昼間は、師弟のような間柄になった少年や部下の刑事、相棒を名乗る少女が執務室によく顔を出す為
彼らの「お手伝い」という名の悪意なき妨害を受けつつ、それなりに仕事もしながら楽しく過ごしている。
その分夜にも仕事を続けなければならないが、もともと仕事の虫である彼にはそれもそんなに苦痛なことでもなかった。
その日もすでに太陽は沈み、もう少しできりの良いところまで仕事が進んでいた。
自宅に戻ればそのままベッドに直行しそうだと、冷めた紅茶を飲みながらぼんやり思った。
ふと机の上で電源に繋がれている小さな通信機器をちらりと見て溜息をついた後、彼はすぐに手元の書類に意識と視線を戻す。
そのまま再び仕事の虫と化した彼だったが、ある時突然聞こえてきた声に意識を引き戻された。
「随分と大きな志を打ち立てたものね」
その言葉に顔を上げて、御剣は驚く――先程携帯電話に重ねて思い浮かべた顔が、ドアを開け放ってそこに立っていたのだから。
「――メイ」
「明日日本を発つから、挨拶に来たのよ」
後ろ手にドアを閉めて、狩魔冥は執務席に着いた御剣のところに歩み寄ってくる。
机に積まれたファイルや書類の束を、彼女は何かを見定めるようにして口を開いた。
「あなたは――忙しそうね」
時間があるかどうかを問われていると感じて、御剣は現状を正直に述べることにする。
「そうだな。できれば君と夕食でもとは思うが、今日は難しそうだ」
「――そう」
冥は素直な感想を隠すかのように、淡々とした口調でそう返す。
せっかく会いにきたのに、残念に思っているのだろう。
彼女が何か言葉を続ける前に、御剣の方から先手を打つ。
「だが、少しなら――ここで話していかないか」
御剣と同じように、冥も忙しい。
ここしばらくはずっと日本にいるが、いつ見ても彼女は仕事に打ち込んでいた。
廊下ですれ違っても会釈をするだけだったり、
ひどい時には歩きながら打ち合わせをしていて近くにいる御剣の存在に気付いていない様子だったりすることもあった。
例の審議室で再会して以降、彼女からも連絡がなく、御剣も多忙な中では彼女との話題を準備する時間を作れずに毎日連絡を断念している。
――連絡するには何か用事や話題がある方が良いと思うのだが、どうしても思いつくことができないのだった。
普通に考えればこのままではパートナーとしての関係が自然消滅してもおかしくない。
そんな状況の中、彼女の方からわざわざ御剣に会いにきたのである。
ここでにべもなく追い返せば、悪い方に状況が傾くのは間違いない――しかも、急激に。
だから、自分から手を離すことはあり得ない、彼女と一緒にいたいと願っている――ということを、それとなくでも伝える必要があった。
それを受けた冥は、相変わらず淡々とした表情のままだった。
だが、先程まで若干醸し出していたその場を去ろうという雰囲気が消えている。
「――では、さっきの話の続きでも良いかしら?」
そう尋ねる彼女に、御剣は何の抵抗もなく頷く。
今はどんな話題でも、時間を共有できれば良い。
そんな思いで御剣が冥を見ていると、彼女は少し表情を和らげ、用意してきた話題を御剣に投げかけた。
「ひどく厄介なモノと闘うことにしたようね」
「ああ、そうなるだろうな」
恋人としては雰囲気などあったものではない話題だが、戦友の延長線上なものである二人にとってはそこまで問題でもない。
彼女がどこかで――恐らく狼捜査官か糸鋸刑事あたりから――自分のことを耳に入れたのだろうと思いながら、御剣は彼女の言葉を聞いていた。
「きっと一筋縄ではいかない、一生をかけた仕事になるでしょうね」
「――そうだな」
彼女の言う通り、御剣の取り組もうとしている課題は複雑で、未だゴールすら見えていない。
もしかすると自分に残された時間では、礎を作ることや、下手をすると問題提起の声をあげるところで終わってしまうかもしれないほどである。
「自分の持つ何かを犠牲にしなければいけないかもしれないわよ」
「――そうだな」
その道が過酷であることを警告する声に、御剣は一つ一つ頷く。
彼女が御剣のこれからを考え、心配してくれていることが一つ一つの言葉から伝わってきた。
それでも、“彼”をはじめとした――守りのない弱き者、
そしてそこから転化した犯罪者が造られていく現状を見過ごすことはできなかった。だから――
