検事としての力を求められて日本にやってきたはずの私が、何故か人命救助を兼ねたパズル遊びを手伝うことになった。
少し上を見上げてぼんやりと、これから自分が取り組むべきシロモノを改めて眺める。
幾重にも張り巡らされた鎖と、厳重にそれを守る錠。
――見れば見るほど不気味なモノだわ。
やたらと重圧を感じるデザインのそれは、囚われた娘を逃がさぬと言わんばかりに君臨していた。
――そう、早くこれを解かないと。この奥にいる人間が死んでしまう。
改めてそう思った私は、このパズルの解く主役の帰還を待てずに、じりじりと試行錯誤を始めた。
この錠を扱える人間である被告人・あやめは、成歩堂龍一に事情を訊かれている。
私はその話に時々割り込みながら、少しずつ冷たい鍵を弄り回す。
彼らの間で交わされる深い背景――綾里家の、暗い物語。
私は検察側の人間として、意識してそれらを頭に刻み始めた。
――もちろん、そこに出てきた思いがけない単語も例外なく、私の中にしっかりと届いている。
***
随分と時間が経過し、それなりにパズルを自在に扱えるようになった頃だろうか。
この部屋は暗いので、時間の感覚が上手くつかめない。
「もう、2つも外し終わったのか」
誰もいないはずのその場に、突然私以外の声が響く。
振り向くと、相変わらず蒼い顔をした男が、少しだけ希望を見出したような表情で錠を見上げていた。
どうやら、この数時間のうちに錠を半分近く外し終えたと思っているのだろう。
勘違いをしている男に私は正しい情報を伝える。
「初めの1つはあやめが自分で解いたわ。今作業している3つ目が、実質の2つ目ということになるわね」
事実を告げると、少し楽観視しようとしていたらしい男の、息を呑む音が聞こえた。
“5分の2”と“4分の1”では、これからの見通しが随分と変わってくるからだと思う。
「――そうか」
それから先程と打って変わって重たい顔をしながら、彼は私に近付いてくる。
「こんな寒い中、任せきりですまなかった。」
真摯にそう述べる男の視線は、手袋を外した私の手の動きを追っているらしく、私が鍵から手を離すとそちらの方に動いた。
「このままでは君が凍えてしまう。交代しよう。」
私はその視線に対してどうするわけでもなく、ただ片手を上げて男の申し出を固辞する。
「必要ないわ」
確かに手は悴んで痛いし、やたらと寒いけれど、我慢できないほどでもない。
それにようやくパズルにも慣れてきたところなのに、ここで引くなんて冗談じゃない――。
はっきりとそのことを伝えると、御剣怜侍は何か切羽詰まったような様子で一歩前に出た。
「だが、この状況は、もともと私が――」
「私が好きでやっているのだから、仕事を盗るような真似はやめてもらえるかしら」
やや強めにそう告げると、男は困ったように身体を引く。
しかし、数秒もしないうちにまた少し身を乗り出した。
「では――せめて手伝わせてくれないだろうか」
よほど、自分のミスを悔いているのだろう――男の食いつき方は、もはや必死と言える様相だ。
確かに、この男が気を失ったことによってこの事態は起こっている。
けれど、彼が地震をスイッチにそうなるようになったのは、彼のせいではないのだから――
「昔、貴様が折り鶴だと主張していた紙製のカモノハシのこと、忘れてしまったの?」
話が面倒な方向に行くのを避けるべきだと判断して、
私は結局「世の中には適材適所という言葉がある」という論調で彼の退出を促すことにした。
日本の芸術と聞いてワクワクしながら見ていた正方形が、御剣怜侍に手を加えられる度に5ミリずつズレて
写真で見たものと全く違う作品に変わっていく。
あの落胆と滑稽さは、なかなか忘れられるものではなかった。
子供の頃の思い出を持ち出して、暗に指先が不器用であることを指摘すると、男は一音だけ呻いてそこから動かなくなった。
この作業は、早く済ませたいなら手先の精密さが要求される。それは錠を見れば一目瞭然だ。
