丁寧に掃除されたバスルームで、深く息を吐く。
追っていた事件の捜査にはまだまだ続きはあるものの、とりあえずひと段落ついた。
久々に手に入れた休息を、とりあえずは一人でぼんやりする時間に充ててみることにする。
しかし、口を通る深呼吸は、むしろ溜息と呼んでよさそうな音と重さを備えていた。
ここしばらくの間、プライベートに意識が回らないくらい忙殺されていて、小難しいことを考える余裕などなかった。
御剣怜侍のことも思い出さなかったわけではないが、すぐさま仕事に関係ないことだと頭の中から排除していた。
しかし今は、その時間をとることができる。
それは幸か不幸かというと、限りなく不幸に近い。
できれば考えたくはないのが正直な所だった。
しかし、
これ以上見ないフリをしても仕方がない。
――“何を言われても、考えを改めるつもりはない”
思い出したくなかった音声を、冥は頭の中で再生する。
あれは、非常に不愉快な言葉だった。
何故ならば冥個人にとって、関係の破棄に等しい意味を孕んでいるからである。
検事を辞めるという人生で重要なはずの選択を、彼は一人で決めてしまった――上位機関の陰湿な遣り口に、追い詰められていたのは、わかるけれども。
一旦壊れたものは元通りにはならない。
そして、仮に修復できたとしても、壊れたという事実は消せない。
冥に何一つ打ち明けぬまま、御剣怜侍は自分の中だけで決断した。
たとえその後、彼が検事であろうがなかろうが、本質的に同じ道にいることに変わりはないと示唆されていても、
結局検事を続けることになっても、あの男がある種の信頼を壊したことは間違いないのだ。
そこまで考えて、冥は数日前の狼士龍との世間話を連想する。
『そう言えば、あの検事さん――』
これからの人生を「法の矛盾」と闘うために捧げるという御剣怜侍の決意は、人伝に冥に届けられていた。
これも、御剣が一人で決めたことの一つである。
あの後、御剣怜侍とは顔を合わせることがあっても、落ち着いて私語を交わす機会もなかった。
電話も含めて御剣怜侍からそうする働きかけもなかった――冥も同様だったのだから、お互い様ではあるが。
それに、こちらの件は仕事上のポリシーのことだ。
外部組織の人間である冥が共有する必要はない、とも確かに言える。
それでももっと早く、御剣本人から直接聞いておきたかった。
同じ道を歩いていると言うのなら尚更――冥はそう思うのだ。
あの男のことを考えると、まるで蚊帳の外に突き放されたような感覚ばかりが響く。
衝動のままに左腕で水面を叩くと、 水飛沫と浮かべた泡が顔に飛んできて余計に忌々しさが募った。
しかし逆に、両手でそれを拭っているうちに、段々と馬鹿馬鹿しいという思いが湧いて力が抜けてくる。
――自惚れ過ぎていた、ということかしらね。
冥は一つ溜息をついて、自嘲気味に小さく笑った。
戯れに口の前にかざした泡が、勢いよくバスタブの上を舞う。
それをぼんやりと眺めながら、冥は思考の続きに没頭した。
御剣からは、もっと尊重されていると思っていた。
“パートナー”であるはずだと――互いの人生に関わる重要なことを、分け合い決めていく相手と見做されているはずだと。
けれど、それは冥の勝手な思い込みからくる解釈で、御剣怜侍にとっては違ったらしい。
今回のことでそれがはっきりした。
恐らく彼が冥に求めているのは、そのような相互的なものではなく、もっと一方的な関係のようだ。
――例えば、自分が歩いていく道に、当然のようについてきてくれるような。
結論として、御剣怜侍は、冥が期待していた形で彼女を信頼しているわけではないらしい。
そして、彼は自分の信念を貫くためならば、冥のことなど簡単に置いていくことができる。
これらの事実は、冥にとっては足元が崩れるほど恐ろしいことであるはずだった。
だが今、それをそこまで引きずっているわけでもないらしい。冥はそう感じていた。
――気は重いが、どこも痛くない。
御剣怜侍がバッジを置いていった時、一度は激昂した。しかし、その後は頭のどこかが驚くほど冷静な状態が続いている。
そのことが、とても不思議だった。
――腹が立つのを通り越して、「もうどうでもいい」という境地に達してしまったということなのだろうか。
自分自身に、そう訊いてみる。
だが、それも良いのかもしれない――答えを出す前に、彼女はそんなことを考えた。
期待して傷つくことを繰り返すくらいならば、さっさと破綻にしてしまうのも1つの道だ。
確かに柵ごと受け入れ、共に在り続けると約束した。
