私服で現れた狩魔冥は、明らかに不貞腐れた顔をしていた。
「迎えは要らないと言っていたのに」
そう言いつつ、彼女は持っていた荷物を御剣に渡す。
互いにごく自然に受け渡しを済ませると、二人は歩き出した。
「――また、服の趣味を変えたのか」
「しっくりくるモノがないのよ」
確か前回は花柄のスカートで過ごしていた彼女は、今日はカジュアル風のスーツで別人のようだった。
少し伸びた髪は綺麗に巻かれ、化粧も念入りにしている。
会う度に印象を変えてくる彼女の七変化に、御剣はもう慣れてしまった。
「今回のコンセプトは、《じゃじゃ馬》だろうか?」
何気なしに軽口を叩いてみるが、ムチも手も飛んでくることはなかった。
反応する気も起こらないほど、機嫌が悪いか疲れているかのどちらかのようだ。
貴重品と鞭の入ったバッグだけを持ち、冥はずんずんと御剣の前を進んでいく。
御剣は、その後姿を見て、大きく息を吐いた。
「今日は、私の家に行くぞ」
そう告げると、助手席の冥は明らかに不愉快そうな表情を見せた。
「いつものホテルがいいと言ったはずだわ」
冥は、仕事の帰りに御剣のもとを訪れる時は、大抵空港に近いビジネスホテルに泊まりたいと言う。
御剣の自宅は彼の職場と空港の中間にあるので、そちらにしようと誘っても
毎回何らかのもっともらしい理由をつけて断られてしまう。
よくわからないが、冥はあのマンションがお気に召さないらしい。
彼女の部屋もちゃんと用意してあるというのに、申し訳程度にちょっとした家具を搬入しただけで
余程のことがない限り、彼女は自室を飾るどころか、足を踏み入れようともしなかった。
しかし、今日はそんなことも言ってはいられない。
「ミスター・ロウから、連絡は受けている。」
御剣は、気難しい顔をいつも以上に気難しく顰めながら低い声で言い返した。
「独断で突っ走って、捜査を外されたらしいな」
その言葉だけで、狩魔冥は勢いを失ったように黙り込んだ。
「突っ走った上、犯人と揉み合いになって、高層階のバルコニーから落とされそうになったと聞いている。」
ばつが悪そうに前を向く助手席の女に、御剣はそう言って追い打ちをかけた。
「あの男、捜査情報をペラペラと……」
「私が知っているのは、そこまでだ。機密には一切触れていないと思うが?」
苦虫を噛み潰したように呟く彼女から、御剣は逃げ道をなくしていく。
半分は理性から、半分は、怒りからだ。
「ミスター・ロウからは、君が大人しく謹慎期間を終えるのを助けるよう頼まれた。」
「まったく、あの男……」
御剣と冥の関係は、ごく一部の友人を除いて秘密にしているが、二人が兄妹のような間柄であったことを知る人は多い。
《妹》に何かがあると、それとなくの《兄》の耳に入れてくる人間は何人か存在している。
狼は、そういう人間の一人だった。
死にかけた上に謹慎でプライドをズタズタにされていると思うので、
彼女が日本に滞在するようなら、念のため様子を見てほしい――そういう《依頼》だった。
その少し前に、「急に2・3日休暇ができた」と冥から連絡があり、土日を彼女と過ごせると喜んでいただけに、
一瞬でも彼女が死に瀕したという情報は、御剣に怒りに近いものを覚えさせた。
「犠牲者が出れば、捜査に影響が出るのは君も知っているはずだ。独りよがりで迷惑をかけるのは、感心しない。」
「すぐに乗り込まなければ、逃げられていたのよ。結果を出せたのだから問題ないわ」
しれっとそう言い切る冥に、御剣は苛立ちを覚えながら言い返す。
「問題ないなら、君は謹慎になどなっていない。」
「……かといって、市民の安全を考えれば、逃がすわけにもいかなかった。」
賭けだったのよ、と彼女はぽつりと言った。
その様子が神妙だったので、御剣もそれ以上言う気を失くしてしまう。
信号待ちの間に、彼女の方に手を伸ばしてポンと頭を撫でた。
