「あなたと一緒に」

 

最近の御剣少年の憂鬱は、メイのこんな言葉から始まる。

「レイジ!今日こそ私が勝つわよ!」

最近、メイが毎日のように勝負をしかけてくるのだ。
内容は即興のディベートのようなもので、
相手の矛盾を見つけて指摘するような形でそれは行われる。

毎回御剣が勝利して、メイが泣き出して鞭を振り回すのがパターンとなっていたが
何度負けても、メイは諦めずに勝負を仕掛けてくるのだ。

家庭教師からは何度も、これ以上メイの相手をしないように、と言われている。
・・・何故か仕掛けられている側の御剣の方が、厳しく注意をされていた。

論理的な能力は、本来は今の御剣の年齢の頃に目覚めていくもの。
メイが天才児だとしても、まだ弁証を行うには・・・いくらなんでも早すぎる。
今の状況は、足の速い7歳の女児と足の速い14歳の少年が競走しているのと同じで
御剣がほぼ絶対に勝てるのは当たり前。
このままではメイの自信が失われて才能が伸びなくなる可能性がある。
だから、これ以上ディベート勝負はしないように。

とは言われても、勝負を受けなければ、それはそれでメイの鞭が待っているし
場合によってはあることないことをメイの父である師匠に言いつけられてしまうかもしれない。

どちらにしろ、御剣は痛くて不愉快な気分になるという、迷惑な状況が続いていた。
これ以上、我慢できない・・・そう思って、御剣はメイに問いかけた。

「どうして・・・そんなに勝ちにこだわるのだ」

すると、メイが40センチほど下から、御剣を軽く睨みつける。
「レイジが、姉弟子である私をバカにしているからよ。」

覚えのないことに、御剣も眉をひそめて言い返した。
「バカになど、していない。」

実際、知能の高さ、手先の器用さ、ある種の勘の鋭さなど・・・
メイの披露するものに御剣が心から感嘆することが、これまでに何度もあった。

同門の弟子同士としてごく自然に、御剣は彼女のことを尊敬しているのだが・・・

「すでに、その身長がバカにしているわ!」

一方で、時に7歳という年齢相応に振舞う彼女を、傍にいる御剣がフォローすることが多いからか
メイの視点からは、バカにされているとしか映らないのかもしれない。

「姉弟子としての権威をより固めていくために、あなたの得意な弁証で勝負を申し込んでいるの!」

弁証での勝負を仕掛けられているのに、
すでに所々で論理が滅茶苦茶なのは、敢えて指摘しない。

それよりも、勝負に乗らないことが重要だと思い、御剣は冷静に言葉を紡いだ。

「とにかく、ぼくはキミと勝負するためにここにいるわけではない。
 毎日無駄な時間をとられるのは迷惑だ・・・。これからは非公式な勝負は遠慮させてもらう。」

そう告げると、メイが突然動きを止める。
もしかして、勝負を望んでいないことを理解してくれたのだろうか。

と思ったのは、ほんの一瞬だけで・・・
次の瞬間には「無駄な時間」という言葉が余計だったことに気付く。

しかし、その時には・・・もう後の祭り。
メイが、訓練を始めたばかりの馬上鞭を握りしめ、涙目でこちらを睨みつけていた。

「す、すまない・・・今のは言葉の綾で」
「・・・検事にとって、コトバは商売道具の一つよ。・・・それを“アヤ”で済まそうというのね?」
的確な指摘に、「ム・・・」としか音を出せない御剣を横目に、メイが言葉を続ける。

「それに・・・あなたにとって、私との時間は無駄なものだということね」
「そ、それは違う!」
そこだけは全力で否定するが、メイの怒りはすでに沸点まで到達しているようだった。
身体に比べて大きな鞭の、弾力のある部分を力一杯御剣に叩きつけて、メイが叫んだ。

「だったらもう、レイジとは一緒に寝ないんだから!」

******

この屋敷に引き取られてから1年以上が経った。
御剣は請われるままにメイの添い寝をして、そのまま眠ってしまうのが日課になっている。
ただし突然、メイが数日「自立」に目覚めたり、彼女の父が帰宅したときは父のところに行ったりで
月に数回は、御剣はお役御免となる日があった。

そういう時、御剣は・・・必ずと言っていいほど悪夢を見る。
父が殺された、あの時の状況を再現した・・・恐ろしい夢。

――眠りたくない。あの夢を見ることが、わかっているのに。

御剣は夜通し勉強することにして、書物を机に置いて読み始めた。

しかし、毎日9時には床についているため、10時を回る頃にはうつらうつらと眠気が襲ってくる。
起きていようと、御剣は机の上に肘をついて何とか上体を支えることにした。

――誰かの声が、聞こえる。

暗闇の中で、お父さんと誰かが、争いあっているような声がする。
お父さんの声は少しイライラしていて、相手の男は完全に声を荒げている。
それ以上ひどくなったらお父さんは無事ではいられないかもしれない。
どうしよう。お父さんが死んでしまう。