しかし、違いすぎる方向性を求めているのであれば、共に在ってもプラスにはならないだろう。
御剣といれば、恐らくまた同じような場面に出くわす可能性が高い。
何しろ付き合い始めて早々に今回のような騒動が起こったわけだし、彼の性格や信念が変わるとも思えないのだから。
そう考えているうちに、何故か1つのフレーズに引っ掛かりを感じる。
思考をまとめようと、
冥は数秒動きを止めた。
――彼の、“信念”。
少しの逡巡の後、飽きるくらいに吐いた溜息をまた1つ生み出す。
――そういえば自分には、与えられていなかったではないか。
冥は頭の中で己にそう毒づいた。
あの男から離れるという選択肢なんて、はじめから、自分には存在しないのだ。
しばらく前になるだろうか。
実家の母が突然、冥に会いに来たことがあった。
母の来訪はそんなに珍しいことでもなかったが、その日の母はいつもと違う用向きで冥のところを訪れた。
御剣怜侍への賠償が済んだ――母は半ば唐突に、冥にそう告げたのである。
御剣とは「あの事件に関するやりとりは、これで全て完了した」との合意もしたとのことだった。
だから冥はそのことに囚われずに生きて構わないのだと、母が続けて話していたことを覚えている。
「終わった」ということを冥に理解させたいことは、はっきり伝わった。
しかし――
――それは甘いわ、ママ。
報告と助言を聞いてすぐ、冥の口からそんな言葉が出そうになった。
しかし、どうにかしてそれを呑みこむ。
母が冥にそう諭したように、冥も母にとってあの事件が「終わったこと」であって欲しい。
せめて母や姉には、必要以上に苦しんでほしくないと願っている。
しかし冥に限っては、「終わった」と思考停止するわけにはいかなかった。
あの被害者の青年とこれからも接する可能性がある以上、忘れるわけにはいかないのだ。
御剣怜侍は多少けちなところはあるが、記憶している限り、金銭にさほど執着があるわけでもない。
賠償は確かに必要なものではあったが、彼にとっては金銭による賠償など形式的な茶番に過ぎないのだ。
多くの被害者が恐らくそうであるように、あの男が今回の“賠償”で救われることはない。
そして、冥は知っている。
完璧ではなくとも、金銭よりは彼が救われる可能性をもった、償いの方法を。
“御剣怜侍は、どうしてあそこまで信念に固執するのか。”
――その答えの先に、冥の考える償いの道がある。
確かに性格もあるかもしれない。昔から、彼は頑固でこだわりが強い方だった。
しかし、それで片付けてしまってはいけないだけの気迫をもって真実を追求している部分もある。
彼はそうすることで、狂わされた父と自分の人生に意味を見出そうとしているのではないだろうか。冥はそう考えている。
つまり、彼がより多くの弱者を救うことができれば、彼もそれだけ理不尽な過去からいくらか救われるということなのだろう。
冥はそう仮説を立て、それが見当違いでないことを様々なエピソードから実感してきた。
そこから、本当の意味で彼のために償いをするのであれば、そこに協力するべきだという結論に至る。
それが達成するまでは、冥は御剣と関係を絶つわけにはいかない。
――何をもって達成とするかの基準がないことが、この問題の難しいところだが。
そして、今回改めて、冥は彼の信念への頑なさを痛感した。
彼女が驚くほど冷静でいられるのは、もちろん半分は、怒りが失望に転じた結果であるのだろう。
しかしもう半分は、狂気とも感じられる御剣の姿を目の当たりにしてしまったことが一因かもしれないと、彼女は思い始めていた。
あれはほとんど取り憑かれているに等しい――迷える子羊達を導く、救済者たらんとする願望に。
そして、過去が覆るか記憶喪失にでもならない限り、恐らく彼はそこから抜け出すことが不可能と思われた。
御剣怜侍はそこに囚われたまま、最期まで生き続けなければならないのだろう。
そう予感して、改めて冥は忘れてはならないと思った。
自分が御剣と共に歩くことを選んだのは、一般的な思慕の情だけでは説明できないものが背景にあるからだと。
下僕になるつもりも、検事としての矜持を曲げるつもりもない。
しかし彼が幸福に近付くための――不幸から遠ざかるための助力は惜しまない。
犯罪者のそれとは違う、けれども少し似ている厄介な魔物に取り憑かれたあの男の人生が、少しでも救われたものとなれば良い。
自分が彼にすべきなのは、結局そのためのサポートなのだ。
そして、いつか彼が救われれば、きっと――
そこまで考えて、冥の思考は、はたと立ち止まった。
――今、自分は何を考えていた?