「それに、今からルールを説明していたら、時間が足りないわ。」
気持ちは察するけれど、と付け加えると、男は参ったような溜め息をつく。
「そうだな、足手まといになるのは避けるべきだ」
その声は平静を装っていたが、滲み出す自己嫌悪を隠すことはできていない。
「貴様の分も私がきっちり働くから、大人しくここは任せなさい。たぶん、慣れたらもっと速くできるわ。」
気を鎮めるべくそう伝えたが、御剣怜侍はむしろ不服そうな表情を見せた。
「では、君が一人で残り全てを開けるというのか」
確かに、今ここで作業しているのは、私1人だった。
――気が散るから極力人の出入りはないように、と刑事達に通達した結果なのだけれど。
彼は、この状況がどうやら納得いかないらしい。
先程まで主だって解錠を進めていたあやめは、あのヘンなゴーグルの検事に連れられて出て行った。
たぶん、留置場で取り調べをするのだろう――私にはその辺はもうどうでも良くなっていた。
いえむしろ、スノーモービルを自在に操る割には自分の付けた鍵すら開けるのに相当もたついていた彼女がいなくなり、
正直、随分と作業が捗っているくらいの現状で――。
まだここに残ることを望んでいた彼女の意思を半ば無視して、自分がここを引き受けると言い切って良かったとすら思う。
とりあえずそういう経緯があって、私は今、一人で解錠を試みている。
けれど、最後までそうではないことも予定として決まっている。――なので、私は男にそれを伝えることにした。
「あやめを見送ったら、ジューショクさまが手伝ってくれることになっているわ。だから問題ないの」
「――そうか」
彼は安堵した表情で、そう反応した。
「確かにこの庵の主たる彼女であれば、誰よりも心強い」
これでこの男は自分の持ち場に戻ることができるだろう。
御剣怜侍の様子を見て私も少しホッとしていたが――彼は続けて私に声をかけた。
「では、私は間接的な支援に回ろう。必要なものがあれば――」
まだこちらに関わろうとする男の声を、私は少し苛つきを醸しながら遮った。
「貴様は現場の指揮があるでしょう?」
立ち直るために、と言って御剣怜侍は外気で頭を冷やしながら自分の仕事をしていたはずだ。
どうしてそちらに戻らないのだろう。
そう不思議に思っていると、男がぼそりと言葉を漏らした。
「――干された」
「何ですって?」
もちろん、聞こえなかったわけではなく、詳しく話せという意味で私は聞き返す。
――誰に、と聞くのも恐らく愚問だろうし。
「私が担当検事ならば、気を失って被告人に自由を与えるような人間に仕事を振ろうとは思わないな」
目を逸らして守る様に左腕を掴み、彼はしみじみとそう述べる。
それは確かに、そうだ。私があの検事の立場なら、同じ判断をする。
あのゴーグル男がどこまで知っているのかは分からないけれど、
少なくとも、こんなに憔悴しきった人間に仕事を任せる気にはならないと思う。
――ましてや、初対面で信用できるかどうかもわからない上に、24時間以内に同じ法廷で弁護席にいた人間ともなれば
検事側にとって信用ならない人物でもあることは確かだった。
第一、御剣怜侍は今は海外研修中――つまり、休職中も同然の身。
無理に組織の動きに合わせる必要もないのだから、好きにすればいいのだ。
例えば思い切って成歩堂龍一の手伝いでもすれば、きっとやり甲斐を感じることだろう。
けれど彼は、恐らく検事としてのアイデンティティがそれを許せない――固い男だと思う。
「だから、雑用でもいいので手伝うことはないだろうか」
組織から役割を外されてもこの状況を打破するために検察側の人間として何かをしたいのだろう。
右往左往している男の心情が、ありありと伝わってきた。
だがもう、物資の調達や連絡調整など、必要な仕事はヒゲ達捜査員に頼んでしまっている。