――お父さんに、触るなっ!
足元にあった何かを、投げつける。
そしてそのまま・・・何故か足が滑って、体がひっくり返って――

がくん、と体が揺れる。
いつの間にか机の上に置いていた肘が、滑って宙に浮いていた。
背中が凍りついたような痛みを感じており、自分の身体が相当強張っていることを知る。

一番恐ろしいシーンの再現が免れたことにほっとして、溜息をつく。
それから、両手で握りつぶすように自分の頭を抱えた。

――情けない。

未だに、夢に見るほど記憶に支配されているなんて。
もう5年も経ったのに、まだあの夢が怖いだなんて。

心細かった。

ふと、 温かくてやわらかくて・・・落ち着く匂いのする、幼い少女のことが頭に浮かぶ。
彼女に触れているだけで、全てを忘れられるような安堵を感じられた。

しばらくぼんやりとした頭でメイを探してから、今日は別の部屋にいるのだということに思い至る。

――早く、メイのところに行かなければ。
ふらふらと、少年は部屋のドアに向かって歩いた。

******

――決して。
決して、御剣怜侍がいないから、眠れないのではないの。

私は、言葉にできない違和感のようなものを感じながら、布団に座り込んでいた。
大きな枕を抱きしめていると少し気分が楽になるけれど、眠れるほどリラックスはできない。

いつもどおり大人しく、私の勝負を受けていればいいのに、
バカがバカみたいににバカ正直な発言をして、私をバカにするものだから!
・・・だから、「一緒に寝ない」って、とっさに言ってしまうしかなかったのよ。
だから、今夜私が眠れないのは、レイジが悪い。

もちろん、眠れないのはレイジが一緒じゃないからではなくて、
いつもよりベッドが広いことに、寝るための環境がいつもと違うことに
私は違和感を覚えて、それが眠れないような緊張をもたらしている・・・ということだけれど。

寝転んでみたり、イライラして起き上がってみたりして、約1時間半。
頭の奥は眠いのに、身体は疲れているのに、何故か意識が保たれたままで・・・私は困り果てていた。

レイジが眠った頃合いを見て、あっちのベッドに潜り込んでみようかしら。
でも、それでは、いつもと環境が変わってしまうことになるから、さっきの考えと矛盾することに途中で気がついた。

・・・やっぱり、自然に眠れるまで待つしかないのかしら。
そんなことを考えていると、不意に、キイ、とドアの開く音がした。
ノックの音なんて、聞こえなかった。

枕を抱えたまま、恐る恐る・・・いえ、堂々とそちらを見てみると、
消灯時間を過ぎて薄明かりになった廊下から、よく知った影が伸びていた。

レイジが、断りもなく部屋の中に入ってくる。

さっきから感じていた違和感がどこか消えていくのを感じながらも
その無礼さに、私は抗議をした。

「レイジ、もう一緒に寝ないと言ったはずだけれど。」

聞こえるように声を出したはずなのに、返事もなくレイジが私に近付いてくる。
その異様さを、私は・・・正直に言うと、怖いと感じた。
レイジの顔から表情を感じられないことが、その思いをさらに強める。

合図もなくその手が伸びてきたとき、私は思わず身体をすくめた。

伸びてきた手が私の腕をつかんで、ベッドの際まで引き寄せられる。
いつになく有無を言わさない強引な力に私はどうすることもできなかった。

・・・昼間のことを怒って、仕返しをしにきたのかしら。
どうしよう。逃げる方法がない。
レイジは私の2倍生きているから、大きいのだから、本当は何をしても絶対にかなわないもの。
どうしよう。たくさん叩かれてしまうのかもしれない。

そう思って身体を縮めて目をぎゅっと瞑っていたのだけれど、
胸のあたりが苦しいくらいで、他には何も起こらなかった。

そっと目を開けてみると、レイジがベッドの上にいる私に抱きついている。
床に膝をついているらしくて、レイジの頭がちょうど私の胸のあたりにあった。

心臓の音を聞くように左胸に耳を押しつけて、腕が私の背に回って、肩を掴むようにして私にしがみついていた。

上から見ても表情のない顔。
恐らく、こういうのを「虚ろ」と表現するのだと思うけれど・・・
その目からは、一筋の涙が落ちていく。
私の身体に近い、もう片方の目からこぼれた涙は、私の夜着に吸い込まれていった。

