こうやってなし崩しに始まるところまで、昔とよく似ている――
目をつぶったままの御剣からも、そんな風に自嘲気味な笑みがこぼれた。
はじめは確かめるように触れていただけの口付けは、だんだんと深いものになっていく。
仕掛けた御剣の方が前に進んで、冥をゆっくりとソファに押し倒した。
息苦しさもあってか、互いの呼吸がだんだんと荒くなるのを感じる。
御剣の左腕は彼女の背中に回して自身と彼女を支え、
右手は彼女の頬や首筋をくすぐるように撫でることに専念していた。
冥も左手を御剣の背中に回して抱きついたり、背筋や脇を刺激するように指を縦に走らせる。
2年弱ぶりでも、暗黙のうちに役割や様式が守られていることに、御剣は内心で安堵した。
長いキスを終えて御剣が耳朶を食むと、冥は自分の感覚を追うことに没頭する。
時々我慢できないかのように聞こえてくる甘ったるい鼻声と、すがるように抱きついてくる腕の力をもっと手に入れるために
男は舌と唇で耳や首筋を辿り、時折軽く歯を立てた。
しばらくして少し身体を離すと、冥の目はとろんと蕩けたものに変化していた。
次の段階への準備が整ったことを察して、御剣は彼女のブローチを外し、リボンタイを解く。
いつになく素早くその作業を終えると、きっちりと首を絞めつけていたいくつかのボタンを緩めた。
ただ、それらの作業の間、一時的に戻って来ていた理性が言葉にならない違和感を訴える。
何か、目を背けていることがあると警鐘を鳴らすかのように。
だが、御剣は、顕わになった冥の首元に噛みついて、その感覚をどこかへと追いやった。
“――これでいい”
無意識のうちに、自分自身にそう繰り返して告げる。
“――少なくとも来年まで、こうすることは叶わない。もしかしたら、最後かもしれない”
弱い部分を甘く噛まれ、舐めあげられて、冥が切羽詰まったように小さく声を漏らした。
“――だったら、もう一度くらい、許されてもいいではないか”
か細い声と、時折ぴくりと反応する身体が、男の情熱をさらに高めていく。
“きっとメイもそう思って、望んで私を呼んだのだから――”
彼女もこの行為を望んでいることを自分に言い聞かせると、何故かますます気分が高揚した。
――もはや、己の行為を正当化させたい欲求がそうさせることにすら、気がつくことができない状態である。
御剣はそのまま、逸る気持ちで開けたシャツに手を差し込み、その中にあるものに触れようとする。
――しかし、彼の指先に触れたのは柔らかい肌ではなく、もっと荒く硬めのものだった。
布のようだが下着とも違うと思われる。
その感触を不思議に思い、少し落ち着いて奥へと指を滑らせていくと、ある地点にたどり着いたところで、冥の身体が小さく硬直した。
ただそれはほんの一瞬のことで、御剣が変化に気がついた時には
すでにゆるやかな所作によって男の指と彼女の身体は離されていた。
右後ろに捩られた身体と開いた服の間から、肌色以外の――面積の広い白が垣間見える。
守られるように、細長い白布を幾重にも巻かれた右肩。
つまり、御剣が触れていたのは、昨日の銃創を保護するための包帯だった。
それを認識した途端に、御剣は自分の中の獣じみたモノが、急速に凋んでいくのを感じる。
恐らく傷口を触られると感じて、身体が無意識に動いたのだろう。
その肩の持ち主は、御剣が身体を起こして自分を心配そうに見ている姿を、きょとんとした面持ちで眺めていた。
だがその表情は、何かを見透かしたと考えているかのように、楽しそうに男を見据えるものに変化する。
「どうしたの?――今更怖気づいたのかしら?」
「いや――」
一方の御剣は、大事なことに思い至ったことで、それに応じている場合ではなくなっていた。
「その、大丈夫か」
示された先にある自分の右肩を見遣って、冥も何を言われているかを悟ったようだ。
「かなり厳重に保護されているようだが」
包帯は、肩を固定するかのようにしっかりと巻かれている。
彼女の態度が表現するほど軽傷というわけでもなさそうなのだが――
