こんなに自堕落な休日を送ったのは、相当久しぶりかもしれない。
検事として死を選んだ時期の生活を、ほんの少し思い出した。
冥にとっても、珍しい休日の過ごし方だったのかもしれない。
今朝目が覚めてから、不貞腐れたようにシーツに包まり丸まっていた。
御剣が先にシャワーを浴びて部屋に戻ると、すれ違いに彼女がバスルームへと消えていった。
もうすぐ、週末が終わる。
彼女を部屋に迎えた夜からたっぷり30時間は、二人の時間を満喫していた。
その間カーテンを閉め切った室内で、冥はいつになく積極的に御剣に甘えてきた。
しかし同時に、恐ろしいほど危うく見えた。
普段はたとえ二人きりでも、彼女は努めて冷静でいようとする。
どんなに甘えた表情を見せても、彼女はどこか醒めた目で目の前の男を観察していた。
それなのに今回の冥は、本気で御剣にしがみつき、溺れるように流されていた。
ここを訪れた経緯を考えれば納得のいく様子ではあったが、それでも心配であるのに変わりはない。
――恐ろしいほど、危うい。
正直に言うと、それは普段も同じだった。
各国を飛び回る姿は華々しくも映るが、常に危険に身を置くその生き様は、自暴自棄にも感じられる。
これまで彼女の望むように自由にさせてきたが、これ以上放っておいたら――
謹慎を命じられたということは、事故ではなく、それ相応の深刻な逸脱か危険な行動があったはずだ。
次に似たようなことがあれば、彼女はきっと、捜査から外される。
彼女も、たぶんそれを理解している。そして、恐らく焦っているだろう。
しかも、頭を冷やせという同僚の意図は、本当の意味では彼女には届いていない。
もう次はない――そう感じている彼女は、次にどう出るのだろうか。
考えるだけで、恐ろしかった。
茶を淹れる準備を終えて適当にリビングを整えながら、御剣はぼんやりと思考を巡らせる。
しばらくして意を決めると、御剣は必要なものを取りに書斎へと足を踏み入れた。
ほどなくして、冥はリビングへと姿を現した。
相変わらずばつが悪そうな表情で、黙ってソファに腰掛ける。
御剣が紅茶を目の前に置くと、聞き取れるかどうかの小さな声で礼が聞こえた。
彼女の正面に座ると、御剣も一口、紅茶を啜る。
それからテーブルの下に手を伸ばすと、隠していた箱をつかむ。
手の中のリングケースを開け、中身が見えるように冥の前に置く。
すると、彼女は訝しげな表情で御剣を一瞥した。
サファイアとダイアモンドの埋め込まれた、シンプルな指輪。
いちおう給料3カ月分のセオリーは踏んでいるが、普段身に着けやすそうなものを選んでいる。
「お願いだ。」
彼女に何かを言わせる前に、御剣の方から口火を切った。
「ずっと、私のそばにいてほしい。」
危険な仕事から手を引いて、安全な場所にいてほしい。
そのためには、こうすることが一番だと思った。
どうやら、驚いているらしい。
冥が固まってしまったことを幸いに、御剣は話を進めていく。
「家庭に入れとは言わない。君が納得できる職務に就けるよう、」
出来る限り局長に掛け合う、と御剣は言いかけたが、冥の声がそれを遮った。
「では、あなたがアメリカに来てくれるのね。」
口角が上がり、細められた目はいつも通り、青く醒めている。
ただし、晴れた空のように澄み切った色ではなく、曇り空の下の氷河のようだった。
その瞳のまま、彼女は言葉を続ける。
「多分あなたは、私の上司の眼鏡に叶うくらいのレベルにはあるわ。」
もちろん私ほどではないけれど――冥は笑いながら、そう言い添えた。
想像と違う方向に進む話に焦り、御剣は彼女の呼吸に合わせて声を割り込ませる。