何が起こっているのかをようやく理解できて、私は冷静さを取り戻した。
恐らく今、私の声はレイジに届かない。

・・・こういうレイジのことを、私は知っている。

以前・・・休暇で日本に滞在している間に、地震が起こった。
突然のことでびっくりしたけれど、揺れは少しだったので私はすぐに落ち着いた。
けれど・・・。

『びっくりしたわね、レイジ』
照明の揺れを見るために上を見ていた私が、同意を求めるようにレイジのいる方を見ると
・・・そこにレイジはいなかった。

驚いていろんな方向を探してみると、
レイジはうずくまって、溺れた人のように息苦しそうな呼吸をしていた。

本当は、地震よりも・・・いつもと違うレイジの様子の方が怖いと、その時の私は思った。

『レイジ・・・大丈夫?』

いつものレイジに、早く戻ってほしかった。
恐る恐る近付いて手を差し出してみたけれど、ぼうっとした目はそれを見つけてくれない。
もっと近付いて、頬に手を当ててみると、身体がぴくりと動いた。
レイジの顔が少しだけ私の方を向いて・・・ゆっくりと、震えたレイジの腕が、私に巻きついていく。
上半身の全てを使って、レイジは私に抱きついた。

・・・ちょうど、今と同じように。

その後、私とレイジのいる場所で、地震は起こっていない。
けれど、時々、夜中に息苦しくて目が覚めることがあって・・・。
そういう時は、必ずと言っていいほどレイジが私にしがみついていた。

私は、レイジの姉だもの。
弟がつらい思いをしていたら、支えるのが当然のこと。

レイジのお父さんが地震の中で・・・しかも、レイジの目の前で亡くなったということは、私も知っている。

だから、息が苦しいくらいしがみつかれてもかまわないのだけれど。
震えていても、泣いてくれてもいいのだけれど。

そうするのなら、もっと頼ってほしい。
もっと、思っていることを話してほしい。

普段は保護者ぶっているくせに、しがみつく時だけ弟の顔になる。
そしてその時間が終わったら、突然かたくなになってそのことに触れられなくなってしまう。

・・・さすがにそれは、ずるいと思うの。
なかったことにされてしまった気がして、悲しい。
・・・私はもっと、レイジの抱えているものを分け合いたいのに。

だから、レイジ・・・もっと、私を頼って。

「レイジ・・・」

魂が飛んでしまったような、抜け殻の身体に、私からも手を回して抱きしめた。
・・・そのつもりだったけれど、私の体では、レイジの大きな身体を包むことはできず、
レイジの夜着を掴まないと手が滑ってしまう。

片手で夜着を握りしめて、もう片方の手で背中を優しく叩いていると、
レイジの腕に、ゆっくりと力がこもった。

「メ・・・イ・・」
レイジが、私を呼ぶ。
今までになかったことだったので、私は驚いて返事ができなかった。
「すまない・・・」
一瞬だけ緩まった腕が、改めて私にしがみつく。

「・・・姉が弟を守るのは、当然のことよ。」
事もなげにそう答えたけれど、本心では嬉しかった。

その気持ちで、気が緩んでしまったからかしら。

レイジの頭にキスをしたことは覚えている。
そのまま自分の頬をレイジの額に寄せようとしたけれど
触れたかどうかまでは、記憶に残っていない。

だから、その時レイジが何か言っていたけれど・・・
その言葉を、私は覚えていなかった。

******

「今日こそ・・・私が勝つわよ!」

あの夜から約一か月。
相変わらず、御剣少年はげんなりしていた。

毎日が週1回程度に減ったとはいえ、メイが突然思い出したように勝負を仕掛けてくるからだ。
もちろんその度に、家庭教師からのお小言も付いてくる。

“キミには、守られてばかりだ”
あの夜そう言って、彼女への感謝を伝えたつもりなのに。
それ以後も、悪夢にうなされているところを叩き起こされて・・・助けられたことがあるというのに。

メイは相変わらず、姉弟子として御剣を打ち負かすことに躍起になっていた。

「・・・メイ」
この屋敷の中で御剣の心の闇を知っているのは、メイだけだ。
できるだけ誰にも知られたくないことだったので、御剣はメイに近付いて、小声で問う。
「ぼくはキミに弱さを見せた・・・それでは、足りないのだろうか?」

メイが一瞬、意外なほど慈愛に満ちた表情で微笑んだ・・・ような気がする。
だが次の瞬間には、いつもの勝気な笑顔だけが残っていた。
「当然よ」

――だって、私はあなたが見ているものを全て、一緒に見たいんだもの。

冥は、その思いを伝える気がなかった。
下手に口に出せば、妙に気を遣った“ハンデ”のようなものを与えられるかもしれない。
あくまでも、自分の力でそこまで行きたいのだ。

「さあ、早く勝負をしましょう?
  もう少しでコツが掴めそうなの。全力で相手をなさいな。」
心から納得のいかないと言いたげな表情で、御剣が深く溜息をついた。

――早く、あなたと同じ視点に立ちたいの。

だから、冥は全力で走る。

周りに無茶だと言われても、大きな年の差を理解していても・・・
早くその大きな背中を捕まえて・・・一緒に並んで、歩いていくために。

 

<おわり>