「笑顔」

 

ようやく見つけた彼女は、背筋を伸ばして前に進んで歩いていた。
一見いつもと同じようだが、足元が微かにふらついているのが遠目にもわかる。
緊急の摘出手術から、まだ半日も経っていないというのに
彼女は仕事用のスーツを身に纏い、公道へ足を踏み入れようとしていた。

彼女との距離は、数十メートルほどだろうか。
追いつくまで彼女に何事もないことを願いながら、私は病院の裏口から外へと踏み出した。

速足で病院の外に出ると、私が知っているよりも明らかに遅いスピードで
黒いベストスーツの女性が歩道を進んでいた。

距離は、目測で十数メートルほどに縮んでいる。
これならば、すぐに追いつけそうだ。

そう思いながら歩道に踏み出して少しもしないうちに
私は、先を行く彼女の細い踵がアスファルトを横に踏み外すのを見た。

ぐらりと、メイの身体が大きくふらつき、後ろに向かって上半身が倒れこもうとしている。

「危ない!」
――右肩は触れてはいけない。
そのことだけは忘れないようにしながら、私は彼女の方へと駆け出した。

何とか左の二の腕を掴んで、転倒を防ぐことに成功する。
メイはしばらく放心したような表情で、身体を強張らせていたが――

「メイ!大丈夫か?」
私がそう声をかけると、弾かれたように我に返り、同じような勢いで私の方を見た。

もう少しで尻餅をつくところのようだったが、とりあえず怪我をしたり傷を痛めたりすることは回避できたらしい。
だが1つ溜息を零したものの、彼女の態度自体には安堵は見られない。
隙のない様子でじっと私のことを睨むばかりだった。

腕を支えていた力を緩めると、彼女はするりとそこから抜け、何気ない所作で私から数歩離れて間合いをとる。
言うまでもなく、利き手はすぐに鞭を使える状態になっていた。

感情は見事に隠されているが、彼女から感じるのは「警戒」以外の何物でもない。
助けた礼など期待してはいなかったものの――
「そんなに警戒されると、さすがに傷つくのだが。」

私がそう告げると、メイはどうでも良さそうな様子で私に応じた。
「私は自分の身の保全のために必要なことをしているだけだわ」

「私は君に危害を加える意思はない。」
警戒を続けられることが忍びなくて、そう声をかけてみるが、彼女はばっさりと切り捨てた。
「別に貴様がどうかなんて、知ったことではないわ」

それ以上何も言わずに、彼女はふいと身を転じて前を歩き出した。

「どこへ行く」
「貴様には関係ないことだわ」
別れの挨拶のように上げられた左手は、ついてくるなという意味のようだ。

だが、この状態の彼女をこのまま行かせるわけにはいかない。
私は少し大きめの声で、彼女に言葉を投げかけた。

「君が向かう場所として考えられるのは、検事局か現場か、もしくは華宮霧緒の所か。
  ――あとは、狙撃犯への報復も考えられるな」

どれかは当たっていたか、どれもが正解だったのか。
私の言葉に反応して、メイは立ち止まった。

「検事局長には、すでに連絡を入れた。君が姿を現したら即刻、病室に連れ戻す手筈になっている。」
本当はこれから連絡を入れるつもりなのだが、こちらも必死だ。
ある程度のハッタリは許容範囲だろう。

事実、メイはそれを信じたらしく、余計なことを、と呟くのが聞こえた。
内心安堵しながら、私は更に言葉を続ける。

「華宮霧緒は、――君が行けば、恐らく彼女を混乱させる。
  君の気持も察するが、明日の法廷のためにも、今はそっとしておいて欲しい」

言葉の途中で、彼女の肩が少しせり上がる。
「――知ったようなことを」
吐き捨てるように、そんな言葉が呟かれた。

「もし、狙撃犯を捕まえに行く気だとしたら、それこそ、そんな危険なことは絶対に認めない」
朝のことを思い出して私が怒りを高ぶらせて告げると、
振り返ったメイは、冷たい目で私を一瞥してまた前を向く。