それに、この回復しきれていない様子だと、仮復旧中の吊り橋あたりで足を踏み外しかねない。
正直に言うと、昔馴染みの立場としては現場から離れて安全なところにいて欲しいのだけれど――
そんなことを考えながら思いを巡らせていると。一つ、気がかりになっていたことを思い出した。
「――貴様に、仕事をあげるわ」
少し逡巡してから私が答えると、御剣怜侍は少なからず期待に満ちた目の輝きを見せる。
たぶん、すぐにその輝きは消えてしまうだろう、と思いながら、私はコートのポケットから1枚のカードを探り出す。
私が無言でそれを手渡すと、彼は怪訝そうにそれを様々な角度から調べ始めた。
「このカードは?部屋のカギのようだが」
少ししてからそう口を開いた男は、少し嫌な予感がしているようだった。そして、それは当たっている。
だが、私がこの男に一番適切だと思うシゴトはそれなのだから、仕方がない。
「今日泊まる予定だった宿のものよ」
できるだけ淡々とした――誤解を生まないような口調を心掛けながら、私は御剣怜侍に命令する。
「折角取ったけれど、泊まれなくなってしまったわ。キャンセルするのも勿体ないから、代わりに泊まってきて」
検事局の名前で取ったから、恐らくそのまま部屋に行っても大丈夫だと思う。
私がそのように説明を加えると、そこまで黙って聞いていた男が、明らかに怒りを込めて声をあげた。
「君がこんな寒い場所で夜通し作業を続けるというのに、私にはぬくぬくと休めと?!」
怒るだろうとは思っていたけれど、想定より声が大きい。
私は表情だけ彼と同じような鋭いもの変え、一本指を口に当て、静かにしろと命令する。
――ここは地震の影響で地盤が緩んでいるから、大きな音を立ててはいけない。
そのことを思い出したらしい御剣怜侍が、慌てて掌を自分の口に当てた。
我に返って少し落ち着いたらしい男に、私はもう一度命令する。
「とにかく、異議を唱えるなら鏡を見て、顔色を取り戻してからにしなさい」
そう伝えると、彼ははっとした顔で私を見た。
「――そんなに、酷い顔をしているのか」
「その顔を見ていると、ホットミルクを飲んで早くベッドに入ってほしいと思わずにはいられないわ」
私の返答に、御剣怜侍はやたらと神妙な顔でしばらく唸った。
それから少し経って、色々と諦めたかのように大人しく私の方に向き直る。
「――わかった。完璧に立ち直るのが、君の望む私の仕事……ということだな」
「もの分かりのいい人間は、嫌いじゃないわ」
私がそう応えると、御剣怜侍は自棄めいた笑いの籠った息を吐き出した。
完全には納得していないようだった。
それでもとりあえず、これでこの男は明日には、少しは落ち着いていることだろう。
そう思うと、私も少しは安心できる。――と思ったのだけれど。
「――だが、君は大丈夫か?」
今度は、彼の方が心配そうに私に問いかける。
「大丈夫よ。こういうのは嫌いじゃないし、徹夜もいつものことだから慣れているわ。」
本心から、私はそう答える。しかし、それは彼には納得がいかなかったようだ。
「いや、あまり元気ではないと思う。」
「それは当然よ。時差ボケで眠いったら」
世間話だと思い軽くそう応じていると、途中で少し強張った声に言葉を遮られた。
「そういう話ではなく――君も、落ち込んでいるように見える」
「……そうかしら」
この男は相変わらず嫌なところで鋭い。そのことが相変わらず忌々しいと思った。
「長年の付き合いだ。私の目は誤魔化せん」
真剣に、だが自信たっぷりに、男ははっきりそう言い切る。
それから私を労わるような口調で、静かに声を投げかけてきた。
「何か、あったのか」
「人のことは気にしないで、自分の休養を優先しなさい」
目の前の鎖と同じくらいの防衛を張りながら、私は幾らか事務的なトーンでそう言い返した。
――私は、話したくない。なので、御剣怜侍から顔を逸らす。
だが、男の方もそこから退こうとはしなかった。私の前に回り込むと、ばっちりと目線まで合わせてくる。
