自分なりに見聞したことを、あらかじめ書き留めておく。
狩魔冥が検事を辞めたのは、もう1年近く前のことだった。
担当していた事件がいったん落ち着き、国際警察本部での報告中に倒れ、近くの病院に運ばれたという。
当時付き添った狼士龍によると、一時は物騒なほど管や機械を取り付けられていたらしいが、命の危険は回避できたとのこと。
ただし、1ヶ月は絶対安静の上、一年間の静養が必要であるという診断が下された。
挙句に、当分は飛行機に乗ることができなくなったらしい。
アメリカに戻ることは、不可能ではないがしばらくは難しい。
世界中を飛び回る国際警察の仕事も、少なくとも一年は穴をあけることになる。
その状況で彼女が下した決断は、「退職」だった。
医師からの診断書と退職届は、国際警察を通じてアメリカの検事局に届けられた。
そこに記された病名はプライバシー保護のため、非公表。
その件について、アメリカからそれ以上引き出すことはできなかった。
そして、狩魔冥は、2ヶ月の入院の後に退院している。
飛行機に乗れる状態に落ち着くまで、欧州を旅して回ると言って、彼女は姿を消した。
狼士龍が個人的に何度か行った生存確認の連絡には、彼女は毎回律儀に応じたという。
その理由には、恐らく一柳弓彦を海外に逃がすという、例の計画が影響したのかもしれない。
職を失った彼女には、人を推薦する権限がない。
その点で、仲間であった狼に協力を仰いだのだろう。
弓彦の海外への異動は、狼の推薦であるというのは、狼本人から聞きだすことができた。
そして、その元凶について調査したことをまとめると、以下の通りである。
検事局長によると、狩魔冥からの嫌がらせに関する《相談》は、退職の数ヶ月前に、一度あったとのことだった。
しかし局長が検討する旨を伝えた後、しばらくは特に動きはなかったという。
御剣が思うに、局長はことを荒立てるようなことに乗り気ではなかったであろうし、
狩魔冥はその時期は絶対安静中で催促のしようがなかった、というのが実際のところだろう。
それが、ある時突然一柳弓彦を通じて、彼女は告訴の意思を伝えてきたのだという。
その際、嫌がらせと脅迫の証拠のリストと複製品の一部、証拠から裏付けられる犯人の一覧、
それに彼女が退職に至った診断書のコピーが提示された。
“ストレスと過労による、深刻な体調不良”
そこには、それだけが記されていた。
退職と嫌がらせの因果関係は立証が難しいとしても、証拠品と犯人、
そして冥たちが日本から出ざるを得ない実情と脅迫の因果関係は完璧に立証する準備がある。
弓彦が、局長にそう伝えたという。
――これは、復讐ではない。
自分たちは国外での安全を確保しているので、もはや何も怖くはない。
しかし、これ以上同じ立場の被害を出さないための処置は、行わせてもらう。
そう断言されて、局長は戦慄したことだろう。
リストに並んだ名前の中に、事務職から検事まで、局内の人間の名が両手の指の数くらい並んでいたのだから。
ただでさえ司法の世界は、度重なる不祥事で不信の目に晒されているのだ。
しかも傍から見れば、良い歳をしたオトナが、幼稚な手口で2人の若造を寄ってたかって追い詰めた構図である。
それが犯罪加害者の家族だとしても――いや、ある意味、だからこそ、
《自身は大きな罪を犯していないコドモたち》の方が、同情の視線を受ける可能性がある。
つまり、検事局が更なる批判に晒される事態になりかねない、というわけだ。
そこまで理解した局長に、弓彦は逃げ道を提示した。
あくまで、自分たちの希望は再発の防止である。
組織として、早急に対処がなされるのであれば、司法関係者への告訴は無期限に保留する、と。
そうして内々に対処が行われた結果、定例の時期からはいささかズレた人事異動が行われ、
幾人かの職員が依願退職した。
出世を望む者、先代の狩魔や一柳に人生を狂わされた者、およびその家族、そして純粋に《正義》を希求する者。
リストに挙がっていた職員の名を辿ると、ただの悪意とは言い切れないものもそれぞれの背景にあり、御剣を唸らせた。
――それでも、何もしないまま尻尾を巻いて終わらせることは、どうしてもできなかったのだろうな。
首謀者の性格を考えて、御剣はそう思う。
金髪の後輩検事が言っていた通り、御剣の政敵を蹴落とすことも考えていたのだろう。
そして、確かにそれは置き土産として、充分に機能した。
