「大いなる復活」

 

そうして彼女を密かに見守る日々が始まって、また数ヵ月が経過する。

メイは相変わらず日本で、鞭を振り回しながら奔走しているらしい。
あれ以来敗北することなく、自分を下した弁護士と再び会うこともなく、
部下となった刑事が見る限り、職務上は問題なく、ただ淡々とそれを全うしていると聞いていた。

ただ、 少なくとも刑事の話の端々や、時折手に入れる彼女の近影を見る限り
彼女は静かに、しかし険しく荒れているようだった。

彼女にはきっと、無理矢理にでもそこから救い出す人間が必要だと思う。

しかし――唯一彼女を助けることができそうな立場にある糸鋸刑事は、
荒れたメイの鞭の嵐にどうやら辟易しており、最近では頻繁に私に泣き言を零すようになっている。
私に向けてくれる忠義や情熱と同じものを彼女にも向けてもらうことが難しいようだった。

そして、私を助けてくれた幼なじみ――例の弁護士と同一人物であるあの男。
仲間には情が深く、持ち前の執念で人を救ってきた彼に、もし彼女を託すことができれば安心できるのだが、
彼は私を憎んでいるらしく、また彼女にも良い感情を持っていないらしい。

彼女のもつ背景や苦悩を知らない以上、
勝敗にこだわり、荒々しく鞭を振り回す彼女に親身な思いを持つことは、至難の業なのだろう。

結局、彼女を救う意志と可能性を持ち合わせる人間は、あの場所には存在しないということになる。

そう結論付けたものの、それでも、その意志を持っているはずの私は動こうとしなかった。

私が彼女と直接会うことは良いことだとは思えない。
私たちの間にある、あの“事実”のことを考えると、
彼女のことは大切な過去として胸に抱いたまま見守るくらいが、ちょうど良い距離なのだと思う。

そのため、裏から手を回して彼女を救い出すことができないかと
糸鋸刑事に働きかけ彼女を労らせたりしたのだが
成果は焼け石に水で、事態は全く変わらなかった。

それどころか、相変わらずメディアへの露出を続ける彼女の表情はますます険しくなり、
聞くところによると局内でも孤立が深まっているという。

そんな中、父親が異例の早さで死刑を執行されると、彼女はより固く心を閉ざして荒れだした。

定期的に彼女の近況を聞きながら、それでもどうしてやることもできないことに私がヤキモキとしていたある日、
私は刑事から、一つの知らせを受けた。

メイと成歩堂が、数ヵ月ぶりに法廷で相見えることが決まった――と。

父親の罪を暴露した男の前で、彼女は自分を見失わずにいられるようになったのだろうか。
そして、彼女の“復讐”の標的として、鞭の餌食になるであろう成歩堂のことも心配で仕方がなくなる。

これまで、メイが担当する事件の断片を耳にすることは何度もあったが、
検事局を去った人間が首を突っ込むべきではないと、詳細を聞くことはできるだけ控えていた。

だが今回は、無罪と信じた被告人だけを弁護してきた男が弁護についた。

そこがどうしても気になって刑事に詳細を訊ねてみると、
凶器は未だ発見されておらず、目撃証言と動機となりうる情報のみを根拠に犯人が逮捕されているとのことだった。

つまり、冤罪である可能性が全くもって捨てきれないということである。

友人の信念、そして彼女の進むべき未来と私の過去――
そういうものを考えるうちに、居てもたってもいられなくなった私は
刑事に無理を言い、二人が対峙する事件の捜査資料をこまめに流してもらった。

刑事がどういうつもりで便宜を図ってくれたのかはわからなかったが、
あくまでも私自身は、傍観者として彼らの結末を見届けるつもりでそれを手に入れたはずだった。

だが、糸鋸刑事の話や、流れてくる捜査資料に目を通すうちに
私は完全に、その真相を手繰り寄せることに没頭していた。

――あれだけ絶望して戻りたくないと思った場所だと言うのに、
まるで、あの執務室や刑事課、そして検事席に立っているかのような感覚で。

そうしてまだ審議の始まっていないはずの事件の真相をつかみ、我に返ったとき
私ははっきりと思い知らされた。

こうして思考を巡らせる時、死んだも同然だと思うくらいに覇気のなかった私の心身が、みるみるうちに活力に満ち溢れるということを。

そして私は、最終的に認めざるを得なかった。
たとえば世間一般の視点や、全体を見通して木槌をふるう裁判官でもなく
そして友人のような弁護士の立場でも、情報を流してくれた刑事でもなく、
私があくまでも検事としての視点から、この事件を紐解こうとしていたのだということ――

