「Keep ourselves happy」

 


『上の人間から、所帯を持たないことでいろいろ言われていてな。
 このままだと昇進のために見合いをせねばならないかもしれないのだが…』
『へえ、そうなの。――あ、所帯と言えば、真宵と成歩堂龍一は元気にしているのかしら』
『あ、ああ……』
 
 
『私ももうすぐ三十路だ。そろそろコドモが欲しいと最近思うようになってだな』
『へえ、そうなの。――あ、コドモと言えば、一柳弓彦の教育は順調に進んでいるの?』
『あ、ああ。もちろん……』
 
 
長い遠回りの末に交際を始めた御剣と冥は、数年経過しても良好な関係を続けている。
遠距離に隔てられながらも、二人は互いのスケジュールを調整し合い、日本とアメリカを行き来していた。

時には些細な喧嘩もあるが、それはまだ二人が兄妹のような関係だった頃からのじゃれ合いにすぎない。
御剣にとって、彼女は今でも良きパートナーだった。

ただそれだけに、それ以上のものが欲しいと感じることがある。
月に1度あるかないかの逢瀬ではなく、もっと彼女を身近に感じて日々を送りたい――彼はそう願っていた。

もう付き合い始めて数年経つ。そろそろ結婚を申し込んだとしても、尚早ではないだろう。
そう考えて、どうにか先に進もうとするのだが、どうにもうまくいかないのである。

彼女が応援してくれているはずの出世のことや、父親になりたいという希望をそれとなく伝え
彼女の反応をうかがうものの――
 
「――全く通じていない、ということなんだな」
「そうなのだ!」

御剣が、テーブルにバンと手をついた。
手加減はしたつもりらしいが、自宅にしては大きな音が出たので、本人が驚いている。

何ヶ月かに一度、御剣と成歩堂はこうやって酒を飲む。

御剣の行きつけの店は、成歩堂にとっては背中がムズムズするような小洒落た空間であったし、
成歩堂の好む気楽な店は、逆に御剣が挙動不審になったり、違法者はいないかと職業病が出て目つきが鋭くなったりする。

なので、そこそこ小奇麗にしてある御剣の自宅で杯を交わすことが多かった。

「とにかく――私はそろそろ彼女と人生を共にしたい」
「それで、プロポーズの予告をしているのに、狩魔冥には全く響いていないんだよな」
御剣は、力なく頷いた。

「狩魔冥、そっち方面には鈍感なところがありそうだもんな。」
そう言うと、何故か成歩堂は御剣に食ってかかられた。

「だが、彼女はもう13の頃には私のことを――」
「それは彼女の気持ちだろ?人から自分に向けられる好意とかには鈍感じゃないかな、彼女。」
大した自信だな、と内心呆れつつ、成歩堂は自分から見える狩魔冥について成歩堂に伝える。

「――そう言えば、そうかもしれない」
思い当たる節があるらしく、御剣は考え込み始める。

「ではもう、予告ではなく、直球でいくしかないのか――」
ブツブツと言い始めたら、5分くらいは放っておいた方が良さそうだ。

健闘を祈る――と心の中で呟きながら、成歩堂は次の酒瓶を探しにキッチンへと向かった。



「すごいわね。自然の多い土地だとは思っていたけれど、こんな光景を見ることができるなんて――」

高台から見える、金色の夕陽。
この里の主に「雰囲気の良い場所を教えてほしい」と話すと、このポイントと時間を教えてくれた。

冥はあまり、御剣と一緒に街を歩くことを好まない。
仕事の人間とどこで会うかわからないから、というのがその理由だった。

相変わらず、二人の関係を公にしたくないというのが彼女の希望である。
ちなみに何故か海外では、そこまで厳しく言わない。アメリカでは、食事くらいは抵抗なく応じてくれるのである。
御剣にとっては不思議なところだが、彼女には「あちらでは姉弟で通せるから」という理屈があるらしい。

とにかくそういうわけで、二人が日本で外に出歩くことはほとんどない。
それを知っている綾里真宵が、時々厚意で二人を招いて、その機会を提供してくれるのだ。

倉院の里はある意味で外界と隔絶されており、少なくとも御剣が何者であるかを知る者はほとんどいない。
冥の方は多少知られているようだったが、女性は特に服装と髪型で印象ががらりと変わる。
彼女は毎回違ったウィッグを用意するなどして、変身を楽しんでいるようであった。