引っ込みがつかないのか、それでもメイは歩くのをやめようとしなかった。
言葉で止めることができないのであれば、他にできることは、実力行使しか残っていないだろう。

「メイ」
輪状になって左手に納められた鞭が自由になるより先に、私はその手を掴んで彼女を止めた。
こうすることで彼女を捕まえられるし、鞭から大きな危害を加えられることもなくなる。
「離して!」
予想通り彼女は手を振りほどこうとするが、私の力には敵わない。
それでも、聞き分けの悪い彼女は諦めようとしなかった。

「――メイ」
このままでは埒が明かないと、私は彼女の前方に回り込み、屈みこんで目線を合わせる。
彼女は少したじろいて、目を逸らそうとした。
だが、逸らしたら負けと思ったのか、全力で睨みつけてくる。

「手術から半日も経っていない君を、出歩かせるわけにはいかないのだよ。
  何かあったら、どうするつもりなのだ。」
昔と同じように、窘める形でそう語りかけると、メイはぴくりと頬を震わせて凍りついた。
――一瞬、泣きそうな目をしていたのは、私の思い違いだろうか。

彼女は声を出さず、しかし“そこを退け”と言わんばかりの表情で私を睨み続けていた。
しばらくそうして視線をぶつけ合っていたが、このままではどうしようもない。

そんなわけで、私の方から口を開いてみることにする。
「戻らないなら、朝のように無理やりにでも抱えて病室まで連れていくが」

これ以上空気が凍りつかないようにと冗談めかして言ってみるが、彼女はお構いなしだった。
「そんなことをしたら叫ぶわよ」

「人に見られるのをお望みなら、抱き上げたまま人通りの多いルートで戻るとしようか」
私が尚も軽口を叩くと、彼女の方が呆れたように大きく溜息をついた。

「……だいたいどうして、貴様がここにいるのよ」
「君が外に向かって歩いているのが見えたのでな。連れ戻しに来た。」

「余計なお世話よ」
彼女は相変わらずの調子で私の言葉に応じる。
拒絶するような彼女の応対に、知らず知らずのうちに私もストレスを感じていたらしい。

「怪我をしているのに仕事着を着て外に出て行くのを、見過ごせるわけがないだろう」
思わず少し、苛立ちを込めてしまったのだろう。

彼女がそれに反応して、感情的に言葉を返してきた。
「貴様には、関係のないことでしょう?」

「関係ないわけがないだろう!」
思わず、私が大きめの声を返すと、ほんの一瞬、メイが怯えたように顔を引きつらせる。

その表情を見て、私は不意に我に返った。

そう言えば、表面には殆ど出さないが――彼女は基本的に憶病なはずだ。
しかも、命を脅かされるような経験をしたばかりで、かなりナーバスになっている。

――その上私が怖がらせて、どうするのだ。

そんな思いと共に片手で頭を押さえ、落ち着こうと息を吐く。
すると、思わずぽろりと言葉が零れ落ちた。
「全く――私が、どれだけ心配したと思っているのだ。」

「法廷でもその後の捜査でも、君のことを忘れておくのにどれだけ苦労したと思う?」

本音のところが出たことも併せて見る見るうちに恥ずかしくなり、私は頭を押さえて少し俯く。
屈んだままなので、頭や目線が彼女より低いところまで下がった。

メイはそんな私をしばらく黙って見ているようだった。
腕には先ほどのような抵抗する力は込められておらず、戸惑うような空気がその場に流れている。

少し落ち着いた私が彼女の様子を見ようと顔をあげると、彼女は弾かれたようにうろたえ出した。
そして、絞り出したように声を出す。

「そ、そうだわ。貴様は今、捜査中でしょう!
  こんなところで油を売っている暇はないはずよ」

その言葉はまるで、それまでの流れから話をずらそうとする努力のようにも感じた。

「本来の担当検事の安否確認として、ちゃんと時間をとっている。
  呼び出しがない限り、こうしていても問題ない」

メイの安否が心配だった私は、とりあえず仕事がひと段落した時点で
先述のような理由をつけ、局を抜け出してきた。