「それでも、あなたはその道を行くのね?」
彼女が恐ろしく真っ直ぐな目で御剣を見据えた時、彼は一切怯むことなくこう答えることができた。
「――ああ。私はそのために、これからの人生を捧げる」
その信念以外であれば、自分は何でも代償にできる――この身も、時間も。
彼の中で、それは揺るぎなき決定事項だった。
「――そう」
しばらく見つめ合った後、先に目を伏せて逸らしたのは冥の方だった。
「では私は、その様を見届けることにするわ」
彼女はそう言って、目を伏せたまま少し呆れたように笑った。
御剣自身でも途方もない目標を打ち立てた自覚はあったのだから、
どちらかというと現実主義者である彼女が呆れた反応をするのも無理はない。
それでも見届けると彼女は言っている。
厳しい彼女の言葉を経験に即して翻訳すると、「否定せずに見守る」という意味に受け取れた。
そして、だとしたら、
それで充分だった。
「せいぜい、尻尾を巻いて逃げ出すような醜態は晒さないことね」
棘のない口調でそう軽口を叩く冥の様子に、御剣は自分の解釈が間違っていないことを確信する。
「肝に銘じよう」
だから、御剣も軽めの口調で彼女の言葉にそう応じることができた。
冥はきつめの目を穏やかに細めて、優しく笑っている。
温かい空気が流れ、御剣の心にも同質のものが染み渡っていく。
「――本当にここ最近、君には世話になりっぱなしだな」
内に生じた温かいものを、御剣は息と彼女への言葉として外に出す。
分かりづらい形ながら親身に気遣ってくれる彼女の存在に、支えられていることを改めて感じていた。
「例えば先日の機密書類――」
そう続けた言葉は、少しうろたえた表情の彼女の声に遮られた。
「あくまでもあれは狼のためであって、あなたのためにしたことではないわよ」
「それでも、私も充分アレに助けられた。」
素直ではない彼女の嘘に応じながら、御剣は彼女に改まって礼を述べていなかったことを実感する。
そういえば、先月も彼女はすぐにアレバストに旅立ったから、ちゃんと話ができていなかった。
そこに思い至り、御剣は少し以前に遡った分の礼も伝えようと思った。
「それだけではない。先月の大使館だって、君が捜査権を与えてくれたから、助かった」
だが、そう伝えると彼女は表情を暗くした。
「あれは、――」
少し言い淀んでから、彼女は短く言葉を紡ぐ。
「あの前日の借りを返しただけよ」
「借り?」
覚えがなく、御剣が尋ねると、冥は言いあぐねるように黙り込んだ。
ここまで言葉を出しづらくしている彼女も、なかなか珍しい。
「何か、あっただろうか?」
御剣が訊くと、冥は口を固く結んだ。
だが、次に彼が何かを尋ねる前に、自分からそれを開く。
「あなたが自分で証明するまで、私はあなたを信じなかったでしょう」
御剣は、彼女の“傷”を知っていた――誰よりも愛していた父親に、世界の全てを覆されたこと。
だから彼女は、人を疑う。信じたい人ほど、疑わずにはいられない。
だが、彼にとってはそれも、彼女と共に歩むために受け入れなければならない“柵”の一つに過ぎなかった。
御剣はその場でそう理解したから、責めるような気持ちにはならなかった。
だが、彼女の方には強い罪悪感として残っていたのだろう。
「そんなことを気にしていたのか」
だから御剣はできるだけ、自分がそれを気にしていなかった事実が伝わるような口調を心掛けて、本心を伝えた。
「君は検事としてあそこにいたのだから、最有力の被疑者と見なされていた私を疑うのは当然のことではないか」
そう告げられると、しばらく変なものでも見るように冥は御剣を凝視した。
しかし、ある時突然、肩の力が抜けていく。
そのまま堰が切れたように、珍しく声を小さくあげながら笑い出した。
「そうね」
笑う合間に、彼女は何度かそう言った――何かに深く納得したかのように。
そして、一通り持っていた緊張感を吐き出した後に、一度深く溜息をついた。
「あなたは、そういう男だったわね」
彼女の不思議な反応にうろたえていた御剣に、彼女はしばらくしてからそう言った。
彼女の目は、そのまましっとりと伏せられる。
もしかしたら、彼女はまた思い悩んでいたのかもしれない、と御剣はふと思った。
同時に、愛しさにも憂いにも映るその姿があまりにも美しく見え、彼は思わず正面にいた彼女の身体を引き寄せる。
