まだ、二人が真実に隔てられていた頃、
御剣はそこに帰ってみたことがある。
それは、ある種の確認のようなものだった。
父のように慕っていた師に対しての憎しみに、自分が我を失わないでいられるかどうか。
隠遁生活から戻ってきて、検事局の上層部と復職の話を秘密裏に何度も行った。
元通りに戻ることができると大方決まったその帰り道に、何となく行ってみようと思ったのである。
実父を亡くしてからの少年時代を過ごした、狩魔邸。
父を殺した男、そして師でもある狩魔豪との記憶が詰まったものの大きな断片だった。
その娘に会うことも帰還の大きな理由であるだけに、彼女に会う前に、自分が師の影に揺れないことを確かめておきたい。
自分は立ち直ったと信じていた彼は、緊張しながらも一応は軽い気持ちでそこに立ち寄ったつもりだったのだが――
彼がそこで感じたものは、師の影などではなかった。
――廃墟、と言えば一番しっくりくるだろうか。
主の信念通りに完璧に整備された、あの荘厳な面影はなく、荒れ放題の洋館。
樹や茂みは伸びっぱなしで、塀の外から見える建物には、壁の汚れやガラスの割れが目立つ。
何よりも酷いと思ったのは、外を囲む塀だった。
いくつも破壊された跡と修理された跡があるだけではなく
法の番人でありながら大罪を犯し、隠蔽したことを批判する落書きが多数残されていた。
長いものもあれば、端的に口汚い言葉で罵るようなものもある。
はじめは消されていたような痕跡があるが、追いつかなくなったのか、新しいものは放置したままだった。
父を亡くした狩魔の娘の様子を見た時と同じように、胃がその現実を受け入れがたいと言わんばかりに吐き気を訴えた。
――人間のドロドロした部分をひたすらぶつけられたようなその光景は、不快と恐ろしさを御剣に植え付ける。
居心地の悪さに周囲を見回すと、警官が何人か見回りをしている。
この有様の所為で、この住宅地の治安が悪くなっているのだろうか。
こうなった経緯を知りたいと思ったが、警官は見慣れない男が悪さを仕出かさないかと目を光らせているため、話しかけづらい。
正式な復職の前であるため、職権を発動するわけにもいかないだろう。
仕方なく、御剣は苦手意識にとらわれつつも井戸端会議の女性達に声をかけ、この状況について尋ねてみた。
身形から「子供の頃、この界隈に住んでいた」という主張が通ったらしく、御剣はいくつかの情報を引き出すことができた。
――もちろんクラバットは着けていたが、あの荒れた家の住人であったことは、幸いにも気付かれずに済んだようである。
知ることができたのは、こうした“悪戯”が始まったのが、邸の主の犯罪が明るみに出てからだということ。
それでも今は――というよりも主が死刑となってから――は、だいぶん落ち着いてきていること。
遺族が土地の売却を検討しており、最近堅そうな背広の人間が複数出入りしていること。
いったん国が引き取ってしばらく公園か何かにした後、宅地として分けて売られるだろう――というところは住人達の推測に過ぎないようだが
とにかく大変なことが続いてきたのだと、御剣にも十分伝わってくる内容だった。
狩魔の娘がこの家を使わずにホテルや期間貸しのマンションを渡り歩いて暮らしていることは、糸鋸刑事から知らされていた。
忙しくて広い実家の管理が難しいからだ、と勝手に考えていたが、どうやらもっと深刻な理由が存在したらしい。
しかし――御剣は疑問に思った。
刑事は、定期的に冥について得た情報を知る限り報告してくれているはずなのに、御剣にはこの惨状について何も伝わってこなかった。
――ということは、刑事も知らないのだろうか。
仕事の合間を縫って御剣に会いにきた刑事にこのことを問うと、“知らなかった”という返事だった。
糸鋸刑事が冥の部下となったのは、彼女の仕事の補助よりも、彼女に身辺警護と住居への送迎が不可欠だったからこその人選だったらしい。
そして、刑事が送迎を始めた時点で、冥はすでに住所不定の生活を始めていたそうだ。
検事局長から直々に、彼女の下に就くようにと刑事が言われた時には
検事局や狩魔邸に“嫌がらせ”が続いていることも知らされたらしいが、具体的な内容は伏せられていたという。
刑事は彼女の住居の場所とスケジュールを知っている分彼女のプライベートに詳しい方ではあった。