我ながら応じたくない内容の追及に、彼女は恐る恐る答えを出した。
“御剣怜侍が少しでも救われれば、きっと――きっと自分も、この後ろめたさから、いくらかは救われるのだろう。”
どこかでそう考えて、希求している。
そんな己を、冥ははっきりと自覚した。
少なくとも彼女の中では、その事実に直面するのは初めてのことだった。
じわじわと、身体のそこから不気味な息吹が湧き上がる。
息吹は暗い笑い声となって、浴室を支配する。
ほどなくして胸元の泡に吸い込まれていく水滴を、冥は意識から除外した。
――救済者願望に取り憑かれているのは、御剣怜侍だけではない。
彼を救うことで、どうすることもできない罪悪感から救われようとしている自分を見つけてしまった。
そして、彼女もそこから抜け出す術はない。抜け出すには遅すぎた。
一度御剣怜侍の手を取ると決めた瞬間に、自分からその梯子を切り落としてしまったから。
たとえ、あの男が自分を裏切っても、置いていったとしても、自分は彼を裏切ってはいけない。
――私は、彼を不幸にしてはいけない。そう感じさせてはならない。
彼が望まない限りは置いていってはいけない。
それがどれだけ傷つくことかを彼女はよく知っているから。
そう考えていくと、やはり冥には御剣怜侍から離れる道は残されていないということになる。
――そう語れば、まるで健気な自己犠牲のようだった。
逃げ道を失くした彼女は、傍からはとても可哀相に見えるかもしれない。
けれど、それは冥自身が無意識に望み、自ら縛られてきたことなのだ。
結局全ては、自分の精神的な利益を守るための戒めに過ぎないということだ。
自ら飛び込んだ暗闇で少しでも自分が楽に生きられるように、小さな光を灯す。
それが狩魔冥の、御剣怜侍に対する“償い”の正体。
つまりは、きわめて利己的な偽善。
「――とんだ茶番だわ」
苦々しい、掠れた声が、まるで他人事のようにバスルームに響いた。
立ち上がって栓を捻ると、上を向いた顔面に強い人工雨が降り注ぐ。
気が済むまで全てを洗い流すと、冥は何一つ纏わぬままそこを離れた。
自分が思っていたよりも遥かに狡い人間であることを、彼女は思い知った。
浮かれていたのだ――ずっと追いかけていた男が振り向いてくれたということだけを過大視して
自分の置かれた立場がどんなものであるかも直視せずに。
そうして綺麗なものだけをフィルターに通していたのだ――醜い自分の姿すら、健気なものに書き換えて。
「――馬鹿馬鹿しい。」
バスルームの扉を後ろ手に閉めながら、彼女はそう吐き捨てた。
ぐだぐだと嘆いていても仕方がない。
何だかんだと御託を並べたところで、この道を行くことを決めたのは自分の意思に他ならないのだ。
そして、決めたのだったら――自分にできるのは、前に進むことしかない。
――それが、たとえ偽善であったとしても。
いつもの服に包まれた両腕で、手の中の鞭を撓らせる。
普段の自分がそこに在る実感を確かめながら、冥は目を閉じてあの男の姿を頭に浮かべた。
<おわり>