「問題ないわよ。大した怪我じゃないし、鎮痛剤が効いているから」
やはり彼女は、軽くそう答えるだけだった。
「それは――裏を返せば“鎮痛剤が処方されるに値する状態”ということではないか?」
「今時鎮痛剤なんて、虫歯でも処方されるものよ」
とは言え、昨日の病院での覚束ない様子と、その状態の翌日である今日
御剣たちを助けるために街中を走り回ったことを考慮に入れると、
これから二人の間で行われようとしていることは、負担になるような気がして仕方がない。
御剣がそのことを伝えると、彼女はどうでも良さそうな様子で溜息をつく。
「大丈夫よ――貴様が一人で動けば、私には何の負担もないわけだし」
そして、自分の右肩近くをトンと叩いてこう続けた。
「コレが無粋だと言うなら、灯りを消すか、服を着たままにすれば見えないし
ついでに上体を離していれば、貴様の五感には全く影響ないはずだわ」
あくまでも、彼女はこのまま続ける気で、引きさがる気はないらしい。
追及したい内容はいろいろとあったが、このままだと口の立つ人間同士の不毛な戦いが続くことが目に見えている。
「――上体を離すと、ほとんど君に触れることができないではないか」
御剣はできるだけ違う流れになるようにと、敢えて正直な本音を選んで伝えることにした。
すると、冥は予想外なほど面食らったような表情を見せて全身を硬直させる。
その後彼女にしては珍しく、もじもじと照れるように俯いて視線を下の方へと逸らした。
その様子を見ていると、少し取り戻しかけていた保護者としての仮面が、御剣の顔面からぽろりと剥がれて消失する。
しかし、同じように戻ってきていた理性を再び手放すかどうかは、また別の問題だった。
彼女を一人の女性として想うのであれば尚更、冷静になって考えるべきことがある。
冥は自ら手を引いて、御剣をここに連れてきた。
そして、あくまで自然な所作ではあったが、大きめのソファの上でわざわざブーツを脱いだことも意図的と取る余地がある。
――何故なら、彼女は室内を靴で過ごす文化の中で生きているはずなのだから。
恐らく、彼女は“そのような”流れを作っていると思われる。
きっかけがあればあっさりと舌戦から引く様子も、その努力の一つなのかもしれない。
しかし――このまま、流されていいのだろうか。
このままでは、彼女を傷つけることにならないだろうか?
御剣は、そんな風に感じていた。
そして、そもそも今の自分と彼女は、成行きでそのようなアレに至ることが許される関係なのだろうか、とも。
恐らく、そうではない。
何度も頭の中で確認した通り、いわゆる保留中の間柄だと思われる。
少なくとも二人の今の状態は、成行きでの行為は非常に危険な、難しいところにあるはずだ。
――そのことは彼女もわかっているはずなのに、どうしてこの流れを、少なくとも許しているのだろうか。
御剣の意志を試す為、というところだろうか。もしくは、本性に失望するためか。
それとも、これが彼女が言うところの“補償”なのか――
思考のためにしばらく動きを止めていた御剣は、頬に柔らかいものが触れるのを感じて現実に引き戻される。
伸ばされた冥の指先が、ふわりと男の頬に触れていた。
飼い猫を慈しむかのように御剣の頬を撫で回す彼女の指は、心地よい。
御剣がついその感触を追うことに没頭していると、指先はゆっくりと首の方に回された。
後ろに回った利き腕は、御剣の首を軽く前へ引こうとする。
何を求められているかを察した彼は、その通りに彼女に顔を近付けた。
軽く啄むような短いキスを降らせながら、御剣は改めて実感する。
――目の前の女性への愛情を。そして、彼女と共に歩んでいきたいという願望を。
だが恐らく、このままでは今宵が最後の逢瀬となるだろう。
彼女はきっと、別れを見越してここにいる。
先程から一貫して“昔と同じ”であるかのように振る舞う彼女の不自然さが、そのことを彼に強く予感させていた。
だから彼は思った――この状況を打ち破らなければならない、と。