しかし狩魔冥という人物は、日頃から個人的な話をすることが少なく、特に年が明けてからは刑事にも完全に心を閉ざしているようだ。
だから、刑事が知らないのも、当然のことだろう。こちらも、私生活に関しては調査を頼んでいなかったのだから――
――そのことに納得しつつも、当時の御剣は、歯痒い思いになったものだ。
あの時期の彼の日常のいくらかは、彼女を護るための算段に割かれていたのだから。
結局冥は完璧にプライベートを隠し通したので、彼女自身にどれだけ被害があったか今でもわからぬままだ。
ただ、狙撃された時の怯え方を考えると、何もなかったわけではないということは想像に難くない。
和解して、恋人として付き合い始めてからも、彼女は御剣にそのことに何も言及しない。
もちろん、二人はつい数日前にそういう関係になったばかりで、それ以前は離れ離れで語る暇さえなかったのだから、それは当り前のことなのだが。
それでも恐らく、彼女はこれからも言わないのだろう、御剣はそう思っていた。
そんなことに思いを馳せながら、御剣は目の前の緑地を感慨深げに眺める。
――あの荘厳な洋館も、凄惨な廃墟も、もうどこにもない。
旧狩魔邸は、御剣が日本を離れている間に取り壊され、噂の通り緑に囲まれた公園となった。
治安も元に戻り、品の良い紳士淑女や子供達が定期的に剪定された綺麗な木々の風景を楽しんでいるのが見える。
するべき仕事を終え、一足先に国へ帰るという冥を見送った後、御剣は何となくここに足を運んだのだった。
自分が揺れていないことを、もう一度だけ確かめよう、と。
だが、その基準となるものは全て消え失せて、その答えはわからず仕舞いだった。
――それで良いのかもしれない。
狩魔の遺族との民事による清算も、すでに終わっている。
昨年、冥が負傷して帰国した数日後に、彼女の母親の代理人を名乗る男が現れて御剣にその話を持ちかけた。
御剣の失踪によって不可能となっていた謝罪と賠償を望んだ相手方に、御剣は一度はそれを固辞した。
“お嬢さんのことは今でも友人だと思っている。彼女から謝意を充分受け取れたので、これ以上は何も必要ない”――と。
だが結局、“それならば尚更、形に残る方法で決着をつけなければ、お互いに気持ちを切り替えて友情を続けることが難しいはず”
という代理人の意見に納得させられて、御剣は法的な手続きに参加し――狂わされた親子の人生を補償するという、大量の無機物を得た。
御剣にとっては、それ自体は何の感慨も湧かないものだ。用途も思いつかない。
ただ、御剣は他に求めたものを手に入れた――これにて狩魔と御剣の問題には遺恨なく決着がついた、という主旨の同意書を。
これを根拠に、年若い狩魔の娘に、彼女がもはや何からも自由であることを知らせてほしいというのが、御剣の一番の望みだった。
海外に出た後、御剣に代理人から連絡があり、その望みは母親によって“それとなく”実行されたという知らせを受けた。
趣味の悪い要求だったかもしれないとは思うが――彼女が罪悪感から御剣の傍に留まろうとする可能性がある以上、やっておいた方がいいと思ったのだ。
その結果、彼女がどう思ったのかはわからない。やはり彼女はそのことを語らない。
精神的な意味で御剣の傍にいることを決めた彼女の本心が、数日前に御剣に語ったものと同じであるのか――真実は、闇の中だ。
こうして自分は、彼女の本心に対して疑心暗鬼になりながら、過ごしていくのだろう。御剣はそう予感する。
だが、蟠りを受け入れながらも共にあることを、互いが選んだのだ。この疑念も、その範疇だ。
ただ、もし彼女がこうした蟠りを積み重ねて苦しむことになったら――その方が御剣にとっては重要な心配だった。
彼女を不幸にすることだけは、決して彼の望むところではない。
だからもし、いつか彼女が苦しんで別れを望んだら――その時は笑って見送ってやろう。
御剣はその場で、何のためらいもなく、そう決意した。
「君は自由だ、メイ」
誰も近くにいない公園の片隅で、御剣はそこにいない人に話しかける。
――君は自由だ。だから、どこに行ってもいいのだ。
心の中でそう語り直しながら、御剣は彼女が愛でていた花壇があった方角を見遣る。
記憶に浮かぶ彼女はまだ幼かった。
しかし、当時のあどけなさはどうしても思い出せない。
まるで成長し辛酸を舐め尽した今と同じように、その幻は複雑な表情で御剣に笑い返すだけだった。
<おわり>