「Resynthesis」

 

冥が、息を飲む音が聞こえた。

「母上の手を煩わせるのは、抵抗がある様子だな。」
見透かすようにそう言うと、俯いたままの冥が、唇を噛むのが見えた。

「正直なところ、それは私も同感だ。」

この件を複雑にしているのは、結局は終わったはずの御剣と狩魔の因縁の延長上にあるものに他ならない。
どういう顔をして冥の母――あの人の夫人だった人――に会えばいいのか。

本音を言うと、御剣もわからなかった。

「そこで、それに代わる提案を考えた。」
できれば、冥がこの提案を受け入れてくれることを祈りながら、御剣は表面上淡々と要求を告げる。

「私を、その子の一人目の友人にしてくれれば、先の要求は私の中に留めておこうと思う。」

すると――やはりというべきか、冥はひどく不機嫌そうな表情で御剣を凝視した。
「友人、ですって?」

「具体的には、毎年その子の誕生日の付近に必ず面会し、祝う権利が欲しい。
君にはそのパイプ役を担ってもらう。」

意味がわからない、と言いたげな視線を、御剣はできる限り気付かないふりをする。
御剣が彼女の父から離反してから、契機の度に向けられた表情だ。もう慣れている。

「その子と友人として時折連絡を取り合い、成長を見守ることができれば、私はそれ以上は望まない。」

つまりは、彼女の方針に従う代わりに、“友人の立場”という見返りを求めるということだ。
その意図を理解したのか、冥は半ば呆れたように溜息をついてから、再び御剣に向き直った。

「どういうつもり?
自分のコドモかどうかもはっきりしない、ただの子供にそこまで執着するなんて。」

彼女が産んだ子が自分の子ではない、という可能性は考えなかったわけではない。
ただ、お人好しと言われようが、そこは心配していない自分がいた。

もしその子が御剣の子でないならば、恐らく彼女はそんな曖昧な言い方はせず、
あっさりと真実を語って御剣を軽蔑させるくらいはしそうなものだ。

むしろ、身の安全のために、この家を引き払って逃げたかもしれない。

《彼女自身》にはそうした後ろ暗いことがないから、今、こうしてここで対峙している。
御剣はそう結論づけていた。それに――

「私の子ではなくても、君のきょうだいであるならば、その子は私にとっても同様の存在だ。
兄がきょうだいの誕生日を祝うのに、理由が必要だろうか。」

たとえ本当にただの養子でも、万が一御剣以外の誰かと冥の子であっても、そこは間違いないのだ。

冥は基本的には御剣をここから追い出したいようだが、そこにあるのは全力の拒絶ではない。
御剣の淹れた茶を特に抵抗なく飲んだ時、ふいに見せた懐かしそうな表情が、それを物語っていた。