役割分担はしっかりとしている。
私が1時間ほど抜けても、捜査や明日の準備が滞ることはないはずだ。

だが、彼女は――いつの間にかいつもの調子を取り戻して、私に問いかける。
「……状況が変わったのではなくて?」

何かを知っていると言いたげな彼女の表情に、私は、あることをほぼ確信した。
それを前提に、言葉を返すことにする。
「真宵くんの件なら、召集はすでにかけた。」

「だったら早く行って指揮をとるべきだわ。一刻を争う話でしょう」
私の言葉に彼女は何の疑問も持たず、適切な意見を述べてきた。

彼女が患者服ではなく仕事用のスーツを着ている時点で、明日の法廷を諦めていないのはわかっていた。
だからはじめから、もしかすると、とは思っていたが……。

どうやらやはり、彼女は先ほどの私と成歩堂との会話を立ち聞きしていたらしい。
これまでの流れを考えれば、私と彼がいれば今回の事件の話をすると彼女が考えてもおかしくはない。

私の部下だった糸鋸刑事は、何度か成歩堂に情報や証拠を流している。
そしてそのうち少なくとも1回は、私の指示だ。

とすれば、私が同じことをする可能性は高く――その現場を押さえれば
法廷に戻りたがっている彼女にとっては、私を担当から外す格好の材料となるだろう。

実際には、事件そのものではなく、その周辺で起きている大変な事態についての話に終始したので
彼女にとっては、実りの少ないものだったとは思うが。

そもそも、彼女が立ち聞きをしていなければ、もっと早く外に出ていたはずなので
私が病院を出ていく彼女を見かけられるわけがない。

それに、二人きりで武力的に彼女に分の悪くなったはずの状態で、朝ほど怯えていないことにも合点がいく。
朝から今までの間に、私が狙撃に関与していないことを確信できるだけの情報を得た――そう考えるのが妥当で、
恐らくその機会は、先程の立ち話以外にはなかったであろうから。

ただ、私はその点にはとりあえず触れないことにすることにした。
折角、会話が成立しているのだ。
わざわざ彼女の悪戯を咎めて話の腰を折る必要もあるまい。

「こちらも大事なことだ。見かけてしまった以上、放ってはおけない。」
「誘拐と比べると、些事だと思うのだけれど」

私が話したことに彼女がちゃんと返事をくれることに妙に感動しながら、私は答えを返すことにした。
「そう断定するには、不安材料が大きすぎる」

「――不安材料?」
「先ほどの話だと、誘拐犯と狙撃犯は、どうやら同一人物らしい。
  虎狼死家は目的のためなら手段は厭わない。君が再度狙われる可能性は拭えない。」

また狙われる、と言われてメイは不安がるかと思ったが、実際にはそんなに動揺しなかった。
「実際に法廷に立ったのは私ではないのだから、もう狙われることはないはずだわ」

確かに、それは間違っていない予想だとは思うが――
「それはどうかな」

「――どういうこと?」
勿体ぶったように私が疑問を呈すると、私の望むとおりの反応が返ってきた。

「検察側に対する牽制として、君が狙われる可能性も考えられる」
「――貴様が狙われる可能性よりは低いと思うのだけれど」

彼女の言うことは、尤もだ。
だが、今は私の危険ではなくメイを病室に戻す為の話をしているわけだから、
論点をずらすわけにはいかない。

「それでも、狙われる可能性がゼロにならない以上、私は君の安全を確保するように動くまでだ」

成歩堂は、真宵くんを盾に弁護を強要されている。
だとすれば、万一殺し屋が私の大事なモノを知っていたら――彼女が狙われるかもしれない。

世間的には、私と彼女は“被害者”と“加害者の家族”なので、そこを見抜かれる可能性は低い。
だが、“ありえないはありえない”のだ。油断はできない。

それに 一般的に考えて、たとえ他人であっても人質を取られて動揺しない人間は少ないと考えるのは妥当だろう。
その観点から、“弱っている同僚”を盾に何かを要求してくる可能性は、除外してはいけないものだった。

