明るい店内にずらりと並んだ、紅茶の缶。
その前に立つ若い女性は、メモを片手に一つ一つの缶を見比べながら、ぼんやりと溜息をつく。
『来週の金曜日、そちらに寄ることができそうなのだけれど、あなたのスケジュールは?』
『あ、ああ……それが、その時は丁度、出張なのだ』
『――そう、残念ね』
いつもであれば、恋人のいる日本を訪れる日時が決まるのは、せいぜいその2日前というところである。
仕事の見通しが立たないとどうしようもない――彼女のパートナーは、それを理解してどうにか時間を合わせてくれているようだった。
今回の訪日は、上司の視察に同行するついでのものであったため、2週間前には大まかな日程の決定がなされていた。
申し合わせた休暇以外で、そんなに先の予定がわかっていることは珍しい。
なので連絡を入れてみたのだが、今回は相手の出張と重なっていた。
やはり普段と違うことは、うまくいかないものか――と、溜息をつく。
冥にとって、プライベートで御剣と過ごすのはそんなに嫌なことではない。
仕事で会うと、みっともない所は見せられないと肩肘を張らずにはいられなくなるのだが、
プライベートでは、御剣も素の顔を曝け出しているし、冥も自然体でいられる。
肩の力を抜ける機会が定期的にあるというのは、悪いものではなかった。
それだけに、今回の行き違いは残念だと感じている。
結局冥は、仕事が終わると日本には寄らず、上司と同じ便で早々にアメリカに戻ってきた。
そして、空港からそのまま、行きつけの紅茶専門店に足を運んだのである。
パートナー――御剣怜侍が好んで飲む茶葉を、一つ手に取る。
以前、この店の茶葉を土産に持っていくと、彼は喜んで受け取ってくれた。
――来月、休暇で日本に行くから、その時に持っていこう。
自分の分と、御剣の分で、合わせて2缶をバスケットに入れる。
それから冥は、手持ちのメモを見ながら、いくつかの缶をバスケットに追加した。
ブレンドの紅茶が切れかけているので、ついでに買って帰ろうという算段である。
いつか、御剣のオリジナル・ブレンドの紅茶を何気なく褒めたところ、彼はとても喜んだ。
そして彼は少年のような目で、苦労して辿り着いたというその配合を冥に語ったのである。
メモには、それを思い返して書いたレシピが書き留められていた。
口頭での伝え聞きであるし、「最終的な調整は絶妙な匙加減で行う」と本人も言っていたので
彼のレシピを完璧に再現したとは、恐らく言えないだろう。
だいたい同じ味であれば良い――それくらいのスタンスで、何度か試行錯誤を重ねた上でできたのが、手持ちのメモの内容だ。
所用で彼のオフィスに行くと、大抵あの紅茶が振る舞われるので、自分のレシピと彼の味にそこまで開きがないことは、しばらく前に確認済みである。
彼の紅茶のフレーバーは、彼が隣にいる時の空気とよく似ている。
つまり、冥にとってそれを再現して飲むということは、時に足りないと感じる何かを埋める作業でもあるのだった。
――本人には、絶対に言えないけれど。
茶器の扱いには慣れているが、冥自身はコーヒーにも紅茶にも、それほどこだわりはない。
御剣怜侍にも、それははっきりと伝えている。
そして、彼がいないと何かが足りないような気分になることも、極力黙っていた。
こんな風にセンチメンタルな形で彼の空気を求めていることも、できれば知られたくない。
御剣怜侍は相変わらず我が道を前進していた。
相変わらず――バッジを捨てて冥を置いて行った時と同じように、自分が正しいと思う道だけを視界に入れて生きている。
そして、冥は、それをどうにかすることをとっくに諦めていた。
夢見る純粋な少年と頑固な老人を足して2で割ったものが彼なのだと解釈して接すれば、腹も立たないことに気付いたのである。
ぶつからないように少し距離を置く。
大事なこと以外は、「そういう考え方もあるわね」と流してしまえば問題も起こらなかった。
――これが、妥協というものなのかしら。
いつか、結婚した姉が実家に遊びに来たことがある。
父は当然の如く日本にいて不在であり、まだ検事になる前だった冥と、母が彼女を迎えた。
姉は、夫の生活習慣に関する愚痴を一通り述べた後に、溜息をつきながらこう締めくくった。
『大きな息子を育てているようなものだわ』
その言葉に母も大きく頷いているのを見て、当時の冥は「パパは息子じゃないのに」と思ったものだが――
