「そっちは、何か見つかった?」
すぐ近くの茂みを覗き込みながら、冥がそう問いかけてくる。
何も見つけていない旨を返すと、彼女は軽い返事を返して黙々と捜査を続けていた。
その横顔は、隙を許さない真剣な表情をしていて、御剣は少しだけそれに見惚れる。
それから少しだけ、ちりちりとした複雑な感情に思いを巡らせた。
2人はひと月ほど前から正式な交際を始めたのだが、
万が一仕事がやり辛くなったら互いに厄介だから、と冥に提案され、御剣は彼女と一つの約束を交わしている。
それは、2人の関係は極力他者には秘密にする、というものだった。
その決まり事を完璧に守って、冥は涼しい表情でプライベートの顔を隠し切っている。
そんな姿を目の当たりにして、御剣は彼女が頼もしいような、それでいて恨めしいような気分だった。
彼女が仕事の虫であることは知っているし、御剣自身も同じようなものだ。
しかし、自分が迎えのハイヤーを取りやめにしてまで彼女と話す時間を作るような綻びをいくつか見せているのに対し
彼女の態度には隙がなく、そうした素振りをほぼ見せない。
――数日前、御剣が国際警察から容疑者の一人として見做されていた時の
あの「私情を挟むものか」と言わんばかりの鉄壁ほどではなくなってはいる。
しかし多少綻ぶを見せるしても仮初の上司と部下、あるいは関係者なら誰でも知っている兄妹弟子としての気安さまでのものだ。
時々楽しそうにはしているが、特別な雰囲気は一切見られない。
それを仕事の時間に望む自分も自分である、と御剣は自覚している。
しかしある意味ではそう望んでも仕方ない、とも彼は考えていた。
ただでさえ地球の反対側に近い場所でそれぞれ暮らし、時差や多忙によって電話による連絡すらままならない二人である。
付き合い始めてはじめの2週間ほどは、数日おきにどちらかの起床時間に合わせて5分ほど、電話で言葉を交わすことがどうにかできていた。
しかし――恐らく今回の任務についたあたりからと思うのだが、彼女は私用の携帯の電源を、頻繁に落とすようになった。
もちろん「忙しくなるから」と一言断りは入れられていたが、ちょっとした会話を交わすことも、より困難な事態となったのは事実だ。
ただし、代わりにほぼ毎日、相手の生活時間に合わせた「おはよう」「おやすみ」のメールを送るようにはなっている。
交際前は互いのメールの番号も交換していなかったのだから、かなりの進歩ではあるのだが――
御剣は彼女がここまで危ない仕事をしているのも知らなかった。日本に来る予定も知らなかった――恋人なのに、何も知らない。
そうした情報を得られそうな会話の機会は、殆どなかったと言って良いだろう。
とはいえ、育った文化が違うだけでなく、二人とも送ってきた人生も価値観も一般的なそれとは相当ずれているから
普通の付き合い方ができるとは、御剣も思っていなかった。
互いにそれぞれの道を追求することに重きを置きつつ、それでもどこかで繋がっているような交際の形は、御剣の生き方にも合っている。
しかし、だからこそ――せめてふとした時の表情や視線で、特別な雰囲気を見せるくらいの綻びはあってくれても良いのではないか、と思うのだ。
とはいえ、御剣にとってはこの秘密は万が一誰かに発覚しても、多少気まずいくらいで死にはしない程度の認識だが
冥は当初から「どうしても秘密にしたい」という主張を続けていたので、鉄の掟として守っているのかもしれない。
よくはわからないが女性にとっては、色恋沙汰を開示することで仕事がやりにくくなったりすることが顕著なのだろうか。
だとしたら協力するのも愛情の一つ、ということなのかもしれない。御剣はそう結論付けることにした。
そこまで自分以外の何かを優先されるのは多少気分は良くないが、しかし、そこはお互い様。
彼のこの思考だって、捜査に集中する合間に、影響が出ない程度に行われていることなのだから。
視界を限定すれば恋人同士の時間を楽しめそうな雰囲気の薔薇の庭で、こうして御剣は冥と二人で事件の真実を追い求めている。
捜査と推理に集中し、情報共有を挟みながらも、彼は時折、つれない彼女を眺めてはどこか寂しような思いに陥るのだった。
「こんな時に言うのも何だけれど」
もう少しで庭園を概ね調べ尽くしたと言えそうな頃、横並びに歩いていた冥がそんな風に口火を切る。
視線と身体の向きは御剣の方を向いていなかったが、言葉はどうやら彼に投げかけられたようだった。
「どうした?」
そう返す御剣も、彼女に倣って視線や身体の向きは敢えて変えないようにする。
すると、冥は少し長く溜息を吐いて、それからやはり淡々とした口調でこう言った。
「あまりにも何事もないように振る舞われると、多少腹が立つものね」
思わず彼女の方を向くと、やはり彼女はこちらをちらりとも見ずに前に進んでいる。
はじめは、彼女の言わんとしていることがよくわからなかった。