さて――私が断言してからしばらく、メイは変なものでも見るように私のことを見ていたが
少し何かを考えるように遠くを見た後に、彼女がこちらを見てふっと笑った。

――まるで、可哀そうなものでも見るように、私の方を向きながら。

「そこまで躍起にならなくてもいいし、心配するフリをする必要もないわよ」
「躍起?――フリ?」
思わず私が聞き返すと、メイは先ほどと表情を変えずに私の問いに答えた。

「私に何かが起こっても、きっと誰も貴様のせいになどしないわ」
私が譲らない理由を、彼女は曲解しているようだった。

――どうして、これだけ話しても、肝心な部分が伝わらないのだろう?

私は幾分忌々しい気持ちになりながら、息と共に言葉を吐き出した。
「私はどうしても、君が心配なのだ」

どんな御託を並べても、今私を動かしているのはそれだけだった。
「狙撃されなくても――万一、路上で君が倒れたりして事故にでも巻き込まれれば、私は一生悔やみきれない」

「……全く、理解できないわね」
しばらくして口を開いた彼女は、呆れたようにそう言った。

「本当は貴様にとっては、“万一”とやらが起こる方が嬉しいのではないかしら」
目の奥にあるものを探るように私の目をじっと射て、彼女が私にそう問いかける。

まるで私が彼女の不幸を望んでいるかのような解釈を見過ごせるわけもなく、私は彼女に訊き返した。
「――君が言いたいのは、私が狩魔の人間に憎しみ以外の感情を抱くはずがない、ということか」

声を紡ぐたびに、それが私達にとって非常に話しにくい類のものであることを痛感する。
それでも、この誤解を解いておかねば、前には進めない。

「……そういうことね」
彼女は目を伏せ、神妙な表情で頷いた。

「あんなことがあって、それでも私を案じるような態度でいる貴様を、私は理解できない」
昨夜から今までの彼女の態度が、その言葉が彼女の本音であることを物語っていた。

「――憎むという行為は、両刃の剣のようなものでな。」
それに応えるための言葉は、私の中に前々から用意されている。
メイと会い、話をしようと決めた時から、何度も考えてきたものだ。

「憎めば憎むほど、己自身の心も蝕んでいく ――私はそこから解き放たれる道を選んだだけだ。」

「――あれだけ憎んでいたものを、許すというの?」
私の本心を見定めようとする意思を湛えて、彼女が再び私を直視した。

「君は何もしていない。よって、憎む必要がない。」
「――あなたの父親を殺し、15年も騙し続けた男の、娘だというのに?」

メイの顔に表情はなく、淡々とそう事実を告げていた。
――私にとっては、むしろその様子自体が心配で、仕方がなかったが。

「あの人の罪は、あの人の物だ。
  ――それにあの人はもう、罪を贖っている。」
彼女を前にして、彼をどう呼んで良いかわからなかったが――私が迷ったのはそこだけだった。

「それで狩魔を許したというのであれば――お人好しが過ぎるわ」
「――さっきも言ったが、私が過去から解放されるための決断だ。」

彼女がそれを聞いてどう感じたか、表情から読み取ることはできなかった。
だが、そんなに穏やかではないだろうということは、想像に難くない。

「むしろ私には、君もあの事件によって痛手を負った人間に見える」
「――痛手?」
彼女が、怪訝そうに尋ねてくる。

「君も、多くを失ったはずだ――信じていた多くのものを」
そう告げると、彼女は黙り込んで地面を睨みつける。
恐らく、思い当たることがあったのだろう。

「あの事件の影響で傷つき苦しむ人間を見るのは、そこから解放されたい私にとって許し難いことでな。
  ――だから私はこうして、君が危ない方向に行かないようにと躍起になっているわけだ」

