「事件現場の亡骸と比べれば、確かに大したことはないが――十分に深い傷ではないか」
当初の約束通り介助――入浴や着替えの手伝いをする過程で、御剣は冥の傷を見た。
入浴は許可されているとのことで、薬や替えの包帯などもしっかりと揃っている。
――あれだけ自暴自棄に見えたのに、そういうところでは持ち前の完璧主義を発揮できていたらしい。
そういうちゃっかりしたところが彼女らしい、と御剣はしみじみ思ったものだが――それはさておき。
薬を片手に守られたところを目の当たりにした御剣は、しばらくはいたたまれなくて何も言えなかった。
しかし、不器用な手で包帯を巻き直し始めたあたりで、溜まっていた小言を繰り出し始める。
「大丈夫よ。今のところ何ともないわけだし」
彼女はそう受け流すものの、家族や恋人が受けた傷として見るには――やはり辛いものがある。
「明日からの君が心配だ。無茶をしないか……全く、先が思いやられるな」
御剣がそうぼやくと、冥は他人事のように「心配性ね」と笑った。
甲斐甲斐しく世話を焼いている御剣をぼんやりと眺めながら、冥がぽつりと呟いた。
「――朝になれば、もうこんな風には居られなくなるのね」
「――そうだな」
幾分素直になった冥が感慨深げに思いを口にしているのを見て、御剣も同じような思いでそう呟いた。
「だが、何かあれば連絡してくるといい」
そう伝えると、冥は何かが引っかかるような表情を見せた。
「来年まで離れて考えると約束したのを忘れたのかしら」
「互いの気持ちは確かめ合ったというのに、あの約束はまだ有効なのか?」
てっきりあの約束は反故になったものと思っていた御剣がそう尋ねると、冥は物憂げに目を伏せた。
「あくまでも、今夜のことはこの部屋の外のことを忘れた上での結論だもの」
彼女にとっては、互いの気持ち以外の部分で考えるべきことが残っているということなのだろう。
「――そうか」
そこは尊重すべきだろうと、御剣は異議を唱えず相槌を打った。とはいえ。
「それでもやはり、万一の時には助け合えたらと思うのだが」
向こうで復職する時や、万一銃撃のトラウマが襲って来た場合に、力になりたい。
そう思って御剣が提案すると、冥は真顔で目を閉じ、小さくゆっくりと首を横に振った。
「別に手を貸すのは構わないけれど、私は絶対にあなたの力は借りないわよ」
何ともつれない返事だと、御剣は内心少しがっかりとしたような、寂しいような気分になる。
「それはありがたいが……君も遠慮する必要はない」
ようやくしっかりと包帯を巻けるコツを掴めた男がそう伝えるが――
「そういうわけじゃないわ」
冥は、御剣の作業に合わせて身体を少し動かしながら、御剣の申し出をあっさりと固辞した。
「いろいろと立て直す作業は、自分の力だけでやり遂げたいから」
そう告げて御剣を直視する目は、その色に合う静けさを伴っている。
「そうではないと、意味がないの」
「……そうか」
それ以上言い説く余地がないことを悟って、御剣は引き下がる。
寂しいな、と御剣が呟くと、冥は少し満足したように笑った。
御剣にとっては寂しいことだが――確かに、せっかくさまざまな呪縛から解放される機会なのだ。
彼女は一人で広い世界に触れてみた方が良い。
二人の間にある問題と、彼女の苦悩を考えれば――尚更だ。
御剣と二人きりの世界で完結してしまうと、彼女はさまざまなモノの重みで潰されてしまうだろう。
――例えば、ある種の劣等感や罪悪感など。
そうなった時、彼女に逃げ道となる場所がなければ、より追いつめられるであろうことは目に見えていた。
今までの閉塞した環境を脱して、さまざまな価値観に触れ、世界を広げたその後で
それでも御剣怜侍がいい――そう彼女が思えた時こそ、二人はようやく真の意味で並んで歩くことができるはずだ。
――もちろん、互いの事情に気持ちの整理をつけることも同時進行で行うべきだが。
そして、御剣も同じ理由で世界を広げる必要があるのだろう――彼女のためにも、彼自身のためにも。
会えない1年間は、そのための時間に使えば良いのだ。
そう前向きに結論付けたことで、御剣は穏やかに声を発することができた。
「1年間繋がりを持てないのは残念だが、次に君と会うのが楽しみだな」
そのせいか、冥の反応もここ数日の様子とは打って変わって非常に和やかだった。
「吃驚して醜態をさらさないように、せいぜい首を洗って待っておくことね」
「――ああ、楽しみに待っておく」
そう返しながら、御剣ははだけた肩に夜着を被せた。
御剣の言葉に対して、冥は何も言わずに悪戯っぽい笑顔を浮かべている。
背中ととんと叩いて作業の終わりを伝えると、彼女はゆっくりと立ち上がり、眠そうにベッドの方に身体を向けた。
1年後、こんな風に軽口を叩いて笑い合うことができればいい。
そう願いながら御剣は、冥の身体を後ろから抱きしめた。
“――それでは、次の春に”
次の朝の別れ際、御剣がそう声をかけると、冥も同じように繰り返した。
その時少しだけ心細そうに困り笑いを浮かべていた彼女は、それっきり振り返らずにゲートの中へと消えていった。
<おわり>