彼らが動いた結果、《政敵》にあたる人間が、片手では足りないくらいの数、蹴落とされた。
その結果、御剣が出世の階段を上がる可能性が高まり、ついでにその時期も早まった。
しかし冥の個人的な意図は、別のところにあったのではないか。
御剣は、そう感じるのだ。
狩魔の人間と関わることの公人•私人としてのリスクを間接的に明らかにすることで、
御剣が彼女を追わないようにするための足止めとしたかったのではないだろうか。
調べてみると確かに、《狩魔豪の娘》に対する《世間》の風当たりはひどいものだったが――
――見くびられたものだ、と御剣は思う。
自分たちの信頼関係は、その程度で終わるものだと思われていたのか、と。
だが恐らく、そんな落胆すら彼女の術中にあるはずだ。
そうやって、御剣が冥への気持ちを消していくことも、彼女の願いである可能性があるのだ。
だから御剣は、必要以上には感情を揺らさないことにしている。
その代わりに、粛々と事実関係を調べ、真相と向き合うことに余暇を割いていた。
“自分がどのような選択をすべきかを考えるために、真相を知りたい。”
御剣が成歩堂の問いに返した答えは、そういうものだった。
狩魔冥がいなくなったのには、理由がある。
彼女が置き土産として残したもの以外にも、いや、その裏に恐らく、隠された何かがある。
そうでなければ、つまり単に御剣に愛想を尽かし、理不尽な日本から逃げたいだけならば、
彼女は無言で去ればよかったはずだ。
しかし実際には、後輩を動かして意趣返しを行うなど、不可解な行動が重なっている。
彼女に、一体何があったのか。
御剣は、そこが知りたい。
知った上で、彼女と、できれば自分がそれぞれ、幸福に生きられる道を見つけるために。
それが、御剣の選択だった。
「とりあえず、調べられることは調べてきたよ」
ラフな格好でトランクケースを引きずりながら現れた成歩堂は、助手席に座って足を投げ出した。
御剣がまとまった休暇を取れるのは、もう少し先のこととなる。
その間、成歩堂にしばらく欧州に渡ってもらい、探偵として働いてもらった。
狩魔冥は、どこにいるのか。
どのような足跡を辿ったのか。
――そして何故仕事を辞め、行方を眩ましたのか。
そういうことを、調査してきてくれた成歩堂を、御剣は空港まで迎えにきたのだった。
「まずは、結論を聞かせてくれないか」
そう御剣が水を向けると、何故か成歩堂は小さく唸る。
「どうした」
「‥‥飛行機の中でも考えていたんだけどさ」
成歩堂は、ポケットから折りたたまれた、少し厚い紙切れを取り出す。
そして神妙な顔で、隣にいる御剣に差し出した。
「車を出す前に、とりあえずこれを見てほしいんだ」
御剣は頷いて、それを受け取り、開く。
何枚かの写真が、個別にコピーされているようだった。
しばらくそれを凝視してから、彼は無理矢理息を吐いた。
「これは、本当に彼女なのか」
「ずっと偽名を使っていたようだから特定は不可能だったけれど、恐らくは。」
「……そう、か」
はじめの数枚は、防犯カメラの映像と思われる、人影の写真だった。
女性が追剥ぎらしき男に脅されているもの。
同じ女性が応戦を始めた瞬間のもの。
そして、女性が男を取り押さえた直後のもの。
その女性は、長鞭を使って男を制圧していた。
鞭を振り上げた瞬間を切り取ったそのシルエットは、見間違いようがなかった。
「この振り方は、9割方彼女だと考えていいだろう。」
成歩堂は少し呆れたような表情で笑っている。
そう思ったからこれを証拠として持ってきたのだろうが、コイビトの人物特定を鞭の振る姿で行うなど、
客観的に見れば非常に滑稽だ。
ただ、そこまで普及しているとは言えない道具を的確に操るその様子は、御剣が確信するための材料としては充分だ。
「だが、これらに写っているのが彼女だとしたら、彼女は」
残りの写真はどこかの新聞社が街を紹介している記事の写しと、
その原本と思われる鮮明な写真のコピーだった。
ちらほらいる通行人の中に、御剣の知っている彼女が何気ない様子で存在していた。
引き伸ばされた写真の、彼女の腹部のラインを、御剣は思わずこわごわとした手つきでなぞる。
そんな御剣に、成歩堂がひどく冷静な声で告げた。
「はじめの入院先の診断は、過労による切迫流産、だったそうだよ」
しばらく言葉を失ってから、御剣はようやく声を取り戻した。