少なくとも、互いの中に“兄妹”としての情は存在している。
だから、赤子の“兄”になることには、特に抵抗などない。

思った通り、冥はいつもの、お人好しの馬鹿者を見る時の表情で、そんな御剣を眺めていた。

「‥‥バカのバカによるバカのための詭弁ね。」
「本心なのだから、仕方があるまい。」

そのやりとりで、お互いの話に少なくとも《嘘》がないことは理解し合えたと感じられた。
少し安堵しながら、御剣は言葉を続ける。

「それにその子に対しては――同類相憐れむ、とでも言えばいいだろうか。」
「同類?相憐れむ?」

「君はいつか、その子を突き放すだろう。今、私にそうしているように。」
そう言い切ると、冥は再びばつの悪そうな表情を見せる。

それから、何事もなかったかのように開き直った笑顔を浮かべた。
隠し事を言い当てられた時の、特有の反応だった。

「当然よ。いつか自立してもらわないといけないのだから。
養育者がコドモを突き放す時期は、必ず来るものでしょう?」

「それは表向きの理由でしかない。」
御剣は、もっともらしい逃げを一言で封じた。

「君はいつか全力で、その子を突き放す。私にそうしたように。
恐らく君は、そうしなければならないと考えているはずだ。」

冥は、他人事のように、だが強く目を閉じてやり過ごしているようだった。

「その子が泣いて嫌がれば、それまでの愛情を全否定してでも、君は強引にその子を君のテリトリーから追い出すだろう。
君は既に、そういう鬼となる覚悟を決めている。」

冥は、仮面を被ったような不自然で防衛的な笑みを浮かべた。
「――何の証拠もなく、バカなことを言うものね。」

「その子に与えられた名だけで、証拠としては充分だと思うのだが。」
御剣は少しだけ喉を潤して、ポットから茶を注ぎ足した。

「実質、この子を養育しているのは君だ。
それなのに、その子に与えられたのは、君の母上の姓だ。」

不自然と言わざるを得ない、と付け加えながら、御剣はできるだけ涼しい顔を決め込んだ。

「狩魔の名は、今も昔も鉛のように、君に纏わりついている。」

まるで墓標を背負って歩くかのようなそれは、もはや呪いのように見えた。

さすがに棘のない言葉を選んではみたものの、彼女にはその言外の含みが届いてしまったらしい。

「私は、この名に誇りを持っているわ!」
彼女は、ひどく怒って声を荒げた。

その音に驚いたのだろう。
彼女の横ですやすやと眠っていた赤子も、声を上げて泣き出した。

「君にとっては、そうなのだろう。」
御剣は、彼女の言い分を今回は受け入れた。

「どれだけ重くても、自分にとって価値があるから、君はそれを背負うことができる。
けれど、君はそれを他者に背負わせる気はないはずだ。」
冥は、泣く子を宥めながら、ひどく重苦しい表情を浮かべている。

「君は母上を、恐らく説得して旧姓に戻した。そして私との婚姻を徹底的に避け、私を遠ざけた。」
狩魔であることが、その縁者であることが、どういう影響を及ぼすかをよく知っているからこそ、彼女はそうしたはずだ。

「君は、その子に狩魔の名を与えなかった。
つまり、その子が成長した時点か、あるいは君の縁者であることでその子の人生に影響が出ると判断された段階で、
君はその子との縁を切る。――これは既に決定事項であるはずだ。」

母親の感情に共鳴しているのだろうか。
赤子は声こそ小さくなったものの、不安そうにぐずっているようだった。

その子を大事そうに抱えつつも、冥は御剣に向き直って、はっきりと言い切った。
「バカバカしい妄想だわ。」

「私は断続的にとはいえ、20年もの間、君を見てきた。
君の様子から思考を探るのは、そんなに難しいことではない。」
「それが、妄想だと言っているの」

赤子を抱いて、彼女自身が少し安心できたのだろうか。
それとも、御剣が彼女の目論見を言い当てたことで開き直ったか。

冥は再び顔を上げて、御剣を見据えている。
その眼はやはり遮断や決別を示していたが、暗闇に呑まれたような表情よりは遥かにましだった。

「どちらにせよ、この子に支援者が複数いても、将来損にはならないはずだが」
「あなたが助けてくれなくても、こちらは問題なくやっていけるわ。」

とはいえ、取りつく島がないまま平行線を続けるには、時間が足りない。

休暇は数日しかない。
そして、この機を逃すと、恐らく冥はここを引き払ってでも逃亡を図る可能性が高いのだ。

だとすれば、逃げ場を失くすのが一つの方法だろう。
「そうか。訴訟を取り下げるための和解案としては平和的なものだと思うが、納得していただけないか。」

御剣が皮肉っぽくそう告げると、案の定、冥が牙を剥いた。
「――脅迫するつもり?」

「私は自分の権利を行使するだけだ。」
御剣は、白々しくそう答える。

その態度に腹を立てたのだろう。
冥はますます目を吊り上げた。

それから、何かを言おうとしたものの、少し言い淀み――それから再度、思い切ったように口を開いた。

「それが自分の不利益になるとしても?」

当然のように御剣が頷こうとすると、視界を何かに遮られた。
どうやら、赤子を寝かせていたタオルを投げられたらしい。

「いきなり、何をするのだ!茶器が割れでもしたら――」
「あなたが考えなしに答えようとするからでしょう?!」

二人の声に、また赤子が不穏な声をあげる。
声の主たちは、慌てて口を閉ざし、それから互いに嘆息して座り直した。

身体を揺らしてしばらく子をあやした後、冥は声のボリュームを下げて話を続けた。

「いいの?――下手に揉めれば、この件は外に知られることになる。
事実とは関係なく、あなたは父親を殺した人間の血を引く隠し子がいるという風評を立てられるわ。
それでもいいというの?」

