「‥‥‥‥何を言われても、考えを改めるつもりはない。」
それだけ言い残して、男はその場を去っていく。
“また‥‥私を置いていくというの!”
つい我を失って口から出たその叫びも、彼のバッジと一緒にそこに置き去りにされた。
同じように置いていかれた彼女は、泣くでもなく震えるでもなくその場に立っていた。
――ああ、そうか。
先程まで頭頂まで上っていたその血と体温が、みるみる下へと引いていくのが全身から伝わってくる。
――あの男は、こんなにも簡単に、私のことを置いていける。
自分でも怖いほど冷静に、冥はこの事態を受け止めていた。
そこには悲しみも怒りもなく、ただ、腑に落ちたという感覚だけがはっきりと伝わってくる。
――結局あの男にとって、私はそれだけのモノだったということだわ。
確か成歩堂龍一も、同じような目に遭って怒りを顕わにしていたではないか。
正義や信念こそが、彼にとっては何よりも重要なのだ。
それを犠牲にするくらいならば、例え長い付き合いの知己だとしても、あっさりと捨てることができる。
――それが、『ずっと好きだった』はずの恋人だとしても。
御剣怜侍は、そういう精神構造の男なのだ。
若い裁判官が御剣怜侍のバッジを回収するのを横目に、冥は踵を返した。
今は捜査に戻らなければ。そう考えて足を一歩踏み出すと――
「狩魔検事!」
太い声に呼び止められて振り返ると、やはり同じように置いていかれた、御剣怜侍の忠犬がそこにいた。
その男はみっともないくらいに、うろたえた表情を顕わにして冥を見ている――そんな顔ができることが羨ましい、そう思うくらいの素直さだ。
きっと自分も、奥底の本音のところでは、あの顔と同じような思いなのかもしれない。
そんな気がしただけに、刑事のオープンさがやたらと気に障った。冥はいつもより強めに激励の鞭を見舞う。
「あの男がどうなろうと、自分のできることをするしかないでしょう。私も、貴様も。」
そう言い添えた自分の声がひどく落ち着いていて、冥は意外に思った。
もう一度足元に鞭を打ち付けると、一呼吸遅れてから刑事が神妙そうな表情で顔を上げる。
恐らく、最後に御剣怜侍から言われたことを思い出したのだろう。
「来なさい。貴様には訊きたいことが山ほどあるわ。」
刑事の返事を待たずに、冥は自分の行くべき場所へと、改めて体を向けた。
――奥底で渦巻く何かには決して呑みこまれてはいけない。頭の中で何度もそう繰り返しながら。
<おわり>