ただし、辞表を置いて失踪してから、すでに数ヵ月が経過している。
失職の条件は満たしているので、「検事・御剣怜侍」は恐らく死んだと思われたが、特に確認はしていない。
守るものも残される者もいない私は、定期的に死を渇望してのたうち回るが
結局いつも一歩踏み出せず、かといって前を向いて生きていく気力も湧かぬまま
フラフラと日本を出て、外国の街から街を放浪する生活を続けていた。
精神的に不安定な日は今までの人生を嘆き、父を殺し私を騙し続けたあの人への憎しみに捕らわれる。
結局、あの人の罪が露見した後、私はあの人と会うことがなかった。
遺族としての憎しみも、弟子として騙され続けた怒りや失望も彼に直接ぶつけることなく
そうしたどす黒い感情は、はけ口を見つけられないまま、私の中に留まっているのだった。
燃え上がる怒りは、客観的にそれを眺めるもう一人の自分によって
その異常な強さを指摘され、最終的には私の心身を苛んだ。
――ここまで人を憎める自分は、きっと狂っているのだろう、と。
そうやって燃え尽き、疲れ切って何も手につかない日々がしばらく続くと
次には大抵落ち着いた日々が数日やってくる。
そういう時に本を読んだり、よい紅茶を求めて外に出たり、
はたまた気分を変えようと別の街へ移ったりと、比較的穏やかな生活を楽しんでいた。
だが、何故かそうして落ち着いた生活を営んでいるうちに
何故か昔を思い出して不安定になり、また彼らを憎み出す時間が始まる。
――そんな日々を、私は延々と数ヵ月繰り返していた。
そこに変化が訪れたのは、とある初夏の午後のこと。
その日、たまたま調子の良かった私は日用品を買うために外へ出ていた。
安ホテルで独りきりの生活だから、そんなに多くを必要とするわけではない。
近くで事を済ませ、ゆっくり散歩でもしようと小さな雑貨屋に足を運ぶ。
石鹸、シャンプー、気軽に飲める価格帯の紅茶と菓子。
そういう細々としたモノたちを適当に選んでレジに持って行った時に、私は偶然それを見つけた。
数種類の雑誌――それ自体はどんな店でも何の疑問もなくごく自然に目にしていたが
私がそこから視線を外せなくなったのには、一つの理由があった。
そのうちの一つでは、見覚えのある被写体が表紙を飾っていたのである。
色素の薄い髪色と、大きく膨らんだパフスリーブの白に黒のベストスーツ。
私がよく知っていた少女のシルエットと、それはほぼ合致していた。
私の全身が、戦慄と疑問でしばらくの間凍りつく。
私は敢えて、彼女のいるアメリカには近寄らずに日々を過ごしていた。
彼女や彼女の父親を思い出すような行為は、今の私にはひどく酷だったからである。
つまり、ここは彼女の住んでいる国ではない。
なのに、国内ならまだしも遠い国の公務員の写真など、雑誌の表紙に載るものだろうか?
だからそれだけに、その写真が逆に気になって仕方がなくなった私は、怖いもの見たさでそれを手に取って見る。
精密に確認するまでもなく、それは私の知っている彼女――狩魔冥だった。
震える手で雑貨とともにそれを購入し、近くの公園のベンチでそれに目を通す。
記事を読んでわかったのは、彼女が日本に移住したということ、
そして近々日本での初法廷に臨み、不敗記録を更新するつもりでいるということだった。
普通に考えて、日本でもアメリカでもない国の雑誌に載るような内容ではない。
それなのに私は今ここでコレを目にしている――そのこと自体が、非常に奇妙だった。
日本の検事局に私の居場所がばれ、たちの悪い悪戯でプレッシャーをかけられているのだろうか――
そう考えて、私は街中の雑貨屋を回ったが、全ての店の雑誌売場には彼女の顔が必ず一つは鎮座していた。
さすがに、日本の国家機関がたった一人の無力な逃亡者のために
こんな悪戯のために予算を出すわけがないという結論に至る。
それでも彼女の“出現”に動揺した私は、気を紛らわせそうなものを途中で買い込みながら
雑誌を手に、逃げるようにホテルの自室へと潜り込んだ。
改めて何度読んでも、読み取れる内容は変わらない。
彼女は私が失踪してほどなくアメリカを捨て、日本へ移り住んだという。
その中で日本の検事局に移った目的を“revenge”だとし、
その標的である経験の浅い弁護士が次に弁護席に立つ時が、自分のデビューの日だと語っていた。
“revenge”――つまり、復讐。
いったい、彼女は何を考えているというのだろうか。
復讐とは、父の仇を討つということだろうか?