「いいと思ったから、私はここに来て君と話しているのだが」
御剣がそう答えると、冥はいつものように呆れたような表情を見せた。

それから、再び御剣を直視する。

「あなたは、わかっているの?あなたの周りに集まる中には、あなたが……
……あなたが、御剣信の息子だから協力している人間もいることを。」

しばらく鋭い眼で見つめた後、冥は言葉を続けた。

「何を犠牲にしてでも、あなたは自分の信念を叶えると誓ったわね。
だったら、バカバカしい騒ぎなど起こしている場合ではないでしょう?」

彼女の言うことは、確かにもっともだ。
しかし同時に、歪でもある。

御剣はもう、そのことに気が付いていた。

「だとしても、その責任を君が全て引き受けるのはお門違いだと思うのだが」
淡々とそう告げると、冥は一瞬で肩をいからせた。

「何ですって?」
「私たちがもうパートナーではないというのであれば、君が私を慮って動く必要はない」

御剣の言葉に、乳呑み児を抱えたまま、女はたじろいだ。

「私が守りたいのは……」
「君が第一に守りたいのは、その子だろう?」

御剣はその次か、あくまでも“ついで”に過ぎないことは、理解できていた。

「だが、その子を守る責任は、姉である君よりも実の親や養親の方が重いはずだ。
君は、彼らの義務や権利を大いに侵害している。」

正論であることは伝わったのだろう。
冥は、奥歯を噛みしめながら御剣を強く睨んでいた。

「だとしたら、私がそこに便乗することに、君に異議を唱えられる筋合いはない。」
煽るようにそう結論付けて胸を張ると、冥の身体がわなわなと震えた。

「人の気も、知らないで……!」
「ふむ、君のキモチとやらについて、興味がある。教えてもらおうか。」

「――教える筋合いは、ないわね」
怒りの余震を微かに見せながら、冥は低い声でそう笑った。

――これ以上下手に怒らせると、赤子を投げるかもしれないな。
御剣は、冥の悪癖の一つを思い出して、少しだけ不安を感じる。

「君はもうソレについての証拠品を提示しているではないか」
「――証拠品、ですって?」

「自分の右手を見るがいい。特に指のあたりを。」

その宣告の数秒後、冥の顔が青ざめた。

「そんなにキラキラと目立つというのに、何の疑問もなく着けてくれているのだな」

御剣が贈った約束の指輪が、天井からの照明をチラリと反射する。

一年ぶりにこの部屋に入って、一番に確認したのは子の存在。
次に確かめたのが、この指輪の在処だった。

「これは――!」
「それを着けている以上、君は私との約束を忘れていないし、裏切ってはいないということだ。」

彼女への愛しさを、これ以上顔に出さずにはいられなかった。
「つまり君は、パートナーとして、私の将来を守ろうとしているという結論になる。」

若干緩んだ顔のまま、そう突きつけると、冥はそれでも攻防を放棄する様子を見せなかった。
「これは、外すのが面倒だっただけよ。」

「君がもし私を見限っているのだとすれば、ソレはその時点でとっくに捨てられているはずだ。」

“人の気もしらないで”という彼女の言葉は、そういうことだ。
御剣の思い込みではなく、ほぼ確実に彼女は御剣のことを大事に思っているのだ。

「君にとって私がパートナーであるならば、その責任は等分すべきだし、私はそうしたい。」

彼女の様子が、そして御剣との関係が歪になってしまったのは、彼女が二人分の責任を全て負ってしまったから。
そして、彼女がそうせねばならないと思い込んだのは、一人で抱え込みやすい彼女の性だけではない。

「だから、私が負うべきものを、私に返してくれないか」

御剣が立ち上がると、冥は俯いてしまった。
歩み寄ってその顔を覗き込むと、目が今にも決壊しそうに潤んでいた。

「私は君から、頼るに足りないコドモのように見えていたのだろう?」

すまなかったと声をかけると、唇がぎゅっと閉じられる。

「もし君が愛想を尽かしたのであれば、全てを君に任せて、守られる立場に甘んじようと思った」

だから、御剣は彼女に会いに来た。彼女の本心を知るために。

「だが、その指輪と共にその子を抱えるというのであれば、私にもその《重み》を分けてほしいのだ。」

御剣が手を差し出すと、その意図を理解したように冥の両手が強張る。
しばらくの躊躇の後、赤子へと伸ばされた御剣の腕に、その重さが与えられた。

危なっかしい御剣の腕の動きをサポートするようにしながら、冥がその大事なものを御剣に預ける。

「どうなっても、もう知らないから……!」

俯いたまま御剣と向き合う彼女の室内着に、ぱたぱたと水滴が落ちた。

「ああ。どうにか、どれも失わないように努力するさ。」
「欲張りにもほどがあるわ。」

忌々しさと弱さに揺れる声に、御剣はできるだけ優しく答えた。

「ああ。私は貪欲で傲慢なのだよ。
君の情に胡座をかいて、君とその子を手に入れようする程度には。」

その言葉の返事は、平手となって背中に降って来た。

大して痛くはないその制裁に苦笑しながら御剣が身体を寄せると、
愛しい人は同じ強さで身を寄せ返してくる。

1年ぶりの懐かしい温度が、ひどく心地よかった。

 

腕の中の小さな命が、ぼんやりと視線を御剣の方に向ける。

その光は氷のような青ではなく、鏡の前でよく見るものとよく似た薄茶色だった。

<おわり>