相変わらず何もない部屋だ、とつくづく思う。
20平米ほどの、広くはない部屋。白い壁と、さほど高くはない天井。
備え付けの電灯とクローゼットの他には、シンプルなデザインのカーテン、
そして手頃さが売りの北欧系家具店から取り寄せた、簡素なベッドとサイドテーブルがあるのみだ。
クローゼットの中も、薄い埃以外に何もない。
この部屋の主にと望んだ女性は、ここに私物を置いたりしなかった。
そして、片手の指で数えられるほどしか、この部屋に足を踏み入れることもなかった。
そんな部屋の床に足を投げ出して座り、家主たる御剣怜侍はぼんやりと部屋の中を見回している。
さすがに毎度ではなかったが、時々こうして休日を過ごすのが普通のことになっていた。
――どうして、彼女はいなくなってしまったのだろう。
女々しいことだと思いつつも、彼はぼんやりとそんなことを考える。
彼女と暮らす為にとこの住居を買い、こうして彼女用の部屋も用意した。
互いの人生を繋ぐ約束の指輪を贈ると、彼女はその意味を理解した上で受け取ってくれた。
それなのに、彼女は彼の前からいなくなってしまったのである。
仕事が忙しくなるからしばらくそちらに行けなくなる――半年前にそんな手紙を寄越してから、彼女からの音信はなくなった。
電話も解約はされてはいないようだが、自宅は常に留守電のまま、携帯に至っては電源すら入っていない様子だ。
“半年経っても音信がない場合は、全てを白紙にしてもらって構わない。荷物も適当に処分して欲しい。”
手紙にはそうあり、ご丁寧にその費用らしきものが御剣の口座に振り込まれていた。
――世間の金銭感覚に疎い彼でも、不要物の処分代としては桁が多すぎると感じるのだが、それ以外に心当たりがない。
ただ実際には、処分が必要な物は先述のベッドとテーブルくらいのものだ。
それどころか家の中を探しても、歯ブラシ一本、メモ一枚すら彼女の私物は見つからなかった。
最後の手紙を書く以前――最後に会った時には、すでに彼女はこうする意志を固めていたのかもしれない。
いや、彼女の趣味からいくらかずれた、手頃な寝具をここに運び込んだ時点で、恐らくすでに。
去っていく意志がなければ、彼女は吟味を重ねて、お眼鏡に叶ったものを持ち込んでいるはずである。
それに、寝具を買ったのはもう年単位で昔の話だったのだから
買い替える機会などそれ以降もいくらでもあったのに、彼女はそれをしなかった。
――どうして、彼女はいなくなってしまったのだろう。
再びぼんやりと、そんな疑問を想起させる。
だが御剣は、ほどなく自嘲じみた笑みを顔に浮かべた。
――わかりきったことではないか。
彼女が離れていく理由など、いくらでもあった。
二人を取り巻く環境、過去、事情――何もかもが荊のようだった。
互いの想いだけで、二人はどうにか繋がることができていたに過ぎない。
ふと、指輪を贈った時の彼女の姿を思い出す。
互いの人生を繋ぐことに異議なく頷いた笑顔は、今は胸を突き刺すような痛みをもって再現される。
あの時点でもう去ることを決めていたのだとしたら、彼女はどんな心情で笑っていたのだろうか。
――嘘つきめ。
思わず毒づいてから、御剣は頭を振ってどうにかその想念を外に追いやった。
何故なら、彼もまただいぶ前に決めていたことがあるからである。
もともと難しい間柄だったのに、彼女は全て受け入れると言って、共に歩くことを決めたのだ。
だからこそ、彼女がその重さに耐えられなくなった時には、責めずに見送る。後は追わない。
――今がその時だということだ。
半年の間、御剣は忙しい彼女を尊重し、月に何度か電話を試みたり手紙を送ったりして彼女を待っていた。
そして期日が過ぎて彼女の意思を察してからは、御剣は一切のアプローチを自粛している。
――それが、自分が彼女にできる最後のことである、と思うからこそ。
それでも時折我慢できなくなると、彼はこの部屋に来ては少しだけ彼女を責めながら、過去に思いを馳せるのだ。
――どうして、彼女はいなくなってしまったのだろう。
どの時点で彼女はいなくなることを密かに決めてしまったのだろう。
どうして、自分はそのことに気付くことができなかったのだろうか。
そんな風に答えを求めるうちに、御剣の意識は、ゆっくりと過去の記憶に呑みこまれていく。
恐らく自分の見えないところにその答えがあるのだということを察してはいるものの、どうしても探さずにはいられないのだ。
――真実を。そして、彼を愛していたはずの、いとおしい彼女の姿を。
<おわり>