「とても、心配した。」
声での返事はなかったが、信号が変わるまでの間に御剣の伸ばした手が縦に揺れた。
***
食欲はないとのことだったので、彼女をそのまま家に連れて帰る。
車を降りてから自宅までの道程で感じたのは、彼女がピリピリと神経を尖らせている様子だった。
やはり怖い思いをしたのだろうか。そう思って御剣は彼女に、大丈夫かと声をかけた。
しかし、彼女は軽く手をあげただけで、無言で御剣の横を歩き続けた。
そのまま階段で自宅の階まで上がり、鍵を開けて彼女を先に通す。
ドアを閉めて鍵をかけると、御剣は前で立ち止まる恋人に声をかけた。
「メイ、どうした?」
靴を脱いで家に上がると、くるりと冥が振り向く。
やや強張った無表情が、一瞬だけ御剣の目を射抜く。
だが次の瞬間、御剣の視界は暗闇に遮られた。
バチンという音で、玄関の灯りが消されたことがわかる。
もう日の入りは過ぎていた。
リビングの方から街灯の光が漏れているようだが、目の前をはっきりと照らせるほどの力はない。
「メイ?!」
消去法で考えれば、これを消したのは冥ということになる。
御剣はややとがめるような声音で冥を呼んだ。
相変わらず、返事はなかった。
代わりに、何かが勢いをつけて御剣にぶつかってくる。
「ぐっ!」
押し倒されて、御剣は思わずよろめいた。
壁にもたれながら、ずるずると尻餅をつく。
ぶつかってきた何かが、もぞもぞと動いて上がってくる。
よく知っている匂いを、間近に感じた。
暗い中、目前にある人影を認識する。
「来たまえ」
御剣が背中に手を回して引き寄せると、冥は抵抗なく御剣の胸の中に納まった。
冥の方から至近距離まで近付いてくることは、非常に珍しい。
御剣から近付いて拒否されることも滅多にないが、少し寂しいことだった。
そのため、御剣は一度その理由を尋ねたことがある。
軽い追及の末、冥がしどろもどろになりながら白状した答えは、こうだった。
“そういう自分を見られるのが、恥ずかしい”
見られたくないのであれば、灯りを暗くすればいい。
御剣がそう答えてから、冥は時々、おもむろに部屋の灯りを消すことがある。
つまり、先ほど照明が消えたのは、冥からの合図なのだ。
――普段見せられないところを受け入れてほしい、という意味の。
いきなり玄関で、何の前触れもなくそうなったのは初めてなので驚いたが、
どうやらそういうことらしいと気付いたことで、御剣はすっかり落ち着いている。
どん底にいる時の顔を見られたくないという気持ちは、御剣にも理解できる。
暗闇はあまり好きではないが、彼女がいれば平気だった。
空いている手を彼女の手に重ねると、それだけで強く握り返してくる。
聞こえてくる呼吸は浅く、少し身体が強張っていた。
「メイ」
少し身体を離して、探るように頬にキスを落とす。
信頼できる相手の体温は、良い精神安定剤になる。
御剣は、そのことをよく知っていた。
「――レイジ」
何度も触れていると、かすれるような小さな声でそう呼ばれた。
御剣がそれに応じる前に空気が動き、御剣の唇に柔らかいものが触れる。
それはとても、情熱的な接吻だった――かつてない力で、冥が御剣のことを求めているのが伝わってくるような。
はじめは驚いていた御剣も、次第に同じ強さで彼女を求めるようになる。
どこかには、こういう行動に至った彼女の心境を分析しようとする冷静な自分もいるが、
とりあえずはこの暗闇に呑まれてしまおう――そう思うくらい、御剣は純粋に嬉しかったのである。
最近妙に冷静に、御剣と一定の距離を保とうとしていた彼女が、
久しぶりに、彼女が自分から御剣という存在を求めてくれている。
たとえ、それが溺れる者が生きるために何かにしがみつこうとするような、そんな動機だったとしても、
ちゃんと自分を選んで来てくれたことが、御剣にとっては本当に嬉しいことだった。
<おわり>