「待ってくれ、メイ。私に、アメリカに住めというのか?」
そう尋ねると、冥はあからさまに大きな溜め息をついた。
「やっぱり、あなたはその可能性を1ミリも想定していなかったのね。」
彼女の表情と声の調子が、ようやく目の奥の光の色と一致する。
曇った表情のまま、冥は御剣の視線を直視した。
「私は、日本に住むつもりはないわ。
私と結婚したいなら、あなたがアメリカに住んでちょうだい。」
「ど、どういうつもりだ」
しばらくの驚愕の後、御剣が尋ねると、冥は涼しい表情で答えを返す。
「アメリカが嫌なら、ボルジニアでも西鳳民国でも構わないわ。
私とあなた、二人くらいなら受け入れてくれる国に、幾つか心当たりがあるの。」
それから一呼吸置いて、冥は宣言した。
「でも、日本にだけは、絶対に住まないわ。」
「ーー何故だ。これだけ頻繁に来ているのに。」
ようやく御剣の口から零れ出たのは、疑問だった。
「日本の文化も、嫌いではなかったはずだ。」
そう付け加えると、間髪を入れずに答えが返ってくる。
「頻繁なのは、あなたに会いに来ていただけよ。」
冥はティーカップに口付けてから、その続きを話す。
「確かに日本の文化は悪くないわ。旅人として訪れるならばね。
――でも、長く住むには、日本の水は私には合わないのよ。」
「水が…合わない?」
御剣がそう尋ねると、冥は何故か酷く顔をしかめて黙り込んだ。
唇を噛み締めて言い淀む彼女から声が発されるのを、御剣はひたすら待つ。
しばらくの後、その場を席巻したのはまさしく嵐だった。
「こういう議論になると思っていたから、ケッコンのハナシは極力避けていたのに!」
彼女がテーブルに手をついて立ち上がる。
その勢いで、二つの茶器が派手な音を立てた。
「あなたは、いつもそうだわ!」
その音と重なるように、冥の怒りが部屋を駆け巡る。
「何の疑問もなく、私があなたの思う通りに動くと思っている!」
「そんなことは思っていない!」
思わず、御剣も立ち上がって反論する。
「あるでしょう?」
それに対して、冥が感情のままに御剣の眼前に人差し指を突きつけた。
「実際、ついさっきまで、あなたは私がいつかあなたと結婚して、
しかも日本に住むことを、当然のように確定事項として扱っていたではないの!」
永久凍土のような視線に突き刺され、御剣は身動きが取れなくなる。
――確かに、そうだった。
自分たちは惹かれ合っているのだから、いつか結婚するはずだとは思っていた。
そして確かに、その風景を想像した時、冥がいるのは御剣の生活圏ばかりだった。
――だが、彼女はそうは思っていなかったのだ。
思わず、御剣はソファに倒れこむ。
片手で両目を押さえてから、やっとのことで言葉を絞り出した。
「君は、それをわかっていたから、結婚の話を避けていたということか」
返事はない。
視界に光を取り戻すと、御剣は自分を見下ろす蒼い顔を真っ直ぐにとらえた。
「ならば、どうしてそれを話してくれなかったのだ?」
そう尋ねると、冥の顔はますます蒼白んでいく。
「だって、あなたは勝手に決めてしまったじゃない……!」
その色のまま、声だけは力強く怒りを含んでいた。
「何の相談もなしに、あなたは日本の司法を変えるために生きると決めてしまった。」
冥の返答には、怒りをコントロールしようとする努力が見受けられた。
確かに、御剣の目標は日本に居ないとできないことだった。
だが、彼女はずっと理解して、応援してくれていたはずなのに。
「不服ならば、何故その時点で話してくれなかったのだ?