「私は、傷ついてなんかいないわ」
弱きを良しとしない彼女は、そこだけは否定したいらしい――だが。

「もし君が傷ついていないのであれば、『復讐』のために日本にいるはずがない」
私がそう反証すると、やっぱり黙り込んでしまう。

やはり、アメリカでの実績と生活を放棄して彼女がここにいるのは
相当深刻な苦しみの結果なのだということを、私は改めて実感した。

恐らく、父親が無敗にこだわったために破滅したことを知っているのに
こうして勝つことにこだわり、無理にでも法廷に戻ろうとしている理由も、同じところにあるのだろう。

彼女を救ってやれる魔法の言葉でも持っていれば良かったのだろうが
あいにく、私はそういうものを持ち合わせてはいなかった。

私にできるのは、彼女が苦しんだ末に答えを出すのを見守り続けること。
そして、彼女が度を超えた無茶をしようとするのを止めることくらいだ。

「成歩堂はきっと、君が気持ちを整理できるまで付き合ってくれるはずだ。
  今回は君も本調子ではない。じっくりと養生して、次の機会に備えるといい」

もう一度屈んで視線を合わせ、できるだけ穏やかにそう伝えると、
彼女はしばらく俯いて、思いつめたような表情をした。

「――勝手に、話を納めないでもらえるかしら」
開口一番に出た言葉は、相変わらず可愛げのない言葉だった。

その様子に、もう抱えて連れていくしか手はないかと思っていたところ、
俯いたままのメイの口から、小さな言葉がぽつりと放たれた。
「それに――次なんて、もうないわよ」

「どういう、意味だ?」
怪訝に思った私はしばらく待って見たのだが、返事は戻って来ない。

もう一度問いかけようかと考えていると、私の携帯が鳴り響いた。

彼女のことも気になるが、仕事の連絡を無視することはできない。
「――御剣だ」

電話は、警察に詰めている部下からのものだった。

綾里真宵の救出班の人選が終了し、集合をかけたという報告らしい。
相手が厄介な指名手配犯だけに、少し時間をかけてでも手練の人材を集める必要があったが
どうやら思ったより早く、必要な人材を見つけることができたようだ。

壁に凭れて電話の様子を眺めていたメイは、私が終話するとと即座に話しかけてきた。
「さっさと行きなさい」

「だが、まだ」
まだ、メイを病室に戻せていなかったし、その同意すら取れていなかった。

救出班は、他の所轄からも応援を頼んでいるはずだ。
今しがた集合をかけたのであれば、実際に集まるまでにあと30分はあると見てよいだろう。
メイを抱えていけば、彼女を送り届けても間に合うはず――

そう考えて実力行使を始めようとした私だったが、メイの言葉で、その出鼻はあっさりとくじかれることになる。
「私は病室に戻るわよ。」

呆れたような諦めたような溜息をついて、彼女はそう宣言した。
そうして方向転換をすると、病院の方に向かって堂々とした足取りで歩いて行く。

しかし――あれだけ嫌がっていたのだから、と私はいろいろな可能性を危惧せずにはいられなかった。
「――そうは言っても、戻るところまで確認せねば」

追いつきながら彼女にそう声をかけると、急激に機嫌を悪くしたことが表情から読み取れた。
「ちゃんと戻ると言っているのが聞こえなかったのかしら」

雲行きの怪しい声を出され、私はそれ以上云い募るのを控えることにした。

「検事局に戻ったところで、貴様があらゆる手を使って邪魔をするのは、目に見えているもの」
そういう彼女の表情は本当に忌々しげだった。

「それに、私が戻るのを見届けたところで、出て行く時は出て行くのだから結局同じことよ」
「それはそうだが――」
不安にさせるようなことを言わないでほしいと、ほんの少し思ったのは秘密である。

そして食い下がろうとした私の言葉は、彼女にばっさりと切り捨てられた。
「それよりも、職務を全うしたらどうなの。
  集合に遅れたせいで失敗するなんて、みっともないことにならないように気をつけることね」