そのために、自分のすべきことはぼんやりとではあるが見えていた。
少しだけ距離を取った御剣を見上げる双眸は、色を帯びているように見えるが、反面醒めているようでもある。
そう見えるのは恐らく、自分達が一番大事な部分で繋がることができていないからだろう。
男にはそう思えて仕方がない。
――繋がるために、これだけは彼女に伝えておきたい。
御剣は、自分の両の手に強く力が入るのを感じた。
「あ、――」
緊張からうまく言葉が出ず、一音だけが口からこぼれおちると息が詰まる。
突然自然な息の仕方がわからなくなって、御剣は息を吸うために大きく息を吐いた。
空気を失った肺が、それを取り戻そうと急激に目の前の気体を吸い込む。
少し落ち着きを取り戻して、今度は全身をコントロールしながらひとつ、呼吸をした。
「愛して、いる」
リラックスした喉は、驚くほどスムーズにその声を解き放った。
生まれてはじめて、面と向かって彼女に告げた言葉。
部下に感謝を伝えられないくらい気持ちを表現するのが下手だった彼にとっては、驚きにも値する快挙でもあった。
しかし冥は、それを見て仕方なさそうに笑うだけだ。
「識っているわ」
絵空事の夢を語る幼児に向けるように、彼女はいつになく優しく受け流す。
言葉の通り“しっている”だけで、彼女は男の心情を理解できていないと思われた。
しかも、行為の前に性欲を正当化しようという言動に捉えられたような気もしてならない。
タイミングが悪かったのだろうか、と男は内心で少し落胆と狼狽を味わった。
それでも、何かしらの好意が受け止められているような気がするのは、大きな進歩と言えよう。
そう考えて、男は気持ちを持ち直す。
――ただし、このまま茶番を続ける気だけはさらさらなかった。
「メイ」
名前を呼んで、それから一度だけ軽く唇を合わせると、そのまま向かって左の頬に口づける。
もう片側の頬、額、髪、耳、首筋にも――同じように短いキスを絶え間なく続けた。
そうしながら、開いたままだった彼女のシャツのボタンを閉じていく。
不器用者の彼には、非常に時間のかかる作業だった。
「な、――どうしたのよ、御剣怜侍!」
先程までのものとは違って性的な匂いの薄いものを数多く与えられたことで、
それを受け入れる側の冥は戸惑いを感じているようだった。
状況が呑みこめない様子で、御剣が触れる度に「なによ」「どうしたの」を繰り返す。
ボタンを留め終えた御剣が彼女の手を取って、指先やら手の甲やらにキスを降らせている頃には
彼女は無理やりに起き上がって、その手を離そうと苦心していた。
何度か目が合うたびに、御剣は彼女に向けて目を細め、すぐに自分の“仕事”に没頭する。
いつになくうろたえる表情の彼女を見ていると、何故か独りでに笑みがこぼれた。
生理的な欲求のためでも何かを清算するためのものでもなく、
冥といると無条件で湧いてくる温かい感情があることを、少しでも伝えられれば――彼はただ、それだけを願っていた。
満足するまでそれを続けて、御剣はようやく顔を上げる。
キスの合間に無造作に撫でられたことでボサボサの髪型となった彼女が、ぺたんと座りこんでこちらを睨みつけていた。
とりあえず髪を整えてやろうと、御剣は向かい合った彼女の髪に両手を伸ばした。
話ができる状態になったことを察したのだろう。
されるがままになりながらも、冥は「何がしたかったの」「意味がわからない」などと続けざまに悪態をつく。
御剣が何も口に出さぬまま上機嫌で髪を梳いていると、気持ち良さそうにしながらも、彼女はとうとう声を荒げた。
「何とか言ったらどうなの、御剣怜侍!」
その挙動からは、少し前までの妖艶で大人びた様子とは違って、すっかり年齢相応の幼さが滲み出ている。
御剣は無意識に目を細めながら、目の前の彼女を見て浮かんできた本心をあっさりと外に漏らした。
「――本当に、君は愛しいな」
みるみるうちに、冥の頬が真っ赤に紅潮していき、顔全体へと広がりを見せる。
その様子を
眺めているうちに、御剣の感情はより強いものとなっていった。