パートナーがいる今では、心から賛同できる。
大きな息子、もしくは弟だと思えば、大抵のことは諦めることができる。
それだけに、冥は御剣を求めたくなる自分を、どこか受け入れられないところがあった。
――御剣怜侍が必要としているから肩を貸しているだけで、私は彼がいようがいまいが、いつも通り前に進んでいける。
冥はそう胸を張って言えないといけないのだ――いつか必ずやってくるはずの未来のために。
深く考え過ぎたことに気が付き、冥はぎゅっと目をつぶり、ぱっと開いた。
緊張と弛緩、暗闇と光によって気分を切り替えた後、彼女は最後の茶葉の名前を確認する。
――美味しいと思ったから、飲みたい。だから再現する――それだけのことだわ。
自分に言い聞かせながら、冥は目当ての紅茶缶に手を伸ばした。
すると、ほぼ同時に、別の手がその缶を手に取ろうとしている。
それに気付いた冥だが、特に遠慮することなくそのまま缶を掴んだ。
後ろにストックがあるのが見えているので、もう一人はそれを取ればいいのである。
それでも、トラブル回避のために声だけはかけておこうと、冥は相手の方に顔を向けた。
「お先に――」
途中まで言葉に出したものの、冥はそれ以上続けることができなくなった。
そこにいるのが、いるはずのない男だったからである。
「やっと、気付いてくれたか」
男はにやりと、同時に少し安心したような表情で笑った。
その顔は、どう見ても日本にいるはずのパートナー、御剣怜侍そのものである。
「――どうして、レイジがここにいるの?」
「出張でな。昨日から2泊でこちらに来ている。折角なので、観光がてら紅茶店を巡っていたのだ」
「アメリカに来るならば、先に言ってくれたら良かったでしょう!」
驚きを引きずったままの冥がそう詰め寄ると、御剣はばつが悪そうに目を閉じる。
「君は今日日本に寄ると言っていたので、わざわざ行き違いになることを伝えるのも悪いかと思ったのだ」
「言ってくれたら、急いで帰って来たのに――」
「そう言って君は無理をするだろう?」
御剣は、少しむっとした表情で冥を直視している。
直視されると、絶対に自分から逸らしたくなくなるのが、狩魔として育った人間の性である。
相手の目つきが悪ければ、なおのこと。
冥は、思わず睨み返しながら、反論しようとする。
「別に無理なんて――」
だが、その時。
目の前の男が急に間抜けな顔をしたかと思うと、慌てて棚と反対の方を向きだした。
「へ、クション!」
店内に、大きなくしゃみが響き渡る。
その時店にいた人間が、次々に振り向くほどの大きさだった。
「す、すまない」
そう謝ったかと思いきや、男はもう一度、大きなくしゃみをした。
よく見ると、目が充血している。心なしか、顔も赤い。
――これは、もしかしなくても。
「――何度も、すまない」
御剣がそう言いながら、もう一発を繰り出しそうな表情をしたので、
「いいから!喋らずに、鼻と口を手で塞ぎなさい!」
そう指示すると、御剣は慌てて大きな手で口元を覆った。
冥は問答無用で手持ちのハンカチを押しつけて、代わりに彼が持っていた紅茶缶を引っ手繰る。
「それで顔と手を拭いて待っていなさい――私はレジに行ってくるから」
体温、華氏100度――確か、日本でいうところの38度弱。
医師には診せていないが、恐らく風邪の類だろう。
「もうすぐ11月だというのにコートも持って来ていないなんて、体調を崩すのは当然だわ!」
「すまない。日本との温度差を甘く見過ぎていた」
自宅まで引きずるように連れ帰り、とりあえず寝室のベッドに放り込む。
ブランデーを入れた紅茶を飲ませながら、冥はこんこんと説教を続けていた。
「ホテルでも、空調の調節がわからなくて寒いまま過ごしたではないの?」
冥がそう指摘すると、御剣は驚いたようなばつの悪そうな表情を浮かべる。
機器の操作などは応用が利かず、慣れたものでなければ扱えない。
彼の不器用さの特徴の一つであった。
「そもそも、どうして出張なんか――あなたの仕事は、現場と法廷を走り回ることでしょう?」
「そうも言っていられなくなったのだ」
冥の一方的な追求に、御剣がぽつりと声を漏らす。
「道を拓くには、現場に立つことにこだわるわけにはいかなくなった。」
「――まあ、そうね。あなたの目標は、上に立ってシステムを変える必要があるもの」
