」
それはまるで、検事席で求刑を言い渡すかのようだった。
「必要ではない!」
御剣はとっさにそう言い返した後に、この言い方だと冥が傷つくかもしれないことに思い至る。
「いや、要らないわけではないしむしろ君からのそういう働きかけは非常に避け難い誘惑に駆られるものなのだが」
そう補足を入れつつ自分の言いたいことを表現する適切な言葉を探していた御剣はふと、ある言葉を思いついた。
「――君にとっては、必要がない」
まさに、そうだと思った。この人と思う相手に本能を呼び覚まされているのに、どうしても応えられないと感じるのは。
「そう、君自身は今、肉体的にも精神的にも、私との行為を必要としているように思えないのだ」
改めて言葉を足してそう口にすると、ようやく腑に落ちるような思いがした。
相手の方にも思い当たるところがあるのか、右の二の腕に反対側の手を当ててこちらを睨んでいる。
傷に障るから、あまりその手に力を入れないでほしいものだ――御剣は一瞬そう思った。
「折角だ。それでもここまで執拗に私に迫る理由、話してもらおうか」
御剣が検事席から被告人の真実を暴くような視線を送ると、冥は弁護人に矛盾を指摘された時のような防衛の視線でそれに応じた。
しばらくそのまま睨み合っていたが、冥が途中で諦めたかのように視線を外して、ふうと溜め息をついた。
昔ならば彼女が涙目でうやむやに鞭を振り回すまで、この静かなぶつかり合いは続くものだったが
御剣の“真相”を知るまで退く気がないという気迫に勝つだけの気力が、本調子ではない彼女にはなかったのだろう。
冥は御剣から背を向けて、顔が見えないようにしてからぽつりと呟いた。
「――あなたは、明日の朝までに確認しておく必要があるのよ」
「何をだ」
意味がわからず、御剣はそう問いかける。
しばらく黙りこんだ後、メイは、今度は用意していたかのように流暢に言葉を紡いだ。
「子供の頃好きだった物って、時々やたら美化されて記憶に残るけど、
大人になって実際に再会すると思い描いてきたほどは心に響かないものでしょう」
それは、質問に対する答えとしては的外れのような気がした。
「まあ、成長によって嗜好も変わるからな。」
とりあえずそう同意してから、御剣は改めて訊き返す。
「しかし、いきなり何の話だ」
すると、冥は察しの悪い男にイライラしたように少しだけ声を荒げた。
「同じことだと言っているの」
彼女は少し息を吐いてから、幾分落ち着きを取り戻した声で言葉を続けた。
「境遇も考え方も、多くが変わった今のあなたが、過去のオンナにこだわっても仕方ないのではないのかということ。」
それを聞いた御剣は、思わず空しい笑いが零れた。
「信用がないな」
「そうではなくて」
冥なりに御剣の気持ちを労わろうとしているのか、その否定は間髪をいれずに行われた。だが――
「――私、知っているもの」
その先に続く言葉を聞いて、御剣はまた同じように笑いたくなった。
「貴様が求めていたのは、過去の記憶に飲み込まれないためにしがみつくもので――別にそれが私ではなくても良かった」
少し掠れた声でそう言ったきり、冥は何も言わなくなってしまった。
やれやれ、と御剣は思った。
「信用されてないどころか、相当のロクデナシではないか」
しばらくして彼女がそれ以上言葉を続けないと判断すると、御剣はその思いを口に出す。
「あの頃の貴様はそれがなくては生きることも難しかったのだから、仕方のないことだわ」
泣いているかもしれないと思ったが、冥の声は意外と気丈で、客観的な見解をすらりと述べた。
「――けれどもう、それは貴様にとって必要ない」
ぽつりと呟くその声は、いつになく張りがない。
「それでも貴様が私と繋がりを持ちたいと思うのなら
どん底の時期の、数少ない愉しい記憶を美化して、引きずられているだけではないかしら」
彼女にしては、ずいぶんと弱気な発言だ、と御剣は思う。
だが、彼女がそれだけ思い詰めてきたということなのだろう。
「そのまま状態で離れて一年も過ごしてみなさいな。
期待が膨らんでますます正常な判断から遠ざかるわよ」
本心を語ることの少ない彼女に更に語らせて彼女の思いを理解するのが良いのか。
それとも言葉を遮って、それは違うと伝えてやる方がいいのか。
御剣は迷ったが判断できず、せめて彼女の身体に手を回し、その力を強めることで、自分の気持ちが伝われば良いと思った。
だが、そんな気持ちも届かぬかのように、冥の言葉は他人事を語るかのように滑らかだった。
「そうして私を選んでから全部勘違いだったと気付いたら、お互い笑い話にもならないでしょう?」
そこで少し可笑しげな吐息を漏らしてから、彼女は少しだけ黙り込んだ。