話し合うことができたはずだ。」
喧嘩にならないよう、御剣はできるだけ穏やかにそう尋ねる。
「話し合ったって、あなたは考えを変えるわけがないわ。」
「それはさすがに根拠のない、勝手な決めつけだと思うのだが?」
信頼されていないことに憤りを感じて、御剣がそう言い返す。
すると、冥ははっきりと断言した。
「根拠ならあるわ。」
「――根拠、だと?」
「まず、あなたは私に何の相談もなく、この部屋を買ったわね。」
「確かにそうだが、君の利便も考えてここに決めた」
冥はあまりお気に召さない様子のこの家だが、職場と空港の中間あたりに買ったのはそういう意味がある。
「だとしても、私が住むことを想定していたというなら、事前に話し合うべきではなかったかしら?」
「……!」
声が、出なかった。
はじめてこの部屋に連れて来て彼女用の居室を見せた時、言葉少なな様子だったのはそういうことだったのか。
よくよく考えると、先程指輪を出した時にも、冥は同じ表情をしていた。
2回もヘマをしたことに気付いた御剣に、冥がもう一撃浴びせてくる。
「これだけでも、あなたのパートナーとしての自覚を疑うべきだわ。
けれど、もっと重要なことでも、あなたは同じ行動をとっている。」
「ま――、まだ何かあるのか」
恐る恐る尋ねると、冥は腕を組んで目を伏せる。
「あなたは、私が許さないと言っても、検事バッジを捨てようとした。
パートナーであるはずの私に、何の相談もなく。」
それは静かな物言いだったが、今日一番強い怒気が込められている。
だが、話がずれてきているように御剣には感じられた。
「それは、仕事の話であって――」
「いいえ、仕事の話だけではないわ。」
御剣の軌道修正は、冥の反論によって封じられる。
「あの時期、人生の大事なことを、あなたは独りで決めたわ。
――立て続けに、相談もなしにね。」
いつか、許さないと言った時を彷彿とさせる表情で、彼女は御剣を睨み付けていた。
「そして全てそのまま突き進んだ。」
「だが、それは――」
御剣の言葉に耳を貸す様子もなく、冥は思いの丈を淡々と語っていく。
「たとえその結果が良い方向に向いたとしても、
私があなたと話しても意味がないと感じるには十分な根拠ではないかしら?」
御剣は、何か返す言葉を探した。
だが、彼女を納得させられるだけのものは全く思いつかなかった。
しばらくのにらみ合いの後、冥は再び口を開いた。
「自分の夢と、私と…どうしても天秤にかけなければならないとしたら、あなたは私を選ばない。」
それは、断言だった。
「それを目の当たりにするのは、心底不愉快なのよ。」
言い返す言葉を完全に失った御剣は、冥の目に後悔の揺らぎを見つける。
だが、それに対しても、どうすることもできなかった。
「結婚の話になると、私達は別れるしかなくなる。」
なす術もないまま、目の前で何かが崩れようとしている。
だが、彼女の次の叫びが、動けなくなった御剣の身体を解き放った。
「だから、私はずっとその話を避けてきたのに……!」
******
言ってしまった。
もう終わりだ。
一番言ってはならないことを言ってしまった。
頭の中で波のようなものが押し寄せてくるが、どうにかそれを払い除ける。
それでも我慢できなかったものが溢れ、テーブルの上に小さな滴を落とした。
「顔を洗ってくるわ。」
御剣の顔をできるだけ視界から外すようにしながら、冥は席を立つ。
これ以上取り乱さないように、一人になる時間が必要だと思った。
しかし、それは御剣の一声によって止められる。
「待ちたまえ」
御剣が、冥の腕をしっかりと掴んでいた。
振りほどこうとしても、その握力だけは弱まる余地がない。
「話はまだ、核心まで至っていない。
君と私は、それを見届ける義務があると思うのだが。」
御剣怜侍は、ひどく冷静な目をしてこちらを見ている。
冥にとって気に食わない、コドモを諭す時の表情だった。