何があっても愛情を伝えれば、きっと彼女のことを支えてやれるはず――だからこそ、彼女に触れ、全力で抱きしめてしまいたかった。
だが、もう少しで唇に届きそうなところで――
「――こら」
黒の手袋が伸びてきて、少し乱暴に御剣の唇を塞いだ。
「ここは執務室よ。自重なさい」
「鍵を閉めたのだろう?」
焦れったい思いを隠しながら御剣がそう尋ねると、冥は平淡な表情でそれに答える。
「念のためね。」
「――またしばらく会えないのだ。少し触れるくらいは良いだろう」
確かに職場でプライベートな関わり方をするのは褒められたものではないが、彼女はもうすぐ自分の国に戻ってしまう。
ここには御剣と冥しか存在せず、鍵をかけたことでその状態が崩される心配もないのだから――
暗にそう主張する御剣の哀願を、冥は表情一つ変えずに一蹴した。
「己の立場を、自覚しなさい」
「私の、立場だと?」
「現状を変えようとする者は、現状に胡坐を掻く人間に疎まれるものよ」
冥は御剣の目をじっと見て、静かにそう応じる。
「小さな倫理違反に足元を掬われて、全てが水の泡になる可能性だってある。
――それが念頭にあるのであれば、こんな軽率な真似はしないはずだわ」
その瞬間、御剣の背筋に痛いものが走った。
――それでも、あなたはその道を行くのね?
先程御剣にそう尋ねた目の光の強さを思い出す。
それと同じ目で御剣を諭す彼女に、返す言葉が見つかるだろうか。
あたかも傍観者として見届けると言わんばかりの彼女だったが、実際にはそうではないのだ。
同じ覚悟で、必要があれば共有するものを犠牲にする――彼女はそのつもりなのだろう。
「わかった」
彼女が御剣の成したいことを理解した上で、ここで触れ合うことが良くないと言っている以上、御剣は折れるしかない。
「――わかればよろしい」
御剣が溜息を吐きながら冥の腕を放すと、彼女は満足そうに微笑む。
そこにはもう、置いて行かれることを悲しんでいた少女の姿はなかった。
「――君は、大人になったな」
通り抜けていく感傷のままにそう伝えると、彼女は少し意外そうな顔をした後に苦笑した。
「誰かさんがコドモだから、私が大人になるしかないのよ」
「そんなことまで私のせいにしなくてもいいではないか」
御剣は、少し拗ねてそう抗議してみせた。
気高い猫のように目を細めていつもの笑顔を見せてそれに応じる。
そうしながらすっと御剣の手の届く範囲から身を引き、彼女は深呼吸をした。
それから冥は、少し改まってこう告げた。
「それじゃ、行くわね」
「――次は、いつ会えるだろうか?」
踵を返す姿に少し慌ててそう尋ねると、彼女はとても不思議そうな顔をする。
「別に今決めなくてもいいでしょう?いつでも連絡できるのだから。」
指された先にあるのは、机の上の携帯電話。
連絡を取っていなかったことを悪いと思いながらもどうすることもできずにいた御剣だが――
彼女の方はそのことを全く気にしていないようだった。
その様子に、御剣は少し救われたような気持ちになる。
「――そうだな、また明日。」
明日の朝、彼女がここを発つ前に、声を聞くことにしよう――私達は繋がっているのだから。
そう考えた上で、御剣は彼女に声をかける。
「ええ、また明日。」
改めて踵を返すと、冥は振り返ることなく姿を消した。
***
会いに来て良かった、とエレベーターを降りながら思う。
――私の好きだった御剣怜侍は、まだちゃんと彼の中に存在している。
冥は、彼から逃げることはできない。
もしかしたら彼の、埋まらない心の空洞を埋めるのを手伝うことに大きな労力を費やす人生になるのかもしれない。
――でも、大丈夫だ。彼を愛することができるのならば、きっと悪い未来にはならないだろう。
自分の視線の先にあるもの以外を簡単に切り捨てることができるほどの、残酷な人。
一方で、馬鹿がつくほどのお人好しで簡単に自分以外を許してしまえるほどの、優しい人。
それらは表裏一体――彼の性格と、歩んできた人生の全てがそれらを形成しているのだ。
片側に失望しても、もう片側はとても貴く思える。
――だから大丈夫。私は、あの男を愛していける。
自分の寝所に戻るまで、冥は何度も何度も、自分の中でそう繰り返す。
彼と自分のこれからの人生が、少しでも不幸な方へと傾かないように。
<おわり>