「――だから、貴様は男として私にしたいことを、今のうちに全て試しておく必要があったのよ」
そこまで言い切ると、メイは最後に大きく溜息をつく。
「くだらない話をしたわね。全て忘れて」
空気が完全に、そちらの方向から遠ざかったと判断したのだろう。
御剣の太腿に置いていた片手を支えに身体を起こすと、彼の腕から抜け出そうとする。
「もう、寝るわ。ベッドは私が使うから」
メイはばつが悪いのか、ぶっきらぼうな声でそう言って前だけを向いている。
――どうして私の気持ちを、偽物だと決めているのだろう。
御剣は、憤りに近い感情が湧き上がるのを抑えられそうにない。
だがかつて、彼女を巻き込みたくなくてその土壌を作り上げたのは、確かに御剣の方だ。
それは理解している。
妹としか思えないと言い続けてきた彼の言葉と態度を、幼かったメイはそのまま受け止め続けたのだろう。
それが真実と今でも完全に思い込むほどに、しっかりと。
回復の兆しがあるとはいえ、彼女はまだ自信喪失と疑心暗鬼を主成分とした混乱の中にある。
御剣が今になってどれだけ愛情を見せたところで、そんなにすんなりとは彼女の信念を覆すことはできないということか。
だが、このまま行かせてしまうと、彼女の発言を肯定したと取られかねない。
もうほとんど自由になりかけていた華奢な体を、御剣の腕が引き寄せる。
あっさりと元の位置に収まったメイは、急に引き戻されたことに対して冷めた音色で抗議した。
「離して」
「断る」
彼女はじたばたとするわけでもなく、ただ心底呆れたように溜め息をつくだけである。
「私の気持ちが勘違いだというなら、君だって同じではないか」
彼女ははっきりとは言わないが、御剣が彼女を求めるのを綺麗な過去への未練と性的な欲求によるものと考えているようだ。
せめて後者の誤解だけは解く必要性を感じる。
「君は私を愛した。素直ではなかったが、君はひたすらまっすぐで温かかった。
――故に幼い頃から、長い間君は私の特別だった。」
そう告げると、冥の背中が戸惑うように揺れた。
「君にとっても、私の存在は少なくとも慣れ親しんだアメリカを捨てるだけの大きさはあったはずだ。」
その言葉に返事はなかったが、御剣はそのまま言葉を続ける。
「だが、君が愛情と見做してきたモノは、私への同情と年上の男に対する少女特有の憧れだったのではないか?」
御剣がそう言うと、冥の身体が硬直する。
振り返った彼女は、驚きと怪訝と軽蔑が混じり合ったような複雑な表情をしていた。
まるで、何を言い出すのかと言いたげに。
「私がつれない態度をとり続けた結果、手に入らないものほど欲しくなる気持ちが募ったのではないだろうか。」
わざと彼女を煽るような言葉を選んでいるが、この疑念は御剣が間違いなく抱えてきたモノだった。
――そうして自分は、たくさんあったはずの彼女の可能性の多くを壊してきたのではないか、と。
「そのうちにいつしか君は、同情や憧れを恋愛の情だと勘違いしたのではないだろうか」
とうとうわざわざ身体ごと向かい合い睨みつける彼女の目を冷静な目で見据えながら、御剣は持論を展開する。
「だとすると可哀想に」
鋭い視線などモノともせず、御剣はおどけた表情で彼女にニヤリと笑いかけた。
「君は勘違いで順調だった生活を捨てた上、1年もの間、私と父親との間で延々と苦しみ続けたわけだ。」
悪い冗談に辟易した御剣は、さっさと表情を真顔に戻す。
それからまっすぐ彼女を見て、彼女に問いかけた。
「私にはそう見えると言ったら、君はどう思う。」
彼女を馬鹿にしたわけではないことが伝わったのか、冥は憮然としながらも冷静に御剣を見据えていた。
しばらくの間の後、彼女は視線を落としてゆっくりと口を開く。
「勝手に決め付けないで、と言いたいわね」
冥は、冷たいながらも落ち着いた声で御剣の問いに答え始めた。
「私は自分の感じたことに従って、思った通りに動いたわ」
だが、考えるうちに段々と溜まりかねたのか、その音に強い怒りが混じり始める。
「確かに貴様にはさんざん振り回されたけど、私の感情と意志決定には、一切関係ない!」
彼女がそう言い切ると、二人はまた鋭い視線をぶつけ合う。
お互いの真意を確かめあうかのようにしばらくそうした後、御剣は視線を外さぬままに冥に語りかけた。
「そのまま君に同じ言葉を返そう」
御剣は50センチほど距離のあった、冥の身体をぐいと引き寄せる。
「私は自分の抱く感情と意志を信じている。」
きつく抱きしめると、言い聞かせるようにはっきりと告げた。
「今君を前にして湧き上がる気持ちを、過去の美化と性衝動の産物だなどと、どうしても思えない。」
それから耳元で、彼女にだけ聞こえる声で囁いた。
どうか、今度こそ届くようにと祈りながら。
「私は、君を愛している」
<つづく>