「君に元気がないと、折角宿を与えてくれても心配で眠れない」
検事同士というよりも、明らかに親しい個人に向けた視線をもって、男は私に語りかけた。
「私に安定を求めるのであれば――君の思うところを、せめて少しでも分け与えてはくれないだろうか?」
――安定してほしいからこそ、言えないこともあるのに。
私はそう思ったけれど、はっきりそう言ってしまうと、この男は結局その意味を察して暗い気持ちになるだろう。
私が何とも答えられずにいると、御剣怜侍は悲しそうに溜息をついた。
「君にとって、私は本音を語る価値のない人間ということか」
昔からこの男は、精神的に追いつめられると自虐に走りやすくなる。
ただ、こうして穏やかに口にできるということは、それほど差し迫った状況でもないけれど。
だったらもう、納得できる程度の触りぐらいならば、話す方がいいのかもしれない。
――いや、話さないと、この男は納得しないだろう。
そう判断して、私は少し気が乗らないながらも口を開くことにした。
***
「綾里の小さなお嬢さん、いるでしょう?」
「……春美くんか。」
そう、と答えてから、彼女は深く溜息を吐いた。
「あの子に、嫌いって言われたのよね」
メイは、立場が同じかそれ以下の男と積極的な雰囲気の女性には非道なきらいがあるが、
それ以外の者には守ろう好かれようと努める節がある。
だから恐らく、嫌いと言われて少なからず落ち込んだのだろう。
「ま、あの子の大事な従姉を、塀の中に送り込もうとしたものね」
仕方ない、と口に出す代わりに、彼女は肩を竦める。
その間も作業の手は止まらず、私のよくわからない器用な動きをしていた。
人から嫌われるのは確かにショックなことだが、
彼女の妙に重い表情を形成するにはそれだけで足りるだろうか。
それを突っ込むべきかどうかを判断しようとしていると彼女の方からぽつりと声が漏れた。
「――でも……あの子も、いつか“真実”を知るのかしらね」
春美くんに知らされていない“真実”――私はそれに思いを馳せながら、肯定の返事を発した。
「恐らく、いつかは」
春美くんは、母親の闇の部分を知らないという。
――彼女を守りたい周りの年長者たちによって、巧妙に伏せられているのだ。
そのことに思いを馳せていると、メイが次に発する言葉と同じ質量の息を吐いた。
「気が重いわね」
「――そうだな」
私もそれに同意だった。
いつか、彼女も真実を知らなければならない時が来るだろう。
そのことを思うと、確かに自分のことではなくてもやり切れない思いに駆られる。
しかし、どうして今の流れで彼女がそんなことを気にするのだろうか。
ある意味不自然な話題の展開に、私は何か核心に迫るようなものを感じ始めた。
「――大好きな母親があれだけ慕っていた従姉を不幸にしようとしていただなんて、
自分の基盤となるモノが善でも正義でもないことを思い知るなんて、酷なことだわ」
相当同情しているのか、静かだが止め処なく、彼女は自分の思うところを語った。
その言葉に彼女が持っている感情がただの同情だけではないような要素がちらちらと見え隠れし、私は少し不安な気持ちになる。
彼女は続けて――しかしトーンを更に落として、吐き出すように言葉を紡いだ。
「しかも、嫌っている私とそんなに変わらない立場だなんて、皮肉よね。」
――それこそ、あの子は知らなくていいことだけれど。彼女はぽつりとそう付け加えた。
嫌な予感が当たった。
――つまりメイは、春美くんに数年前の自分を重ねている、ということなのだろう。
そう確信して、私は気管の奥がぐっと詰まるような感覚に陥った。
彼女が当時どれだけ苦しんだか、私は少なくとも一端を知っている。
いや、もしかしたら、今でも苦しんでいるのかもしれない。
そして私は、その件に無関係ではない――そう思うと、言葉の選び方が更に慎重になる。