だとしたら、愚かだとしか言いようがない。
それでも私が愚かな仇の娘に対して感じたのは、怒りやそれを通り越した呆れではなかった。
私が彼女に感じたのは、少しの憐憫と、大きな心配。
いったい、彼女に何が起こっているというのだろうか。
彼女と縁のないはずのこの国の雑誌でこんな記事が掲載されているということは、
世界中に彼女の移籍の話がこうして流れているということなのだろうか。
――“私の活躍を世界中全ての人に伝えることができたら嬉しく思います。”
そんな彼女の言葉が、何故か引っかかる。
確かにメイは検事になる前も後も、天才少女として様々な国のマスコミなどから注目され、取材の依頼をよく打診されていた。
13歳で検事になるというのはほぼ不可能に近いことなので、そういう扱いを受けても不自然だとは思っていなかった。
しかし、ここまで自ら進んで、表に出ることはなかったはずだ。
何故ならば、彼女が父親から学んだ法廷戦術は、目立たない方がより完璧に遂行しやすいし、
彼女自身の嗜好として、メディアの傀儡となるよりも、高見からそうしたモノを冷ややかに眺める立場を好むはずだからである。
何より、取材を受ければ受けるほど、その分時間が費やされ、自己研鑽の時間が奪われていく。
そんなことを彼女が喜ぶはずがなかった。それは恐らく、今でもきっと。
出版社としても、今までなかなか取材に応じなかった若き天才がそれを受けたことで、きっと張り切ったのだろう。
数ページの長きにわたるインタビューが、取材中のスナップとともに掲載されている。
これを見ると、彼女はむしろ協力的に取材に応じたと考える方が良さそうだ。
全くもって、私の知っている彼女らしい動き方ではなかった。
愚かな道化とも思える彼女の振る舞いに、私はいくらか彼女を憐れだと思ったが、
それ以上に抱いているのは、先述のとおり心配による不安だった。
表情がまるで知らない人間のようなのだ。
私の知る背伸びのじゃじゃ馬でも、大人たちに見せていた利発な令嬢でも、
父親に甘える少女でも、もちろん二人きりの時だけ見ることの出来た甘いものでもない。
変に開き直って牙を剥き、完全に心が閉じている。
微笑んでいるのに、その眼はちりちりと何かを焼き切ろうとするかのように鋭く輝いていた。
それはまるで、孤立無援で追い詰められた人間のようだった。
――それはまるで、いつかの私のように。
日本への移住、メディアへの露出、殺伐とした表情――
愚かとしか思えない振る舞いと、滲み出る切羽詰まった雰囲気が
彼女が救われぬ深淵にいることを暗示していた。
しばらくの躊躇のあと、私はしばらく手にしていなかった携帯電話を取り出す。
残念ながら私は機械の類が苦手なので、非音声の通信機器による情報収集が不可能である。
だとすると、雑誌などよりももっとリアルで正確な彼女の状況を知るためには、
自ら日本へ戻るか、あるいはそこにいる人間を頼るしかなかった。
突然全てを投げ出して消えた私を、かの地にいる知己たちがどう思っているかはわからない。
ただ恐らく一人だけ、私と会話することを快く承諾し、かつ信頼のおける相手が頭の中で思い浮かんだ。
時差を考慮するのも忘れて、私は久しぶりに手の中の機械の電源を入れとある番号をメモすると
それを見ながら国際電話をかける手順を踏んだ。
拭えない気まずさによる緊張とともに、相手に電話が繋がるのを待つ。
『……あー……はい……誰ッスか?こんな時間に……』
呼び出し音が途切れてしばらくすると、電話の向こうで眠そうな声が不機嫌を表明した。
「私だ、糸鋸刑事。」
『私って言われても、名乗ってくれなきゃわかんないッスよ』
「……御剣だが」
『ああ、なんだ、御剣検事ッスか。
番号が全然違うからわかんなかったッスよ……って!み、』
そこでいったん、刑事の声がぐっと停止する。
不自然な間隙に私が思わず耳を澄ませたとき――
『御剣検事イイイイイイイイイイイイイ!!!!!』
電話の向こうから、大音量の叫び声が私の右耳に襲いかかる。
『生きてたッスね!どこにいるッスか!?何で今まで連絡くれなかったッスか!』
右耳に鋭い痛みを感じて私は携帯を顔から離すが、マシンガンのように語りかける声が大音量で漏れてきた。
「……もう少し、音量を下げて話してほしいのだが」
私がそう依頼すると、元部下の男はすまなさそうに声を上げていた。
『あ、すまねッス。あまりの出来事についコーフンしてしまったッス』
恐らく夜分に突然電話をかけたのはこちらだというのに、相手はあっさりと私に謝る。
私の方は相変わらず自分の非を詫びることがうまくできず、その言葉を流して話をし出した。
「検事局を去った身としては、もう連絡を取るつもりはなかったのだが――どうしても気になることがあって連絡を入れた」
『いやいや、こっちは大歓迎ッスよ!何か忘れ物でもしたんなら、すぐに届けるッス!