つまり、私にとって検事というものは、すでに私の一部だということを、はっきりと思い知らされたのである。

――そして。

仇だったあの人、味方のいなかったあの組織。
はじめから私を裏切っていたモノたちから吸収したさまざまな知識や経験は
全てが間違っていたわけではなく、使いようによっては、真実を明らかにするために利用することができると感じた。

あの日々は、決して無駄ではなかった。
真実を隠していたあの人に教えを請い、その価値観のみに漬かって過ごした日々も。

私があそこで得てきたものは、償うべき人間を贖罪の場へと送り、時には冤罪で苦しむ人を助けるための――
私が子どもの頃に描いた理想を実現する“武器”になりえる。

父と同じ弁護士という立場で、それをやってのけた友人。
刑事局の人間でありながらも、首を覚悟でその弁護士の道を手助けしたという、実直な私の元部下。

そんな彼らと力を合わせることができれば、私の中に燻ったままの“理想”は。
叶えられないと思うと絶望して逃げ出したくらいに、思い入れの深いそれは、きっと――

その思いに至った瞬間、私の中で、閉ざされていたはずの未来が突然広がった。

――帰りたい。
私ははじめて、素直にそう思うことができた。

そして私は同時に、今あそこにいるメイのことを思い浮かべる。

進歩を急ぐ彼女との切磋琢磨の日々もまた、検事としての私を育ててきた一つの基盤だ。
恐らく彼女もまた、私とぶつかり合うことで進歩を遂げてきた部分もあっただろう――そう思いたい。

そうして兄弟弟子として成長してきた間柄だからこそ――多くのモノを共に培ってきた者同士だからこそ、
検事として対峙すれば、私は“検事・狩魔冥”を救ってやることができるかもしれない。
根拠はないが、個人としての彼女を救うよりも、それはいくらか望みのあることのように思えた。

そしてそう考えながら、幼いころから最後に会った時までの彼女のさまざまな表情を頭に浮かべる。
きついながらも豊かな感情表現をする彼女のイメージとは対照的に
心を殺して微笑む今の彼女の写真を眺めるうち、
私は個人としての彼女に対しても、自分ができることがあるのではないかと思い始める。

“もしレイジが独りになっても、もしどこかに消えてしまっても
  私は死ぬまでずっと、レイジのことを覚えて、心配し続けてあげるわ”

私がはじめに彼女への感情を自覚したのは、彼女がそう言った時だった。
独りきりのように思っていた私の心の中に、はっきりと誰かとの繋がりを確信できた瞬間だった。

酔いと、恐らく自責の念からの逃避を願ったために、一度はすっかり記憶から欠落してしまっていたが、
それでも彼女が素気なく、そしてさりげなく繋ぎ続けた手は、私が振り解くまでしっかりと私を支えていたように思う。

もちろん彼女はもう、私を心配していないかもしれない。
もしかすると、憎んでさえいるかもしれない。
――だがきっと、彼女は私のことを覚えているはずだ。

あの言葉を思い出してからというもの、遠い空で生きていても、
私は今でも彼女と繋がっているように感じており、
その感覚に支えられていると感じることがよくあった。
――少なくとも、ただ憎しみに囚われるだけの日々からは少しずつ抜け出せたような気がする。

そして、あの約束は一方的なものではない。

私も毎日のように彼女を思っている。
一方通行となってしまったかもしれないが、私はずっと、彼女のことを案じていた。

住み慣れてはいないはずの場所に留まり、独りで戦い続ける彼女にそれを伝えるのは
決して無駄なことではないのではないように、私は思う。

たとえ彼女が、のこのこと姿を現した私を憎み拒んでも、
かつて全力でぶつかってきてくれた思いが、決して意味のないものではなかったことを伝えておくことは、
彼女がこれから誰かと絆を結んでいく時に重要な糧となるだろう。

そう結論付けた瞬間、数ヶ月に渡って考えながらも渋ってきたことが、あっさりと心の中で決まってしまう。

またひとつ、私の頭の中を占拠していた靄が、ぱっと取り去られて光が差し込んだ。
 

元部下から約束していた連絡が入ったのは、その余韻が冷めやらぬうちのことだった。

高額になるであろう通話料を払う力を持たない彼の状況を考えて電話には出ず
間髪を入れずに、刑事の携帯に折り返しかけ直す。

『はい、糸鋸ッス』
元気の良い彼にしては、大人しく緊張した声で電話に応じる。
通話相手が他者にバレれば、彼はおそらくただではすまないだろうから、慎重になるのも当然だ。

