右手を、ぼんやりと天井にかざす。
利き手の逆側の薬指に嵌ったリングが、照明を反射した。
この指輪を介して誓った約束は、守れているかどうかわからない。
ただ、今回はコレに非常に助けられた。
突然呼び出された母親は、初めは流石に絶句していた。
失踪同然だった娘が妊娠していて、所縁のない国で子供を産もうとしていたのだから、それも仕方がない。
“この子が生まれたら、母の戸籍に入れてほしい。”
そう頼んだところ、母はちらりと冥の右手を見てから、冥に尋ねた。
――その指輪は、この子の父親から貰ったものか、と。
冥が肯定すると、母は小さく溜息をついた。
この指輪はマリッジリングだが、マリッジリングにしては、かなり高価な部類だ。
そのお陰で、旅の途中に何度か追い剥ぎらしき暴漢に遭遇したこともある。
幸い鞭で撃退できる程度のモノで済んだのだが、それはさておき。
そんな高価な指輪を送る主は、冥に相当入れ込んでいるか、もしくは相当の金持ちであるか。
どちらにせよ、冥が一人で密かに子供を産みながらも相手からの指輪を外していないということは、
それなりの情と事情があることは、推測できるはずだ。
それ以上何も追及することなく、母は冥の依頼を引き受けた。
母は父親候補を思いついたのかもしれないが、何も聞いてこなかった。
無事に出産と小芝居と手続きを済ませて別々にアメリカに帰った後、
母は後から戻って来た冥に、子供の養育のほとんどを任せている。
勿論、法律上の保護者として数日に一度は様子を見に来るが、
母親としての実質の義務と権利は冥に委ねてくれていた。
子供が先程ようやく眠りに落ち、冥はリビングの寝椅子の上で、短い休息に身を委ねている。
あの日、突然妊娠の事実と胎児が死にかけているということを同時に知らされた。
――子供を生かすか、殺すか。
直後に医師からストレートに選択を迫られた時、迷いなく即答した。
子供は、殺さない。全力で生かしてくれ、と。
狩魔の人間が、御剣の血を引く子を殺すということは、あり得ない。
しかし、子供を生かすことを決めて安静にしているうちに、冥は一つの結論に至った。
――この子の父親の正体が世間に知られれば、彼の将来を傷つけかねない。
狩魔の人間が、これ以上御剣信の血を引く人間に害を与えてはならない。
それは、子供の父親に対しても、同じことだった。
だから出産直前まで、《父》と《子》、どちらにもできるだけ不利益を被らない方法を、冥は探した。
その結果、彼に何も伝えないことにした。
そして、子にも因縁を背負わせずに、素性不明の子として生きていかせる方がまだ良いだろうと判断した。
ただし、自分の力で生きていけるようになるまでは、手元に置いて守る。
その結論を実現するために、そこそこ治安が悪くなく、かつ外国人が養子をやりとりすることに関して法律が緩い――
そんな国や地方を探し、《身元不明の無責任な女》として出産し、《旅で出会ったアメリカ人女性》に子を委ねた。
それでも、生まれてきた子が開いた目に御剣と同じ薄茶の光を見たときに、
押し込めていた感情が溢れてしまったのも事実だった。
母は狩魔豪の死後、彼との婚姻を終了させているので、既に狩魔の人間ではない。
だから、その母の戸籍に入るこの子は、《狩魔》としての呪縛からは自由だ。
子供は自分の出自を知らされぬまま、《遠い国で生まれた孤児》として生きる。
その方が、《殺人犯とその被害者、両方の血を引く子》よりマシだとしても、背負うものがあることに変わりはないのだ。
そんなこの子の人生に、冥は、法律上の義姉として関わっていく。
そして御剣怜侍は何も知らないまま、きっと冥のことを忘れて、新しい人生を歩むはずだ。
冥もそのうち検事として仕事に復帰するつもりだが、そうなれば、何処かでまたあの男と出会うこともあるだろう。
新しいパートナーを見つけた彼を目の当たりにして、意外とショックを受けるのかもしれない。
その時、どんな顔をすればいいのか、冥にはまだよくわからない。
けれど、きっとまだ未来の話。
そのうち腹を決めてしまえばいいのだ。
うとうととしながら、そんなことを考える。
子供は昼夜の区別がまだうまくつかないらしく、昼夜を問わず派手に泣いてくれるので
最近昼だろうが夜だろうが、眠くて仕方が無い。
――ふと、泣き声が聞こえる。
たぶん、お腹が空いた時の声だ。
のろのろと起き上がり乳児用の寝台を見ると、子に向けて身体を丸める人影があった。
「ママ、私が抱くわ」
何の疑問もなくそちらに近づいた冥は、数秒の後、ふと気付いた。
ベッドの人影は、女性である母にしては体格が良すぎる。
そう判断した瞬間、冥は近くにあった護身用の鞭を手に取り、迷いなく振り下ろした。
相手は侵入者で、子供に近付いている。
本気で叩く理由は、それだけで十分だった。
「ぐっ…!」
侵入者は呻き声を上げたが、倒れたりはしない。
赤子は泣きながら、その男の指をしっかりと握っていた。
男は、まるでその繋がりを切らぬようにと体勢を保ちながら、涙目で冥に対峙する。
その瞳の色は、子とそっくりな、薄茶の目。
――そこにいないはずの御剣怜侍が、冥の前に立ちはだかっていた。
<つづく>