あ、もしやっぱり日本に戻りたくなったんなら迎えに行くッスよ!何でも遠慮なく言ってくださいッス!』
相変わらず暑苦しい母親のような親切さで私を受け入れる刑事の言葉に甘えて、
私は言い出しにくいことを、一歩踏み出すような思いで口にする。
「狩魔豪の娘が、そちらにいると聞いたのだが」
すると、はしゃいでいるようだった向こうの空気が、突然張りつめたようなものへと変わった。
『な……なんでそれを知ってるッスか』
「本人が世界に向けて情報を発信しているのだから、仕方があるまい」
『あ……だったら、もう知っちゃったッスね』
私の返答に言葉を返すの声は、非常に気まずそうだった。
『――二代目狩魔検事の、デビュー戦敗訴の話』
「――敗訴、だと?」
私が訝しげな感情を隠さずに訊き返すと、刑事は驚いたような声でうろたえた。
『あ、あれ?知らなかったッスか?」
「私が知っているのは、近々日本で検事席に立つというところまでだ。――もう終わっていたのか」
『つい先週、終わったばっかりッス』
そのまま私は刑事から、綾里真宵の故郷をめぐる殺人事件の話を一通り聞いた。
「相変わらず、ギリギリで逆転勝訴をもぎとる男だな」
『あの子が殺してなかったことが証明されて、自分は正直ホッとしたッス』
私と刑事は和やかにそう感想を述べ合った。
「だが、あのじゃじゃ馬は穏やかではなかっただろうな」
『その通りッス……』
彼女は勝利に固執し続けた父親の影響を誰よりも受けているはずだ。
はじめての敗訴を、事実として受け入れられるものとは思えない。
『あれから毎日ムチのフルコースをお見舞いされて、自分はもう散々ッス』
体格が良く気のいい彼は、メイの八つ当たりの格好の対象となっているのだろう。
私は思わず、彼に労いの言葉をかけていた。
こうして一連の話を聞いた私は、それ以上何かを言うわけでもなく、刑事にぎこちない礼を述べて電話を切った。
狩魔冥の人生は、散々な状態になっているようだ。
父親は殺人の罪を問われ死刑囚となり、多くの信頼と名声を失った。
彼を尊敬していた彼女にとって、それがどれだけ大きなダメージとなったかは想像に難くない。
そして彼女は、父の名が地に落ちているはずの土地に、何故かわざわざ飛び込み、
復讐のため、父の罪を暴いた弁護士に戦いを挑み――経験が浅いはずのその男に、土壇場で場をひっくり返されて敗北。
結果、彼女自身の保持していた無敗の記録と誇りを、粉々に砕かれたというわけだ。
父を殺した男の娘がそんな状況にあるのを知って私に生まれたのは、決して快の感情ではない。
胃が焼けるような、肺が肺が腫れあがるような、内部からの圧迫感。
感情よりも、吐き気に似た身体反応が強く私を苛んでいる。
――君には、できればあまり苦しんでほしくはなかった。
あの真実にダメージを受けているとしても、日本よりは安全で圧力も少ないであろうアメリカで
残された家族と一緒に穏やかに暮らしていてほしかった。
わざわざ自分から傷つきに行くような真似だけは、してほしくなかったのに――
あの人を強く憎んでいるというのに、私はその娘の幸遠き姿に、深く心を抉られている。
憎み抜くことも、大事に思うこともできずに中途半端な思いを抱えたまま、
私は“狩魔”という存在も忘れることができぬまま――
罪から解放されたというのに、これからも過去に縛り付けられ続けるというのだろうか。
真相が判明した後に彼女と再会した時にも、同じことを感じて忌々しく思ったが
あの人がそこまで考えて、子供だった私と彼女を引き合わせ、親密に育つように仕向けたのだとしたら、
これは、この上なく酷い復讐としか言いようがない。
とにかく、一時でもいい。全てを忘れてしまわないと、また私は憎しみに臓物を焼かれてしまう。
そう感じた私は、帰り道で買い込んでいた現実逃避の道具を袋から取り出す。
彼女に狼藉を働いてから、どれだけ不安定になっても控えるようにしていたアルコールを
コップに注ぐことももどかしいと感じ、瓶のまま一気に呷った。
とにかくこの苦痛を忘れることさえできれば、あとはどうなったって構わなかった。
アルコールが浸透してきた頃、最後に深酒をした時の記憶がぼんやりと浮かび上がる。
――あの時は、彼女が身も心も支えてくれていたな。
胸に痺れるような痛みを感じながらも、酩酊した私は驚くほど穏やかに彼女のことを思い出した。
ベッドに寝転んでぼんやりとしていると、あの時のことが頭に浮かんでは消える。
どうしようもなくなった私に、彼女が肩を貸してくれたこと。
彼女が私を心配して、そばにいようとしてくれたこと。
幸福な未来を持たなかった私は、自棄になって彼女の差し出した手を振り払ったこと――
そこまで想起して、私は大事なことに気付き、勢いよく起きあがった。
途中から、自分が覚えていなかったはずのことを思い出しているではないか――!