しかししばらくしてから、もしやと思い当たることが浮かんでくる。
「――もしかして、私のことか」
「そうでなければ、他に誰がいるのよ」
彼女のその言葉で周りを見てみると、確かに誰もいなかった。
ここ数日彼女と共有した時間を思い返しても、他に当てはまる人物も見当たらない。
「約束を完璧に守ることができるというのは信用に足るということだから、別に良いのだけれど」
彼女はそう言うと、自分の捜査メモの確認を始める。
かなり癪になって、それとなく言ってみた。けれど、約束を不履行にする気はない――そんなところだろうか。
御剣が周りを見渡して気付いたのは、ちょっとした会話が届きそうな範囲には捜査員も大使館関係者も誰もいない、ということだった。
表情や行動は雰囲気を作るので、多少遠くからでも、他の人間に思慕や感情が読み取られる可能性がある。
もちろん気がつかない人間も多いだろうが、察しの良い者もいるはずだ。
恐らくだが、彼女はそう考えてぱっと見てわかるような動きを全て封じ込めているのだろう。
御剣もできるだけ、彼女とは友人以上の何物でもないかのように振る舞うよう努力していた。
それが実った結果、余りの隙のなさに彼女の方も不安になってしまったのかもしれない――その上での発言と推測された。
「私から見ると、君も至って何事もない顔をしている」
「そうなるように振る舞っているのだから、それは当然のことだわ」
冥は、言葉と全く同じ様子でそう言い切った。
今のやりとりでは、彼女の本音は言葉に現れているはずである。
そう考えて分析してみたところ、そこには御剣も不安になる、という発想が一切含まれていないように感じられた。
年齢差ゆえか、彼女は全体的に御剣を過大評価しがちだ。優位に立ちたがるいつもの態度も、だからこその裏返しなのかもしれない。
そしてそれは年齢や能力についてのものだけではなく、情緒面についても適用されているのではないだろうか。
電話の電源を切られ始めたあたりから薄々そんな気がしていた――彼女は自分のことを何とも思っていないのではないか、とも考えたりしたものだが。
だが、先程の発言を受けて、自分の予想はそんなに的外れではないという結論に至る。
つまり、彼はそんなに不安を感じたり寂しくなったりしない人間だろう、と冥は考えているようだ。
しかしそれは誤解である。確かに鈍感と言われることは多いが、自分自身の感情にはそれなりに敏感な方だと思う。
――このまま誤解を放置すると、大きな事件の度に半年ほど放置されかねない。
前回あれで大丈夫だったから、とメールすら来なくなるかもしれないな、と御剣はぼんやり思った。
ただし、恐らくそうなったとしても――半年経っても彼女を待っている気がする。
そんな自分を想像するとやたらと可笑しくなり、御剣は思わず吹き出した。
「何がおかしいの?」
ほとんど間髪なく、冥がそう話しかけてくる。その音には、少し苛々としたものを感じた。
自分の仕事に没頭しているように見えて、意外とこちらの動きに敏感なのだな――と御剣は改めて気が付く。
大したことではない、と応じると、冥はそれ以上訊いてはこなかった。
が、何となくその横顔が拗ねているようにも見えたので、御剣は業務連絡のふりをしながら、彼女に話しかける。
「ということは、相手も君と同じようなことを考えているのかもしれないな」
「それは、さっきの話かしら?」
「ああ、そうだ。」
そう答えると、冥の動きがはたと止まった。
それから数秒して、彼女はようやく時間を取り戻したらしい。
「――そういうものかしら」
そう尋ねる彼女の声は、まるで新しい事実でも発見したかのような響きだった。
「そういうものだ」
彼女の新発見が当然の真実として定着するように、御剣は大きく構えるような口調でそう答える。
すると、今度はそれを咀嚼するかのように、彼女が動きを止めて考え込んだ。
何となく御剣も動きを止めたので、二人の世界は静寂に包まれる。
「――そう」
先程の2倍ほど経った後に、彼女が少し柔らかく、息を吐く音が聞こえた。
「ああ、そういうことだ」
ふと見ると、冥は近くにあった茂みの方を向いていた。
そこは先程捜したではないか――と声を掛けそうになったが、既のところでそれを呑みこむ。
もしかしたら、そうすることで表情を隠しているのかもしれない。
「何か見つかったか」
戻ってきた彼女にそう尋ねてみる。
「思い違いだったわ」
「――そうか」
それだけで、何となく理解できた気がした。
そう思うと、自分を敢えて見ようとしないその背中も、とても優しいものに感じる。
表面で見せ合うことをしなくても、こんな風に少しの言葉だけで通じ合える――彼女と自分は、そういう二人なのだ。
そう思うと、御剣の中で温かいものがじわじわと込み上げてきた。
それを表情に出さないようにするのはとても骨が折れることだな、と痛感する。
しかし、それも彼にとっては幸せの一部に過ぎなかった。
<おわり>