「ああ。それで、昇格に向けて動くことにしたのだ」
「ふうん、つまり将来に備えて、顔を売りにきたってことね」
「そういうことだ。――局長の腰巾着としてな」
御剣は、やや自嘲気味に笑う。
冥は汗を拭いてやりながら、その会話を続けた。
「そう――ご苦労なことね」
額にもタオルを当てておこうと、冥は御剣の正面に回る。
相変わらず手のかかる弟だと思いながら彼の顔を見遣ると、真面目な視線が彼女を射抜いた。
「それに――そうすれば、君に会いに行けると思ったのだ」
御剣は冥の片手を掴むと、ぐいと自分の方へと引き寄せる。
引き寄せられた彼女は、バランスを崩して彼の胸に飛び込んだ。
「私が日本を出る機会がない分、君はできる限り日本を訪れることができるように仕事を組んでくれていただろう?」
確かに、アジア方面に立ち寄る仕事を率先して受けてはいたが、望まない仕事を無理にしていたわけではない。
パートナーの顔を見たくなって日本に寄るのも、冥にとっては自然なことだった。
「君だけが労を負うような形になるのは、申し訳ないと思ったのだ」
「――私は、自分のしたいように動いていただけよ」
――ただ、正直なところ、無理なスケジュールに限界を感じていたのも事実である。
それだけに、御剣がそこを察して分かち合おうとしてくれていることは、素直に嬉しかった。
「それでも――感謝している」
その言葉とともに、冥は強い力で二本の腕に抱きしめられた。
あのバッジの一件以降、どこかで諦めている部分があった。
――私は御剣怜侍の持つものを分かち合おうとできる。けれど、御剣怜侍に同じことを求めることは難しい。
恐らく、過剰な期待は禁物だろう。
けれど、彼は彼なりに分かち合おうとはしてくれている。今、それが伝わってきた。
――仕方がないから、それで許すことにしましょうか。
少しだけ、冥の中で蟠りが解けたような感覚が生まれる。
冥が顔を上げると、御剣は相変わらず不器用そうな表情を浮かべ、彼女をじっと見た。
「これから私が欧米へ来る時には、有給と絡めて君に会いに来ようと思っているのだが――いいだろうか?」
「――出世が遠のかない程度であれば、いいのではないかしら?」
少し気が楽になったからか、冥の口から軽口が飛び出した。
御剣はそれを了承と捉えることに成功したらしく、少し困ったような、だが安堵を含んだ表情で笑う。
「でも、そうなると――今回みたいに体調を崩すのは困るわね」
続けてそう告げると、御剣はますます困ったように口元を曲げた。
「うちの空調なら、練習すれば温度の上げ下げくらいならできるようになるわよね?」
「あ、ああ――恐らく、もちろん。」
自信のなさそうな声だったが、どう答えようが彼が使えるようになるまで責任をもって叩きこむことは冥の中で決定していた。
「それなら大丈夫ね。――今からお米を買ってくるから、ついでに合鍵の手配もしてくるわ。レイジはしばらく寝てなさい」
日本流の粥の作り方を記憶の底から引きずり出しながら、冥は御剣の肩を押して大きな枕と接触させる。
「な、何の話をしているのだ」
「決まっているでしょう?アメリカに来る時、あなたはここで寝泊まりするのよ」
そう告げると、御剣の動きが一瞬止まり、それから勢いよく起き上った。
「――いいのか?パートナーとはいえ、さすがに迷惑では」
「私の知らないところで風邪をひかれるよりは、相当マシだわ」
冥が返事をすると、御剣は痛いところを突かれたように身体を引く。
「一部屋空いてるから、次からはそこを使いなさい。ベッドも用意しておくから」
御剣はまだ何か言いたそうだったが、冥はそれだけ言うと寝室を出てドアを閉めた。
ドアを背に、冥は少し上を見上げて考える。
――やっぱり私、喜んでいるのかしら。
自宅の一室を与えようと思うくらいには、恐らく浮かれているのだろう。
それくらい、冥と何かを分かち合おうという御剣の気持ちが、嬉しいのだ。
ようやく結ばれても結局は片思いのようなもので、どれだけ与えても見返りは来ない。
それくらいの覚悟で交際を続けてはいたものの――
――さすがに、彼を見くびり過ぎていたのかもしれないわね。
妥協は必要だけれど、もう少し御剣のことを信じてみてもいいのかもしれない。
そう結論付けて、冥は買い物へ行くための準備を始めるのだった。
<おわり>