「‥‥確かに、運転しながら結論を聞いていたら、我々の命が危なかった」
「事故に巻き込まれるのはごめんだよ」
鞭を持った身重の女性の目撃情報は、何度か得ることができたという。
そこで得た容姿などの情報を元に、成歩堂は銀色の髪の若い妊婦の足跡を追った。
彼女は数ヶ月の間、フランスを出発点に、東欧を経由し北欧まで、比較的忙しない道程で旅をしていた。
大抵の土地で、彼女はそれなりに警備のしっかりしたホテルに数日間滞在し、大きな図書館を訪れては、
法律と行政に関する書物を読んでいたという。
臨月近くまでそのような生活を送っていた彼女だが、臨月直前に一度訪れていた土地を、再び訪れた。
何故かそれまでと違い、一直線にその土地を目指し、小さな宿に身を寄せたという。
ここまで聞いて耐えられなくなり、御剣は成歩堂に尋ねた。
「――それで、もう産まれたのか」
「2か月ほど、前の話だよ」
話を遮られたことなど気にしない様子で、成歩堂は落ち着いて答える。
「それで、ふたりは、今は」
「――そのことで、言わなきゃいけないんだけど」
焦る御剣を制すように、友人は片手を上げた。
「狩魔冥の足跡は、今回の調査では出産後数日までしか掴めてない。
それと、子供は養子に出されたよ」
シートベルトが、成歩堂に掴みかかりそうになった御剣の急激な動きを制止した。
突如圧迫されたような感覚に、御剣は力なく呻く。
「破水してから飛び込み同然で出産して、産んでから望まない事態だと言って泣いたらしい」
御剣が落ち着いた頃合いを見計らって、成歩堂は報告を再開する。
「それで、知り合いの老婦人が、子供を引き取ったそうだ。」
「ーー知り合い、だと?冥の知り合いか?」
そうらしいよ、と成歩堂は静かに頷く。
「旅行者の彼女に、子を託せるような知り合いがいるというのか?」
「そこは、ぼくもおかしいとは思ったさ」
「産院の人曰く、相手はアメリカ人で、最近仲良くなったそうだよ」
「アメリカ人…」
滞在して一月足らずで、遠い同郷の友人などできるものなのだろうか。
彼女は偽名を使い半ば隠れるように生活していたのに、わざわざ同郷の友人を作ろうとするのだろうか。
そもそも彼女は各国の法律と行政について調べて回った上で、特定の土地に一直線に立ち戻っている。
その後は動いていないところを見ると、そこで子供を産むことを決めて戻った可能性がある。
何故、そこに決めたのか。
ロジックを頭の中で組み立てつつ、御剣は呟く。
「成歩堂」
友人は何も言わずに御剣を見た。
「冥は、私との関係が外に知られることに対して、酷く敏感だった。」
「お前が日本で、望むように生きることができなくなるだろうって、心配してたって話だったね」
「――そんな彼女が、私との子を宿していたら、どう思うだろうか」
「思いはわからないけど、お前と親密な関係だっていう、決定的な証拠ができたという事実には気付くんじゃないかな」
確認するように御剣が尋ねたことに対して、成歩堂は、ほぼ御剣が考えている通りのことを返した。
つまり、自分のロジックは的外れではないと考えて良いのだろうと、御剣は結論付ける。
その上で、御剣は友人に再び尋ねた。
「その場合彼女は、どうするだろうか」
「答えが出ていることを、わざわざ言うほど野暮じゃないぞ」
――そう、もう答えは出ているのだ。
御剣は、深く息をつく。
「成歩堂」
御剣が友人を呼ぶと、彼は御剣と同じような真顔で視線を合わせてきた。
「帰ってきたばかりですまないのだが、もう一度調査を頼みたい」
「もちろんいいけど、何についてだ?」
「養子縁組の相手の名前と、現地の養子縁組に関する法律について、だ」
すると、成歩堂は頷きつつ、自分のパーカーのポケットを、ゴソゴソと漁り始める。
「名前の方はもう調べて来てるから、報告しとこうか」
ポケットからメモ帳を出すと、友人はそこに書かれた名前を読み上げる。
それを聞いた御剣は、不覚にもこみ上げる笑いを抑えることができなかった。
妙なタイミングで笑い出した御剣を、成歩堂が若干心配そうな表情で覗き込む。
「知ってる、人なのか?」
「知っているも何も」
傍から見ると悪魔がほくそ笑むかのような雰囲気を醸し出しながら、御剣は友人の問いに答える。
知っているものと姓は違うが、確か旧姓が同じものだったはずだ。
「狩魔冥の、母親の名だ」
<つづく>