頭がぐるぐると回り全身が焼けるような感覚が、あの時と似ていたからだろうか。
肩を借りていたところで切れていたはずの記憶の糸が繋がっており
ゆるゆるとそれを引き出すほどに、あの時の記憶が私の手に戻ってくるのだ。
差し伸べられた手を掴もうしなかった私を、それでも彼女は見捨てなかった。
見守っていると、離れても忘れないと約束してくれた彼女がどうしても欲しくなった私は――
――理性を超えて彼女を求め、彼女は何も言わずにそれを受け入れてくれた。
昂った感情が治まった後、痛みで泣き疲れ眠ってしまった彼女を見て、私は後悔した。
7つも年下で十分にそういったアレのことを知らないはずの彼女を、未来のない男が汚してしまったことを。
取り返しのつかないことをしたという後悔と自責が、再び私にアルコールの瓶とコップを握らせて――
恐らくその結果、酔い潰れて目覚めた私は都合良く、なかったことにしたいと願ったことを丸ごと忘れてしまったのであった。
先程、急に勢いよく起きたことで頭が余計にくらくらしていたが、
私は構わず立ち上がり、水道の蛇口の下に頭を突っ込むと冷水で頭を冷やす。
少し頭がすっきりすると、今度は冷蔵庫に入れていたミネラルウォーターをあるだけ一気に飲み干した。
このまま、覚醒しなければ。今度こそ忘れるわけにはいかない。
私が約束を忘れてしまっても、彼女は何も言わずにそれを守っていたのだ。
彼女自身の淡い感情は、報われることがなく
ことある毎に私は彼女を遠ざけようと、はねつけて傷つけたのに。
そして私は、彼女の優しさにも傷ついた表情にすらも、何度となく救われた。
しかし、その事実を彼女に伝えたことはなかった。
しかも私は、そうして与えられたものを、何一つ返せていない。
あれだけ注ぎ込んでくれたものが何一つ報われなかったと感じているのだとしたら、
彼女があんな風に険しい顔をしているのも当然ではないか――!
返していないどころか、私は彼女が幸福から遠ざかろうとするだけの傷を与えたままなのだ。
――けれど、彼女の父親がしたことを思えば、返さなかったことも傷つけたことも相殺で構わないではないか。
狩魔を憎む私の一部が、一瞬心の中でそう叫んだ。
だが、違うのだ。それは違う。
そもそも彼女は、あの事件に加担したわけではない。
世界的に見ると、親の罪をその子供に償わせる風習はいくらでもある。
だが、
彼の罪が彼だけのものとなることを、あの国の司法は決めたのだ。
そしてあの人は逃げることなく、自分の罪を認めて裁きの時を待っている。
父を殺された私の憎しみや、彼を殺した人間が負うべき負債を、彼女が受け継ぐ謂われはないのだ。
私が彼女を憎んでいるとすれば、彼女があの人の娘であるという事実に反応してのことであろう。
もし狩魔豪の娘というレッテルを切り離し、ただのメイという少女について考えるのであれば、
私は彼女に感謝しているし、
今の彼女が心配で仕方がないと感じている。
それに――たとえばあの人が、私があの事件の記憶から解放されても苦しみ続けるような未来を望んでいて
その現実を構成するピースに彼女が含まれているのだとしたら。
メイにあの人の影を見て彼女を憎み遠ざけることは、私がその思惑にまんまと嵌まり
あの事件に捕らわれ続けることを意味しているのだろう。
ならば、彼女を憎悪の対象から外すことによって私は狩魔豪の期待したであろう未来から外れ、
憎しみの澱から解放されるということにならないだろうか。
だとしたら、私は彼女を憎まずにいることは、決して許されざることではない。
彼女を狩魔豪の存在から切り離し、彼女個人を大事に思うことは、むしろ私の未来を幸福な方向につながるのかもしれない――
その答えが導き出された瞬間、私の視界が突然開けたように明るくなった。
彼女のことを今でも愛しているのかどうかは、わからない。
さすがにそこまで深く掘り下げて結論づけられるほど、
あの人の存在を完全に切り離すのは感情の面で容易なことではなかった。
だがそれでも、彼女を見守ってやりたいと思う気持ちは、無理な思い込みでも偽りでもないと思うのだ。
彼女が笑えるようになるまで、昔の知己として陰ながら支えてやることができれば――
その時こそきっと、私自身も救われるような予感がしている。
<おわり>