冥と真宵は気が合うらしく、倉院に来るたびに、二人で仲良さそうに話をしているところを見かける。
御剣は、真宵のパートナーである成歩堂と一緒に、その光景を眺めながら酒精と戯れる時間が好きだった。
 
 
御剣と冥のことをよく知っているだけに、真宵が教えてくれた場所は冥の好みに合うようだった。
眩しくも優しい光に照らされて、周辺の森や田畑が同じ色に輝いている。

「綺麗――」

心地よい風が、金色に映る冥の髪をたなびかせる。
嬉しそうに笑う顔が、御剣に向けられた。

――恐らく今が、頃合いに違いない。

御剣は、ぎゅっと手を握る。
彼が冥をここに連れてきたのには、目的がある――もちろん、結婚の申し込みだ。

彼女が喜びそうな風景を用意した。求婚にふさわしい雰囲気も、ちゃんと形成されている。

何を言うかは、ちゃんと考えてきた。
持ってきた鞄には、ちゃんと指輪も入れてきた。予め、所在の確認もしてある。

――君とは、ずっと家族同然に過ごしてきた。でも今度こそ、本当の家族になりたいのだ。
御剣は頭の中で考えてきた言葉を繰り返すと、もう一度手を握り、意を決する。

その時――ただならぬ空気を察したのかもしれない。
冥がふと御剣の方を振り向いた。

無意識に、顔にも力が入っているのだろう。
彼女は不思議そうな顔で御剣を見て、何かいつもと違うものを感じるように向き直った。

――今だ。今こそ、言うのだ。

「メイ――」

そうして彼が勇気を出して口を開いた瞬間。

「ねえ、レイジ」

冥が穏やかだが小さくはない声で、御剣を呼んだ。
出鼻をくじかれて、一瞬、御剣の呼吸が止まる。

冥の声は、とても毅然とした響きをしていた。
そこには、御剣の声を止めようとする、強い意志が感じられる。

予想していなかった空気に、御剣の中で躊躇が生まれた。

それでも自分が話したいのだと、強く出ることもできただろう。
だが、強引に話を進めた場合、彼女が反発するのは目に見えている。だから御剣は口を噤んだ。

どうした?と言う代わりに、御剣は彼女の目を見た。
平然を装ってはいたが、どこか重い空気を醸し出す彼女に、嫌な予感がする。

同時に、彼女が息を吸い込み、言葉を発した。

「私達、いつまでもこのままでいられたらいいわね。」

それは、状況によっては、まるで幸せな恋人同士の言葉だった。

――確かに、先程までは間違いなくそういう間柄だったはずだ。
しかし、彼女の表情と次に発された強い言葉が、御剣の中でそれを打ち消していく。

「このまま、何一つ変わらずに。」

――これ以上、先に進もうとしないで。
言外に、そう告げられているような気がした。

冥は、御剣が自分たちの関係の形を変えようとしているのを察知して、それを阻止したらしい。
御剣は、それを読み取って、足元から凍るような感覚に囚われる。

今の流れで考えれば、以前からの打診を適当な話題転換で逸らされていたことも、
決して彼女が気付いていなかったからではなく――意図的に止められていたのだという結論になる。

自分達は互いに想い合う、最良のパートナーだ。だからこそ、先へと進みたい。
――そう思っていたのは、私だけだったのだろうか。

御剣は愕然とした思いの中、改めて冥を見る。
言いたいことを言い終えた彼女は、感情を隠すようにただ無表情で佇んでいた。

御剣は、彼女に訊き返すことにする。
可能性の芽を摘まぬようにするにはどの言葉を選べばよいのかと、頭を全力で回転させた。

「――何一つ、変わらずに、か」
そうして発した言葉は、どうやら最善手だったらしい。

冥は少しだけ表情を和らげて、短く息を吐いた。
「ええ、何一つ変わらず、今のままでいられたらいいわね。」

“このまま”“何一つ”という言葉を最大限良い方に解釈すれば、彼女は終わることも望んでいないということになる。
そんな希望的観測は、どうやら事実と考えて良さそうだった。