「今日の審理が、終了したのだろうか」
『はいッス』
「念のため、周りに関係者が近くにいないかどうかの確認を。」
『――大丈夫ッス』

そう答えて、刑事は手短に、今日の法廷の概要を語る。
被告の罪を立証することはできず、審理は明日に持ち越しとなったとのことだった。

あらかじめ文明の利器によって届けられた捜査資料を確認しながら話を聞いていくと
まだ検討されていない一つの可能性に思い至る。

可能性というよりも――この世に魔術とやらが存在しないとすれば、その推測が一番真実に近いように感じられた。

警察局が調べ上げたデータによると、私が真犯人と目する人物は非常に賢く善良で、それだけに手強いと思われる。

メイは被告として法廷に連れてこられた人間を有罪にすることだけに躍起になっているだろうから、
真相に気付いても気付かなくても、敢えて自分の描いたストーリー通りに話が進むように捜査をするはずだ。
もちろんそのシナリオは被告の有罪で終わり、真犯人の罪は闇に葬られることになっているだろう。

組織の力を持たない私の友人の力では、これまでのように状況をひっくり返すことは難しいかもしれない。
だがそれでは、負うべきではない罪を背負わされた人間が救われない結末になってしまう。

それを避けるためには、どうすれば――
少しの間頭をフル回転させて、私は目標へのシナリオを組み立てる。

真犯人の逃げ場を無くして真実を明るみに晒し、冤罪の被告人を助け出す。
同時に、真実が露見すれば自動的に敗北となるであろうメイの名誉も、ある程度は守らなければならない。

甘いのかもしれないが、今の彼女に大きな負担を強いることは危険だ。
私にとって彼女が大事な存在であるだけに、彼女を潰す事態だけは絶対に避けたかった。
そのためには、彼女が最低限のプライドをもって立ち続けるための材料が必要だが――

しばらくの思考のあと、より適切で実行可能な答えを導き出すと
私は電話の向こうで指示を待っていた男に話しかける。

「糸鋸刑事」
『はいッス!』

「――ここは、狩魔検事に踊ってもらうことにしよう」
滑稽なくらいに意地の悪い策士の声が、私の喉から滑り落ちた。

追い詰められた彼女の立場を思うと、心が痛まないわけではなかった。
完璧を求める人間にとって挫折がどれだけ痛く恐ろしいものであるかは、私自身、よく知っている。
だが冤罪は許されてはならないし、彼女を間違った道に置いたままではいけない。

電話の向こうの刑事にしてもらうべきことを頼んだ後に、私はこう付け加えた。

「私も近々そちらへ戻る。――恐らく明日には発てるはずだ」
身軽な隠遁生活。荷物をまとめてチケットを確保すれば、そんなに難しい話ではない。

だが、相手の男は……
『な、なんッスとおおおおおお!』
大袈裟に感じるくらいに驚いていた。

もちろん、恐らくはどれだけ誘っても戻りたくないと言っていた私が
あっさりと戻ることを宣言したからだろうとは思うのだが。

――帰ろう。

頭の中に思い浮かぶのは、あの法廷、検事局と警察局の情景。
そして、私を助けてくれた友人が最後に言った言葉と、最後に生で見た彼女の、凍りついた表情。

あの場所に帰って、彼らの前に立って、私が失望から手放した多くを取り戻す。壊れたものは作り直そう。
驚くほどすっきりとした気持ちで、これから先のことに向き合うための意志を固めることができた。

 
興奮する刑事を落ち着かせて仕事の確認をした後に電話を切ると、
私はクローゼットの中からトランクを出して、荷物をその中に詰めていこうとする。

まずは整理のために、と中身をひっくり返すと、入れたままになっていたモノたちが
ベッドの上に投げ出された。

その中に純白でヒラヒラとした素材の布の束が無造作に転がっている。
それを見出した私は、何となくそれを拾い上げた。

あの人に倣って、身に着けていたクラバット。
特徴的なソレは鏡を見る度にあの人を想起させたため、ずっと荷物の底に閉じ込めてあったが――

――やはり、これがないと“検事”らしくならないのだな。

ややぎこちない手つきでそれを着けて鏡の前に立った私は、
その向こうに、検事・御剣怜侍の姿を見出した。

久々に身に着けてみたそれは、思ったほど胸を痛めることなく目の前で揺れている。
――しばらくの間にそれなりに、あの人への感情は吹っ切れてきたのかもしれない。

私がそんな風に思うと、目の前の男が困ったような笑顔を浮かべていた。
 

今思えば、検事・御剣怜侍の復活はあの瞬間に始まっていたのかもしれない。

 

<おわり>