「――あやめさんが、綾里キミ子の動機について語ったと聞いた。」
恐らくこの場所で、成歩堂はそれを聞いたのだろう。――ということは。
「君も、ここでそれを聞いたのだな」
――彼女の父が私の父を殺めた事件。それが今回の事件の動機に影響を与えている。
そのことで、彼女は何か憂いを感じていると考えて良さそうだ。
私ができるだけ語気を強めずに問いかけると、彼女は逃げ場を失って全て投げ出したかのように、大きく息を吐いた。
「貴様とあの男のことだから、やっぱり全て筒抜けなのね」
私に概ね悟られたことを、彼女は確信したらしい。
成歩堂が例の事件の名前を口にした時、その被害者の家族たる私は正直に言うとあまり良い気分にはならなかった。
だがそれ以上何かを思うこともなく、もちろん彼女に与える影響にも、考えが及ばなかった。
――だから彼女は先程、何も話したくなさそうだったのだ。
一人で抱え込ませるよりは踏み込んで正解だと思うが、何の配慮もせずに土足で上がったことに気付き、私はしまったと感じた。
「真相解明のための、情報共有はした。機密をもらすようなことはしていない。」
動揺した私は、中途半端に論点のずれた発言をする――彼女に、このことから目を逸らしてほしい一心だったのだが、それには不十分だった。
「――私の知ったことではないわ」
メイは、その言葉と同じ表情で笑う。
普段の彼女は検事と弁護士が情報交換をすることを良しとしていないが、今の声には、いつもの刺々しさは見受けられない。
本当にどうでもいいと思っているらしい。
それが逆に、彼女の物思いが深刻であることを表している気がして、私は少し語気を強めた。
「何が影響していたとしても、こんな事件を起こしていい理由にはならない」
――だから彼女が責任を感じる必要は全くない。
私が言いたいことを察したのかどうかはわからない。
彼女はただ事もなげに、「そうね」と流すだけだった。
「一つの事件で不幸になるのは、その当事者だけじゃない。被害は連鎖しやすいものだわ。」
手を動かしながら、メイは少しの間をおいた後にそう言った。
私が黙り込んでしまったので、気を使わせてしまったのかもしれない。
「こんなの、法廷では日常茶飯事だわ。――その例をまたひとつ見た。それだけのことよ」
その声が落ち着いているのが怖くなり、私は思わず彼女の顔を覗き込む。
一見澄ましているが、絶対に私と目を合わせようとしないし、顔も無表情で強張っている。
慕っていた父親の、20年も前の行為によって起こる深刻な連鎖を、他人事のように思える彼女ではない。
長い間家族のように彼女を思ってきた私は、そのことをよく知っていた。
“――君が気に病むことではない。”
率直にそう言いたいのを、私はぐっとこらえて黙り込む。
その言葉は、恐らく気休めどころか逆効果だからだ。特に、今の私が言うのは。
私の今の顔色の原因と、あやめさんが成歩堂に語った内容――この二つは“DL6号事件”で繋がっており、それは彼女の父とも繋がっている。
その全てを彼女はきっと気にしている。だから彼女は解錠の役を手放さないのだ――私のロジックが、そう告げていた。
だとしたら、私が今、彼女に何を言えるのだろう。
そう思い、無力感を感じたままその場に立ち尽くす。
「貴様が気に病む必要はないわ」
私が何も言えなくなってしまったことを、彼女に気取られてしまったらしい。
自分が言いたかったことを言われてしまい、私は複雑な心境になる。
「私は自分のしたいことをしているだけよ」
彼女はそう言って、静かに笑みを漏らした。
「これが、君のしたいことだというのか?」
法廷に立つために遥々来たというのに、普段の彼女がこんな役回りを甘んじて受けるはずがない。
そう思って問いを投げかけると、彼女はばつが悪そうに、少しだけ肩をすくめる。
「――ええ。私はオヒトヨシではないから、自分の利益はちゃんと考えているもの」