だがそれは、確かに的を射た意見だった。
「――そうだな」

それ以上は、私も何も言わなかった。
私が何も言わなければ、彼女は何も語らない。

無言のまま病棟の入口まで戻ってくると、彼女が向かって左の方を指さす。
「駐車場は、こっちから行くと近いわよ」

その声は、非常に事務的な響きだった。
ここからは別行動だと、暗に言われているような気がしなくもない。

私が軽く礼を言うと、彼女は私を一瞥して、そのまま病棟に入っていこうとした。

「また時間が空いたら、見舞いに来る」
その背中にそう声をかけると、彼女が立ち止まってこちらを振り向いた。

「来なくていいわよ」
間髪を入れず放たれた可愛くない言葉と、ふいと顔を背ける仕草。
幼いころから何度も見てきた、彼女らしい言動だった。

それを見て、私は思わず、その状況にそぐわぬ笑みを漏らしてしまう。

「何を笑っているのよ」
プライドの高い彼女は、そういう笑いに敏感だ。
返答によっては鞭が飛びそうな眼光で、じろりと私を見据えてきた。

そういうところも含めて――
「君は本当に、変わらないな」

笑いながら私がそう返すと、メイは少しきょとんとしたような、軽い驚きの表情を見せる。

だがすぐに、昨日からよく見ている不機嫌な表情になって、溜息と共に言葉を漏らした。
「貴様は、変わったわね」

「――そうだろうか」
そう尋ねた私を、メイは冷たい視線で見据えた。

「昔はいつも暗い顔をして、ウジウジしてたくせに」

メイは、あの15年間で私が心を許していた数少ない人間であったはずだ。
その彼女に「暗い顔」と言われ、昔の自分は一体どんな人物像だったのかと少し覚束ない気持ちにさせられる。

「……そう、だっただろうか」
沈黙の中で、確かに当時は常に何かに苛まれていたことを想起した私は
問いかけというよりは会話の相槌としてそう答え、彼女の方をちらりと見る。

彼女も私の方を一瞥したが、目が合うとゆっくり視線が逸らされる。
どこか遠くを見て、呟くように小さな言葉が放たれた。

「少なくとも、私と一緒にいた頃は、そんな風に穏やかに笑ったことなんかなかった」

その声は不自然なほど無機質で感情が読めず、私はとっさにはどう応じて良いかわからなくなる。

「メイ!」
反応を待たずして踵を返した彼女に、とりあえずはとその名を呼んだ。
しかし彼女は若干覚束ない足取りながらも振り返ることなく、前に進んで角を曲がり姿を消してしまった。

取り残された私は追いかけようかと少しだけ迷ったが
結局、仕事に戻る方を選択することにする。

私が病院に来たのは、どうしても彼女の安否が心配でたまらなかったからだ。
彼女は歩き回る程度には無事で、どうやら大人しく病室にいてくれそうだ。

だったら、私は安心して仕事に職務に戻るべきではないだろうか――そう思ったのである。

個人的な感情の話は、きっと全てが終わってからでも遅くはない。
 
 
それでも病院を出て車に乗り込んでからしばらくは、メイのことを考えていた。

――あの時、私は何を言いたかったのだろう。
とてもモヤモヤとした、言葉にならない想念がたくさん含まれていた気がする。

メイはまるで、彼女といた時間を私が幸せに思っていなかったと思いこんでいるようだった。

事実は、違う。私は幸せだった――だからこそこうして、私はここにいる。
だがきっと、彼女には全く届いていなかったのだろう。
――私が隠していた部分もあるので仕方がない部分もあるのだが、
それでも、あんなに過去を否定するような言葉を言われるのは心外というものではないか。

そう考えたところで私は自分があの時感じていた、
何とも言えない感情の正体をようやく言語化することに成功する。

――私が笑えていたのなら、それは目の前に君がいるからではないか。
   どうしてそんなことがわからない――?

あの時私の中では、そんな疑問と、軽い憤りにも似た感情とが混ざり合っていたらしい。
「――君は馬鹿だな、とでも言っておけば良かったな」
思わず、息を吐くように私の口から独り言が零れ落ちた。

 

 

 

全てが終わったら、彼女にちゃんと伝えよう。

“私がそんなに良い顔で笑っていたのだとしたら、それは君と一緒にいたからだ”と。
 
 
 
<おわり>