車は滞りなく走り出し、メイを乗せて順調に目的地へと向かっていく。
しかし、車内は完全に沈黙が支配しており、重苦しい空気が漂っていた。
――私たちの間にあったことを考えれば、それはごく自然なことではあったが。
それでも、私はそれを崩すためにここに来たのだから、
この状況を甘んじて受け入れるわけにはいかない。
「元気だったか?」
とりあえずありふれたことを尋ねてみる。
しかし、後部座席の彼女からは何の返答もなかった。
どうやらまだ、当たり障りのない言葉を交わし合える段階ではなかったらしい。
私はいったん言葉を慎み、反応がなくても話し続けられるような話題を探し始めた。
――知らない土地を回っている時の話でもしてみようか。
だが、法廷以外では口下手となる私が話題を組み立てる前に
後部座席の空気が彼女に吸い込まれていく音が聞こえた。
「尻尾を巻いて逃げだした癖に、よくもまあ今更出てこれたものね」
こちらの質問に答えぬまま、彼女は不機嫌そうな声で呟く。
昔ならばその不作法をたしなめただろうが、今の私はそこに目をつぶる。
彼女から自発的に投げられた言葉を、些事で流してしまうわけにはいかなかった。
彼女の言葉は皮肉とも、私が戻ってきた理由を遠回しに問うているようにも聞こえた。
とは言え、それでも戻って来た理由は、昨日の再会の時に伝えている。
ただし、冗談めかして伝えたせいかどうやら真意は伝わらず、彼女を怒らせたようだが。
――同じ道を歩く人間として、メイにしてやれることをしたい。
そう思って口にした言葉は、嫌味として彼女に届いたようだった。
以前はあれくらいの軽口ならば、軽い挨拶としてぶつけ合うことができたことを思うと
少々いたたまれない気分になる。
ともかく同じことを言えば、きっとまたうまく伝わらないだろう。
そこは容易に予想がついた。
とすれば、もっとストレートなものへと言葉を変えるべきか。
そう考えた私は、できるだけ棘のない言葉と口調を心掛けて彼女の問いに答えた。
「君に、会いたいと思った。」
鏡越しにちらりと彼女の反応を窺うと、少し呆気にとられている表情が垣間見える。
だが、数秒後にもう一度そちらを見ると、彼女は皮肉げな笑顔を浮かべていた。
「奇遇ね。私も貴様に会いたくて仕方がなかったわ。」
決して私と同じ気持ちで“会いたい”ようには見えないだけの敵意を剥き出しにして、
彼女がはっきりとそう言い放つ。
「勝手に消えたことといい、この前の嫌がらせの件といい、
――キサマとは決着をつけるべきことが山ほどあるのよ」
聞き返したい箇所は複数あったが、特に気になったことが1つ。
「――嫌がらせ?」
覚えのない嫌疑に、私は思わず怪訝そうな声で問いかける。
「忘れたとは言わせないわよ。――去年の年末に、ヒゲを使って邪魔をしてくれた件。」
メイの声は、ドライアイスを連想させる冷たい怒気に満ちていた。
そして、彼女の言葉を聞いた私は、彼女の言わんとしていることを理解する。
私が正しいと思ってしたことは、彼女の中で「嫌がらせ」として捉えられているらしい。
――いや、その前に。
「気付いていたのか。」
ヒゲと呼ばれた刑事がばらしていない限り、彼女はこのことを知らないはずだ。
そして私にとって糸鋸刑事は、その点で信頼できる相手である。
「当然でしょう」
忌々しそうに、彼女が言葉を吐き捨てる。
「あんな芸当ができるのは、どう考えてもキサマだけだわ」
「お褒めの言葉と受け取っておこう」
彼女の皮肉を受け取ることに慣れている私が、あえて軽口でそれを流すと
後ろから悔しそうに喉を鳴らす低い音が聞こえた。
「――さぞ楽しかったでしょうね。高みから駒のようにヒトを動かすのは。」
「必要だからしたことだ。娯楽のつもりではない。
それに君の名誉も、守ったつもりだったのだが」
そう伝えると、メイは手に持っている鞭をギリギリと曲げて鳴らした。
「――やはり、アレもキサマの仕業というわけね」
彼女が言っているのは、恐らくあの法廷の翌日に発行された新聞記事のことだろう。
あの日、紙面に載ったのは、彼女の2度目の敗北ではない。
“勝利”にこだわり続けた検事が“正義”を選択したこと、
そのために知略を働かせたことを各紙が評価した。
挫折を経験した天才少女がそれを乗り越え、検事として大きく成長したと
ドラマティックな描写で報じた記者すらいたのである。
ともかくあの敗北は、彼女の失態ではなく計画されたものとして認知され
彼女の名が傷つくことは避けられたはずだった。
「私は、検事局長に求められて、いくつか意見を述べただけだ。」
「狩魔冥の敗北をうまく利用すれば、検事局の堕ちたイメージを回復できる――とでも?