「ああ、今回の借りは必ず返す。期待していてくれたまえ」
彼女の言葉を受けて私が胸を張ってそう返すと、
「いらないわよ。別に誰かに恩を売っているわけではないもの」
明らかに不機嫌になった彼女の声が聞こえた。
「す、すまない」
「別に気にしていないわ――とにかく、私は自分のためにここにいるだけだから」
その妙に落ち着いた様子を見て、彼女がただ罪悪感だけに駆られてここにいるわけではないことを納得させられた。
だが――だったら一体、何が彼女を動かしているというのだろう。
メイは日本の検事局の正式な一員ではないし、正規の検事が戻ってきたことで今回の任も解かれた。
だからもう、何の問題もなく本来いるべきアメリカに戻ることができるはずだ。
解錠だって、失態を犯した張本人たる私や、専門の人間を呼んで任せてしまえばよいのだ。
しかし、彼女はどれもしなかった。
率先してここに残り、極寒の中、氷点下の空気に熱を奪われた錠と向き合っている――自ら、望んで。
そこまで考えて、ふと、私の中にある考えがよぎった。
――もし
彼女が早急に解錠に成功したら。
まず、檻の向こうの真宵くんが助かる。
それはつまり、父親の起こした事件の連鎖で不幸になった一族の、一人の命を救うことができることを意味する。
そして、そうなれば――“御剣怜侍が人を死なせる”事態が回避される。
つまり、被害者の息子である私があの事件のトラウマによる失神によって起こした失態を、最小限に抑えることができるのだ。
彼女が気に病んでいるであろう内容を思えば、それは非常に腑に落ちる考えだった。
――メイは今、闘っている。
父親の罪と向き合い、そして罪による不幸の連鎖に歯止めをかけるために。
一人の個人として、彼女が抱えるものと対峙しているのだ。
そう考えると、彼女の視線の先には暗闇ばかりではなく、確かな希望も存在する――
「そうか、これは――君にしかできない、大事なシゴトなのだな」
私がようやくそう口にすると、メイは少しだけ手を止めてまっすぐ私を見た。
「そうよ」
相変わらず燃えるような青い光が、はっきりした意思をもって私を貫く。
私もできるだけ、同じような視線を彼女に返すよう努めた。
私は自分の首に手を延ばし、そこに巻かれていたマフラーをゆっくりと引きぬく。
――ゆっくりなのは勿体ぶっているわけではなく、素早くすると何故か首を絞めてしまうからだ。
そして、自分の身体から離れたそれを、メイの首に巻きつけた。
首元にはすでに彼女のマフラーがあったが、女性物の細いそれの上から無理にでも巻きつける。
メイははじめは少し驚いた顔をしていたが、嫌がることもなくされるがままになっていた。
「あまり長居をすると邪魔になるだろう。その代わり、これを持っていて欲しい」
器用には巻けなかったが、暖は取れそうな具合になったので私は一歩下がってそう告げた。
「少しは熱を逃がさなくなると思うが、――どうだろうか?」
――何らかの形で共にありたいと思う気持ちは、彼女に受け入れられるだろうか。
そんな風に私がやきもきと彼女の反応を待っていると、確かめるように白い指がマフラーを這う。
ほんの数秒そうやって突然与えられたものを眺めていた彼女だったが、はにかむように目を伏せて笑った。
「ちょっと動きづらいけれど、それなりに暖は取れそうだから――借りておいてあげるわ」
暖かそうなその表情を見て私も同じような気持ちになる。
その気持ちのままここを出ていこうと、私は礼と挨拶を軽く述べて踵を返した。
だが、そこから一歩も踏み出さぬうちに。
「――ねえ、御剣怜侍」
呼びとめられて、私はすぐに振り向いた。
「――どうした?」
彼女はすでに作業に戻っており、私の方を向こうとはしない。
だが、声ははっきりと私に語りかけている。
「明日の朝、もし調子が良かったら、何か目が覚めるモノを持ってきて」
