「隔たり」

 

「メイ――」
ふらふらと吸い寄せられるように彼女に近付いた私が、無意識のうちに彼女の名を呟くと
呼ばれた名の持ち主は、びくりと身体を揺らす。

恐る恐る見上げて私の姿を視界に入れた彼女は、目を見開いて小さく身体を震わせた。
まるでそれは、自分を傷つけた人間を見るような眼で――

だが、目が合った瞬間に全てが潮のように消え去り、冷静な彼女が戻ってくる。

一方の私は、遠目で見るよりも凄惨な赤の世界に茫然と立ち尽くすしかできなかった。

もっと酷い現場なんか、いくらでも見たことなどあるはずなのに
血を流しているのが身近な存在だというだけで、気が遠くなりそうだ。

だが、傷ついた肩から流れ出た血が指先を伝い、地面を濡らしているのを認識すると
私の意識は、突然活発に動き始める――怖気づいている暇などないのだと。

状況の聴取を、いや、止血が先だ――
ばっと座り込んだ私は、迷わず彼女に手を伸ばす。

だが、私の手が彼女に触れるよりも早く。
「さわらないで」

逆らい難いはっきりとした口調で、彼女の声が私を撥ね退ける。
少し遅れてかざされた赤い左手が、拒絶の意思を顕わにしていた。

「メイ――」
「ちょっと、掠っただけ」

彼女はそう言うが、左手が離れた彼女の肩のど真ん中の布地が破れ
そこからゆるゆると血が滲みだしているのが見える。

「少し休めば大丈夫。――貴様の助けはいらないわ」

感情の隠された表情からは、それが本気なのかハッタリなのかがわからない。
だが、どう考えても、私の意見は彼女のものとは違っていた。

一刻も早く、手当が必要な状態としか思えない。
彼女の言葉を無視して、止血ができないかと負傷した肩を見て回った私は、いくつかのことに気が付いた。

背中側の服も血に染まっているが、正面ほど濡れていない。
そして、彼女の服は、ただ一か所、銃弾が入り込んだ部分以外に破れている箇所がなかった。
それは、つまり――

「弾丸の、貫通した形跡がない。」
事態がより深刻である可能性を感じて、私は彼女にそう告げる。
「どうやら君の体内には、銃弾が残ったままのようだ」

だが彼女は、それをどうでも良さそうに受け流した。
「血液の流出が片側だけで済むなんて、不幸中の幸いね」

皮肉げに笑った彼女は、自由になる利き手で傍らのバッグに手を伸ばすと
携帯電話を取り出して、浮かび上がる数字をちらりと眺めた。

――そろそろ行かないと、準備の余裕がなくなるわね。

口に出していないはずのその言葉を、私は何故かはっきりと読み取る。

こんな事態にも関わらず裁判のことしか念頭にないらしい彼女の態度に、私の堪忍袋の緒が切れた。
これ以上、話し合う余地もないし、むしろ、時間の無駄だ。

その結論に至り、再度メイに手を伸ばす。
立ちあがろうと姿勢を変えていた彼女を抱き上げるのは、
それほど大仕事ではなかった。

「病院へ行くぞ」
自分でも驚くほど、淡々とその結論を伝える。

すると宙に浮いた彼女は、絞り出すように叫んだ。
「大丈夫だって言っているでしょう?!降ろしなさい、御剣怜侍!」

「この付近で銃声がした。そして君は血を流している。そしておそらく君の体内には銃弾が埋まっている。
  だとすれば、君が大丈夫かどうかを判断して処置をするのは、我々の仕事ではない。」

「私は、これから法廷に立つのよ!病院など行っている時間は――」
「狩魔冥」
あまりの聞き分けの悪さに、私はつい、苛立ちを隠さずに彼女を睨みつける。
すると、彼女は追いつめられた猫のように、牙を剥きながらも大人しく黙りこんだ。

「開廷まで、まだ時間がある。
  君の言うとおりに大丈夫なのであれば、それまでに戻って来れるはずだ。」
それを聞いた彼女は、悔しそうに目を伏せる。

彼女自身も、本当は自分が“大丈夫”などではないことに気付いているのだろう。
血の気の引いた顔色が、それを物語っていた。

それでも身体を固くして、私に体重を預けようとしない彼女と、
彼女が手放そうとしない荷物を抱えて、私は車へと走った。

「スピードを出すことになる。窮屈だろうが助手席に乗りたまえ」

隣にいた方が、何かあった時に動きやすいだろうということも考慮して
私は彼女を助手席に降ろし、シートベルトを装着させる。

シートに凭れかかったメイは、はじめて素直に苦痛で顔を歪めた。
「……レイジ」

ほどなくして声をかけてきた彼女が、昔と同じように私を呼んだことに驚いて
私はまさにかけようとしていたエンジンから手を離して、彼女の方を振り向く。

メイは正面の遠くを見つめて、力なく皮肉めいた笑顔を浮かべていた。
「右肩……も、貫通しない、弾も――偶然……の……しら……ね……」

それ以上、喋る力がないのか、それとも気を失いかけているのか。
彼女は目を閉じて、それ以上何も云わなくなった。

「少なくとも、私にはわからない――」
私には、そう答えるのが精一杯だった。

彼女が最後に呟いた言葉、そして、銃撃後に見せた、怯えた目。
その二つが繋がり、私の中で一つのロジックを生む。

御剣怜侍という人間は、恐らく今の彼女にとって“父親の被害者”という位置づけなのかもしれない。
しかも、すでに“嫌がらせ”とやらを受けている相手で――
その上彼女は、その男が抱く仇敵への憎しみをよく知っていた。

失踪していたはずのその男が、昨晩突如姿を現した。
そして今朝、男が再び接触をしてきた直後、彼女は狙撃された。
――偶然か必然か、父親の罪の証と同じ部位、同じ状態となるように。

先ほどの出来事を、それらの背景と合わせて考えると
駆け付けた私を密かに疑って怯え、身体を預けようとしない彼女は、賢明と言える。
だが、私にとっては悲しいことだった。

どうか、わかってほしい。
私は決して君から奪ったり、傷つけたりするために戻ってきたのではない。
君を助けたくて、関係を修復したくてここに来たのだと。

それがメイに伝わるにはきっと前途多難で、長い時間を必要とするのだろう。
頑なな彼女を見ていると、そんな予感がした。

だがとにかく、今はそんな未来へ繋がるために、彼女を生かさねばならない。

そう思い直すと、私は合法的にスピードを上げるために借り物の車を本来の姿――覆面パトカーに変化させ
サイレンを鳴らすと、前のめりの姿勢をとってアクセルを限界まで踏みつけた。

<おわり>