余計なことをしてくれたものね。」
目に見えるようだと言わんばかりに、彼女は刺々しく言葉を投げかける。
「――多くの善良な人々が望むのは、公正な裁きだ。」
「大衆のニーズなんて、私には関係ない」
鎖された声が、私の提示した一般論を一蹴する。
その後に続いた言葉は小さな声だったが、不自然なほどにはっきりと発音された。
「私に求められているのは、『必ず勝つこと』だわ」
こうして客観的に眺めると、その信念の持つ、呪いにも似た力に寒気を感じずにはいられない。
狩魔の人間は、否応なくこれに囚われて雁字搦めになっていくのだろう。
父親がそのせいで破滅したことを、賢いはずの彼女が気付くこともできないほどに。
私はそれを悲しいと思い、囚われたままの彼女が憐れで仕方ないと思った。
「――それ以外の生き方があることを知っていても、損はないと思うのだがね」
私がそう語りかけると、メイはしばらく黙った後、呆れたように溜息をついた。
「どうやら、これ以上の議論は無駄のようね。」
頑なな心に、何を伝えてやれば良いのかわからない私がしばらく黙っていると、
再びメイがその口を開いた。
「――もう、コトバさえ通じないのね」
しみじみと吐き捨てるように言った彼女の声には、さまざまな感情が混ざり合っているように思えた。
亀裂に似た音のするそれを見過ごせず、私は修正を試みようと口を開く。
「メイ、私は――」
「止まって」
強い語調に、言葉を選んでいた私の声が遮られる。
「あの門まで結構よ。そこから歩いて行くわ。」
前方には、目的地である裁判所の通用門が見えていた。
「そこから歩くには荷物が多すぎるだろう。入口まで送る。」
実際、門から玄関までには駐車場を兼ねたスペースがあり、決して至近とは言えない。
「荷物は必要な分だけ持っていくわ。残りは検事局の受付に預けてちょうだい。」
「メイ――」
私はそれに異論を唱えようとするが、再び彼女の声に遮られる。
「黙って」
その強い語調が検事席にいる時やプライベートでの彼女のものであれば、
私は検事なり兄役なりの態度をもって言い返せたのかもしれない。
だが、今の彼女の声は、聞いたこともないほど冷たく、さまざまなものを排しているようだった。
「ヒゲの代わりに来たというなら、あの男と同じように動きなさい。」
メイはそう言いながら、裁判に必要な荷物と鞭だけを手にして車を降りていく。
ドアを閉めながら、彼女は言い捨てるようにこう言って去って行った。
「帰りはタクシーを呼ぶから、貴様の迎えはいらないわ」
取り残された私は、路肩に車を停めたまま、しばらくぼんやりとしていた。
一筋縄ではいかないことはわかってはいたが、こうも拒絶されると痛手が大きい。
――だが、ここで引いてしまっていいのだろうか?
確かに今日、彼女は忙しい。精神的にも、深い話をするだけの余裕はなさそうだ。
しかしだからこそ、少なくとも一言、先ほど伝えられなかったことだけは――
私は車を別の門から裁判所の敷地に滑り込ませると、
通用口に近い駐車スペースにそれを停めた。
彼女は通用口から館内に入るだろうから、この辺りで待っていれば会えるはず。
そんな見通しを立てながら車を降り、施錠を済ませて数歩歩いた時だった。
――何かが破裂する、大きな音が辺りに響く。
それは、朝から浮かれた人間が花火やクラッカーを炸裂させた音だったのかもしれない。
車が空気のはいった何かを踏みつけて音が鳴ったに過ぎないのかもしれない。
ただ、私の耳は、私がよく知っている音だと主張し始めた。
私の記憶にこびりついたままの、銃声によく似ていると。
それだけで否応なく、私は嫌な想念に駆り立てられる。
あの音が聞こえるたびに、私は大切なものを失ってきたような気がする――
私は自分の思う方向へと急いで歩を進めた。
彼女が通っているであろう、通用門の方へ。
これは、単なる確認だ。彼女が無事だとわかれば良い。
そもそもあの音がしたからといって、不吉なことが起きると考えるのは合理的ではない――
そう言い聞かせて胸騒ぎを鎮めようとした私は、すぐにその努力が水泡に帰したことを思い知る。
少し歩いた道の先に、彼女はいた。
道端に蹲っている彼女が、肩を丸めて右側のそれを手で押さえているのが見える。
普段なら見せないような姿勢の彼女が着こんでいる、
普段通りのはずのスーツの白いブラウスは
遠目でもはっきりとみえるくらいに、上部を赤に染めていた。
<おわり>