エレベーターが目的の階に着くなり、ぎゅっと握られていた手はあっさりと解放される。
御剣を捉えていた手の持ち主は、鞭と部屋の鍵だけをその手に持ち、颯爽と前を歩いていた。
彼女はとある部屋の前でピタリと止まると、御剣が追いつく前にその扉を開く。
そして彼を一瞥だけすると、待つこともなく部屋の中へと消えていった。
当然のようにソファで寛ぐ女を横目に、二人分の荷物と外套の世話をする。
クローゼットの扉を閉めながら、男はふとこう感じた。
――まるで、昔のままだ。
普段は自分一人で完璧にしているはずの身の回りの雑事だというのに、
御剣と二人きりになると、冥はさも当然のように彼にその一部を投げてしまうことがあった。
特に、二人が“そのような”関係になった辺りからはその傾向が顕著だったと御剣は思う。
当時の彼女がどういうつもりだったのかを知る術はないが、御剣にとってはそんなに悪い思い出ではない。
彼女が自分に甘えている証拠だと内心を躍らせながら、表面的には兄貴分らしく小言を言って見せたりしたものだ。
「全く――外套ぐらい自分で仕舞ったらどうなのだ」
――そう、例えばこんな風に。
「いいでしょう?むしろ居心地の悪そうな貴様に仕事をあげたんだから、感謝して欲しいものね」
返ってくる憎まれ口も、相変わらずだった。
片手のみ自由がきく彼女だったが、器用にバランスを取りながらブーツを脱いでいく。
ほどなく2本の脚が、ソファの上に投げ出された。
「こら、行儀が悪い」
それを見た御剣が咎めるが、彼女は一瞬だけ視線を合わせただけで、どうでも良さそうに部屋を見渡していた。
「――メイ」
濃い色のストッキングに包まれているとはいえ、その脚線のほとんどは無防備に晒されている。
どこか異性の本能を呼び覚ますそのシルエットに、御剣は無意識に声を低くした。
「そんな恰好をするものではない。」
「今日はたくさん足を使ったから疲れているのよ。」
気だるそうな口答えを聞きながら、男は彼女の前に回り込む。
「そういう問題ではなく――無防備すぎると言っているのだ」
座ったまま彼を見上げる女の視線は、わざとらしいくらいに不思議そうなものだった。
「そもそも男を何の躊躇もなく部屋に引っ張りこむこと自体が無防備にも程がある。」
昔は兄妹同然だからと、そんなに問題とは感じなかったが――今は、そうではない。
今の彼らはただの男と女である――しかも、少なくとも男の方の懸想が表明されている状態の。
彼女は1年間考えて答えを出すと言ったはずだ。
なのに、こうして夜更けに彼をここに連れて来た。その時点で――
「勘違いをされても仕方がないことをしている自覚は、もちろんあるのだろうな?」
半分脅しのつもりで、御剣は冥に顔を近付けた。
彼女が何も考えずに、昔と同じ調子で彼をここに連れてきているつもりならば、
30センチにも満たないこの距離によって、少しは立場を自覚してくれるはずだ。
「あら」
しかし、目の前の涼しい顔は動揺一つ見せずに、いろんな意味で挑発的な笑みを返してくるだけだった。
「――これでも、人は選んだつもりなのだけれど?」
事もなげにそう言い放つ、いくらか色を帯びた声。
男は背筋の奥から、えも言われぬ衝動が湧き出すのを感じる。
それが全身に巡る感覚に包まれるうちに、彼は先程まできっちりと被っていたはずの仮面をいつの間にか手放していた。
みるみるうちに表情を彼女と同じものに変化させつつ至近距離まで近づくと、男は少し意地の悪い声で囁く。
「だったら、何があっても後悔しないことだな」
男はそれだけ告げると身体を屈め、唇を重ねる。
彼女も何の抵抗もなく、ごく自然な動きでそれを受け入れた。
だから、彼が気付くことはなかった。
唇が触れたその時、彼女が満足そうに――しかし自嘲気味に、唇を歪めて笑ったことを。