「相変わらず、容赦のない男ね」
先程の様子とは打って変わって、御剣は一歩も譲らない様子を見せている。
その様子にどこか安心しながら、冥は渋々とソファに腰を下ろした。
――恐らく、後腐れなく終わらせてくれる、ということなのだろう。
冥が座るのを確認すると、御剣は手を離して、自分も元の位置に腰掛けた。
「君の話を要約すると」
御剣はまた紅茶を一口飲んでから、おもむろに口を開いた。
「つまり君は、私と別れたくはないのだな」
身構えていただけに、予想だにしていなかった発言を受けて冥は呆然と目を見開く。
しばらく何も言えず、目の前の御剣は目つきの悪い真面目な顔で冥の返事を待っている。
「そこをピックアップするなんて、本当におめでたいバカね!」
ようやく声を出せるようになると、冥はそう指摘した。
相変わらず、この男はお人好しで無邪気なバカだった。
「いや、そこが一番重要なことだ。少なくとも私にとっては。」
脱力してしまって冥はもう、何も言えない。
これだけ簡単に力を奪われるのだから、この男はバカでないのだとしたら、策士だ。
――いや、やはり策士なのだ。どうあがいても、自分よりも格上の。
相手は、こちらのことをよく知っている。
こうすれば、冥が絆されることを熟知しているのだ。
――だが、もう状況は、限界に近い。
“今まで通り”に過ごすことは、そろそろ不可能だ。
心を鬼にしなければ、と意を決して顔を上げると、御剣は相変わらず真面目な顔をしてこちらを見ていた。
「君が、私を好きでいてくれるなら、もうそれでいい。」
真っ直ぐの目でそう告げると、彼は静かに立ち上がる。
歩を進めながら、彼ははっきりと言った。
「結婚したいとは、もう言わない。」
御剣は冥の隣に座ると、冥の前で転がっていたリングケースに手を伸ばす。
「だが、これは受け取って欲しい。」
箱を置き直して中身を取ると、御剣は冥の手を握った。
「もう危ないことはしない、その約束の証として、これを持っていて欲しい。
君が消えると悲しむ人間がいることを、常に覚えていてほしいのだ。」
言い含めるように、御剣は冥の目を見てそう告げる。
「どんな形だろうが、私にとって、君は失い難い存在なのだ。」
諭すというよりも、それはもはや懇願に近い。
大切な人を悲惨な形で失った男の真意が、そこに表れていた。
「――本当に、あなたはおめでたいバカなのね」
幼い頃の刷り込みで、どう考えても人生にプラスにならない相手に拘り続けている。
その呪縛から、未だに離れることができていない。そのつもりもない。
可哀相な男だ。
けれど、それは自分も一緒のこと――冥はそう思って笑った。
「受け取って、くれるだろうか」
御剣は平静な様子で、しかし不安による揺らぎを垣間見せながら冥に尋ねる。
涙目で指を差し出しながら、冥は心の中で呟いた。
――この状況を、無邪気に喜べることができれば良かった、と。
******
それからしばらくは、いつも通りだった。
少なくとも、御剣はそう思っていた。
彼女は忙しく、日本に来ることはできなかったが、電話もメールも、必ず数日以内に返事があった。
数ヶ月して電話にもメールにも反応がなくなり、相当多忙なのだと思っていたところに、例の手紙が届いた。
“半年経っても音信がない場合は、全てを白紙にしてもらって構わない。荷物も適当に処分して欲しい。”
その言葉の文脈を、できるだけマイナスの方向に解釈しないよう努力しながら、御剣は冥のことを待った。
しかし、期日はもう過ぎた。
ーーどうして、冥はいなくなってしまったのだろう。
御剣は、ぼんやりと彼女の姿を視界に探す。
勿論そこに実像があるわけはなく、脳裏に浮かぶ彼女が無理矢理そこに幻として像を結ぶだけだ。
ーー本当に、あなたはおめでたいバカなのね。
蔑むような笑顔でそう言われた気がして、御剣も自らを嘲るように笑うしかなかった。
<おわり>