檻の向こうで恐らく何も食べずにいる真宵くんに対して、不謹慎と思ったのかもしれない。
恐らく飲食物の差し入れを頼まれているのだと思うが、そう明言はされなかった。
「わかった。適切なものを用意する」
私はそう応じながら、濃い紅茶と、それに合うような糖分の強い菓子を思い浮かべた。
「――質のいいものを用意する必要はないわ。その辺の売店で買ってきて」
私人として彼女の役に立ちたいという意気込みが漏れてしまったのか、メイは非常に素っ気ない口調で私に釘を刺す。
確かに良くない傾向だと思い、私は無意識に咳払いをする。
それと入れ替わりに、相変わらず私の方を見ない彼女が何かを呟くのが聞こえた。
「私は――貴様の顔に血の気が戻っているのを確認できれば、それで充分だから」
小さな声だが、その音はしっかりと私の耳に届いた。
私を心配してくれている彼女の気持ちを感じ、
マフラーを外したはずだというのに、私の周りの空気が数度上昇したかのようになる。
「だからほら、さっさと早くゆっくりしてきなさい」
照れ隠しのように語尾を揺らしながら、彼女は利き手を少し上げて別れの挨拶のような仕草を見せた。
「わかった。行ってくる。」
そう告げてから庵の外の空気に晒されるまで、私はふわふわとした暖かい気持ちで歩みを進めたのだった。
次の朝、必ずここに足を運ぶ。彼女を落胆させないくらい、回復しておこう。
差し入れも、できる限り満足させてみせる――そう希望めいた意気込みを抱きながら、私は宿への道を急いだ。
――だがその一方で、どこか不安で仕方がない思いも渦巻いているのも間違いない。
私がメイの傍にいるということは、彼女をこんな風に苦しめることなのではないか。
そして、彼女自身がこの連鎖を気に病んで、私から離れていくのではないだろうか、と。
ちらちらと感じるその物思いは、私が様々な努力によって眠りに落ちるまで、私の頭の片隅から消えることはなかった。
***
私がしていることは正義や親切からくるものではなく、どこまでいっても自己満足に過ぎない。
そう気付いて、彼はがっかりしているだろうか。
思わず、あの男が私の首元に置いていったマフラーを、ぎゅっと握る。
機能を重視した素材から作られたソレは、あの男の言葉通りに私を冷気から守っていた。
あの男の心情を思えば今は落ち込んでなどいる場合ではない。気持ちを切り替えるべく、私は大きく深呼吸した。
――しかし、氷点下の空気が私を我に返したのは、ほんの数秒のことだった。
手はどうにか動かしているけれど、物思いはやめられそうにない。
父の起こした事件の連鎖で完全に歪んでしまった人間がこの事件を起こし、
同じく連鎖で苦しめられたであろう人間の幾人かが、それに巻き込まれ、さらに苦しめられている。
この事件が私個人にとって他人事ではないと知った以上、私がこの鍵を開けるのは当然の義務だ。
あの事件のトラウマによって失態を犯した御剣怜侍、極寒の中で丸二日近く閉じ込められている綾里真宵。
私は少なくともこの二人を、責任をもって守らなければならない。
もちろん法的に見れば、私が責任を負う必要などないことも知っている。
けれど、父親のしたことを知りながら検事として生きるのであれば、無関係だと言い切るのは違うと思う。
――いや、御剣怜侍の同士として生きたいのであれば、と言った方が適切かもしれない。
向こうがどう思おうと、私にとって御剣怜侍は“弟”みたいなもの。どれだけ遠く離れていても、その身を案じる存在だ。
どうにか断ち切ろうと必死になっていた1年前でも、心のどこかではそうだった。
そして仮にこれから袂を分かつことがあっても、私にとって彼はそういう存在であり続ける気がする。
だとしたらやはり、これは私個人にとっての義務なのだ――もちろん、贖罪という意味でも。
――でも、義務を果たしたとしても、彼の傍にいることが許されるのかしら。パパがあれだけのトラウマを植え付けておいても?