とにかく今は、彼女にとってはそういう時期ではないのだろう。
そんな風に理解して、御剣は胸を撫で下ろす。

「私は、君が好きだ。」

変わらなくてもいいから、共に在りたい。
どうすればうまく伝わるか――考え過ぎた御剣の口から出たのは、そんな短い言葉だった。

精一杯の言葉に、冥は涼しい笑みで応じる。

「――私もよ」

御剣の知る限り、その笑顔は決して偽物ではなかった。
 
 
 
「――で、結局プロポーズできなくて腐ってると言うわけか」

真宵と冥がぐっすりと眠ってしまうと、御剣の深酒が始まった。
ぽつぽつと語られる愚痴を一通り聞いた後、成歩堂はばっさりと一刀両断する。

「笑いたければ、笑うがいい」
相変わらずの返答に、成歩堂は苦笑する。
突っ伏した御剣に悟られぬよう、音には出ないように配慮した。

「別に、笑うようなことじゃないと思うけどさ」
そう言って、彼は自分のグラスに酒を注ぐ。

「遠慮しないで言ってしまえば、流れを変えられたんじゃないか?」
御剣が持って来た高価な酒を遠慮なく飲み下してから、成歩堂はそう尋ねてみた。

「いや――それはない。」
御剣は、突っ伏したまま首を横に振る。

「彼女は、これ以上踏み込むなら終わりだと、暗に言っていた。」
「確認したのか?」

「――いや、そういう顔をしていただけだ」
「やっぱりそこは、話し合うべきだろ。お前も彼女も、口は達者なんだから」

思わずそう突っ込むと、御剣はだらりと力を抜いた。
「できないのだ」

「……何でだよ」
二人で飲みに行くと、御剣は冥についての惚気や軽い愚痴を語ることがあるが
いささかそれとは違う雰囲気に、成歩堂は少し改まって尋ねてみる。

「わからない。」
御剣はそれだけ言って、上体を起こす。
グラスに残った酒を一気に飲み干すと、再び元の体勢に戻った。

「会話がないわけではないのだ。
仕事に関係することや、趣味のこと、君をはじめとした友人の話も、それなりにできている。
だが、気付いたら、私達のこと――特に、彼女自身のことは――触れることが、できなくなっていた。」

本格的に酔いが回ってきたのか、御剣の声はだんだんと小さくなっていった。

「だから、わからんのだ。彼女が、何を思って、いるのかも。私が、どうすれば、よいの、かも――」

御剣はそれ以上、何も言わない。
成歩堂も何と返してやればいいのかわからなくなって、しばらく黙り込む。

ふと、先程までしなかった音に気付いて、成歩堂は友人に声をかけた。
「――御剣?」

返ってきたのは、小さないびきだけ。
呑んだくれて愚痴るだけ愚痴って、彼は寝てしまったらしい。

話すだけ話して反応しなくなった酔っ払いに、成歩堂は深いため息をついた。

「今まで大変だったんだし、折角だから幸せになってほしいんだけどな――お前には。」
独り言のようにそれだけ伝えて、成歩堂はゆっくりと立ち上がった。
 
 
襖一枚隔てた向こうには、真宵と春美、そして冥が眠っている。

――もしかして、聞こえてたかな。
そう思って確かめに来たものの、3人とも起きていればできないであろう奔放な姿で眠っている。

――そういえば、狩魔冥は珍しく真宵ちゃんにたしなめられるくらい、たくさんワインを飲んでいたっけ。
だとしたら、彼女の方にも思うところがあるということなのだろう。

成歩堂は、自分のパートナーとその従妹、そして友人の順番に、飛んでいった布団をかけてやった。

「……君も不幸になっちゃいけないんだよ。真宵ちゃんも御剣も、すごく悲しむからね。」

眠っていても睡眠学習程度の効果はあるだろうと、成歩堂は友人に釘を刺す。
頼むよ、と重ねて告げて、彼は残った酒の待つ元の部屋へと戻っていった。

 

 
<おわり>