地震の後真っ蒼な顔でよろよろと、辛うじて走ってきた男の姿が頭に浮かんだ。
それによって強化された、頭を支配し続ける疑念を、私は首を振って打ち払う。それは今、考えても仕方のないことだと。
「――さすがに若いお嬢ちゃんでも、これだけ根を詰めると肩がこるもんなんだねぇ」
横で私のサポートをしてくれていたジューショクさまが、ぽつりとそう言った。
「ええ、そうみたいね」
折角カンチガイしてくれているのだ。身体の疲れを強調すべく、肩を動かして見せる。
すると、ジューショクさまは魔法瓶から紅茶を注ぎ、湯気の立ったコップを私に差し出した。
御剣怜侍が朝になって持ってきた、差し入れの一つだ。
不意に、少しは回復したらしい澄ました表情が頭に思い浮かぶ。
私の口が思わず緩み、暖かい空気が漏れ出した。
ジューショクさまに礼を述べて紅茶に口を付けると、彼女も同じものを注いで湯気を吸い込んだ。
「今度は、遊びにいらっしゃい。ここのお風呂は腰痛にも良く効くから。」
彼女が喋り疲れるまで一晩中、彼女と葉桜院あやめとの思い出を聞いていたからだろうか。
ジューショクさまは親しげに、私にそう言った。
「ありがとう――是非、お邪魔させてもらうわ」
人の厚意が今の私には救いだったのだろう。
お礼の言葉が、いつになく素直に口から出てきた。少し、気分も楽になったような気がする。
しかし――ここは悪い霊か何かでも棲みついているのか、それとも寝不足の所為か。いつになく恐ろしいほど暗い気分になりやすい。
最後に残る鍵と睨み合いをしながら、私はまた溜息をつく。
他の鍵は、全て解くことができた。この鍵も、もう時間の問題だ。
けれど、綾里真宵の身体がそれまで保つのだろうか。
改めてそれに思い至ると、余計なことを考えている場合ではないという気分にさせられる。
御剣怜侍とのことは、また後から考えて答えを出せばいい――そう自分に言い聞かせながら、私は鍵の細部に意識を集中させた。
***
――それからどれくらい時間が経ったのかは、定かではない。
ゴールは、あっけなく訪れた。
ぱちんという音で錠が外れ、張られていた鎖が弛んで音を立てる。
「やった……やったよ!」
一寸遅れて状況を掴んだジューショクさまが、感極まった声を上げる。
それを合図に、後ろで状況を見守っていたらしい複数の捜査員が檻に駆け寄り、そのまま中へと入ろうとする。
その光景をぼんやり眺めながら、私はようやく自分の仕事が終わったことを認識した。
途端、自分の全身にものすごい重力がかかるのを感じる。――おそらく正体は、疲労と眠気だろう。
同時に鍵と目線を合わせるために使っていた梯子付きの踏み台の上でバランスを取り損ねるが、身体が思うように動かない。
ぼんやりした頭でどうしようかと考えていると、
「――しっかりしたまえ」
声と一緒に、冷たくてやや柔らかいものが私を受け止める。
よく知った顔の男が、安堵のため息とともに私を見下ろしていた。
「――来ていたの」
私がそう声をかけると、その男――御剣怜侍は穏やかな顔で笑った。
「ああ。君と真宵くんを、法廷に連れていくために――」
彼が少し軽く穏やかにそう応じているところに。
「生きてるぞ!」
その声に被るように、囚われ人の生存を伝える声が遠くから聞こえた。
――間に合って、よかった。
眠くて声が出たかどうかわからなかったけれど、私は知らせを聞いて心の底からそう思った。
「ありがとう」
御剣怜侍がそう言いながら、包み込むように私を抱きしめる。
感極まったその呟きを耳にして、私は改めて安堵した。
――よかった。レイジも傷つかずに済んで。
ただ同時にここは人前なのだから、こんなに馴れ馴れしくするのはどうなのだろう、とちらりと思った。
けれど、余りの眠さにそんなことはどうでもよくなる。
懐かしい匂いに包まれたまま、私は気付かぬうちに短い眠りに落ちていた。
<おわり>