私の横ですやすやと寝息を立てる彼女を見ていると、
ぎすぎすとした心は少しだけ落着きを取り戻す。
今夜は、朝まで一緒にいることができる。
どんな理由を挙げたのかはわからないが、
彼女は珍しく先生に承諾を得て、私の部屋に泊まりに来ていた。
恐らく私の敗北を知らされていたはずだというのに、
彼女は何も言わずにいつも通りに私と接していた。
気を遣ってくれていたのは重々承知している。
だが、普段なら私に勝負を挑み、遠慮なく私の拙い点を突いてくるはずの彼女だけに
何も言わないということが、事態の深刻さを現わしているようで余計に救われない思いがした。
私にはもう、何もない。
家族はとうになく、それ以降の拠所としていた狩魔の教えも守れなかった。
私の準備に抜かりはなかったが、弁護側の動きを把握しきれなかったという意味では
実力不足であり、落ち度である、ということなのだろう。
しかも、幼馴染が被告席に立つということに私は全く動揺や心苦しさがなかったわけではない。
狩魔のモットーである“完璧”に程遠い心構えで検事席に立っていたことは、確かだった。
先生は、もう私を認めてはくれないだろう。
――恐らく、破門となるに違いない。
そうなれば、同門の仲間であるメイも、離れていってしまう。
師であり父である先生に逆らうという選択肢を持たない彼女は、きっと私を見捨てるだろう。
私には、もう何もない。
家族も、仲間も、師も。
水面下の抗争が絶えない検事局で生きていくための後ろ盾も。
もう、終わりに違いない。
もうすぐ、あの事件の時効がやってくる。
逃げ切れるか、逃げ切れないか――
何も支えがない場所で、大きな不安を抱えねばならない。
私には、もう、何もない。
縋るべきものも、未来も、何もかも――
絶望的な思いの中で、私は隣で眠るメイを見る。
何も知らない彼女は、私に寄り添って心地よさそうに身動ぎした。
まだ彼女は、私のそばにいてくれる。
だが――近いうちに、いなくなってしまうだろう。
私には、何もない。
――そう、何もないのだ。
今の私はたとえ何をしても、もはや失うものがない――
そのことに気がついた私は、ゆっくりと彼女に手を伸ばす。
私が首筋に手を当てても、彼女は無防備に寝息を立てるだけだった。
――彼女がどこへも行かないように、手に入れてしまえばいい。
私は彼女の上に跨ると、もう片方の手も彼女の首元に添える。
――彼女を、永遠に、私のものに。
どうせもう、私は一人殺している――よりによって、大好きだった父を。
すでに私は狡猾な殺人者だ。もう一人増えたところで何の変わりもない――
さまざまな想念が渦巻く中、私は前方に身を乗り出した。
はっきりしていることは、ただひとつ。
――どうせ手に入らないのであれば、今、この手にかけて自分のものにしてしまえばいいのだ。
そうして私が手に力を込めようとした、その時。
「ん……っ」
メイが、首を捩って薄目をあける。
その声と、一瞬光を反射した瞼の中の眼が一気に私を正気に戻し――
気がつくと彼女から飛び退き、ベッドから落ちて壁際で無様に尻もちをついていた。
「レイ、ジ……?」
むくりと起き上った彼女が、眠そうに眼をこする。
だが、それ以上何を言うでもなく、私の姿を見つけた彼女は
安心したような表情で手を顔から下ろすと、再びぱたりとシーツの上にうつ伏せになって倒れこむ。
相変わらず私は、戦慄から身動きが取れず、ただひたすら彼女を凝視していた。
すると、若干不機嫌そうな小さな唸り声とともに彼女が体を丸めて、しばらくして起き上がる。
のろのろと私に歩み寄ってきた彼女は、ぼんやりとした寝顔のまま私の顔を覗き込み、
そのままぺたりと私の前に座り込んだ。
「もう、限界だわ。――私をベッドに連れて行きなさい。」
――無理なんだ。
力が入らなくて、動けない。
何も言えずにいる私を、眠そうな彼女が覚醒時よりも素直に案じてくる。
「いつもの夢を、見たの?」
――そうじゃない。
私が見たのは、もっと恐ろしい白昼夢だ。
何も答えられない私を見て、彼女はうつらうつらとしながらも困ったような表情を浮かべた。
「――仕方ないわね」
彼女は手を廻して、私を背中ごとぎゅっと抱きしめる。
温かい体温が、凍りついたままの私の心身を溶かしていく。
ようやく動くようになった両腕を彼女の背中にまわして抱きつくと、彼女が穏やかに笑う音が聞こえた。
「落ち着いたら、ベッドに連れて行くのよ。」
そう言ってより強く私を抱きしめた彼女の指から、だんだんと力が抜けていく。
次第に私の耳元を、小さな寝息がくすぐるようになった。
体の自由を取り戻して、言いつけ通り彼女をベッドに寝かしつけながら、私は強く思った。
――もう、彼女とは一緒にいられない。
時効が近付き、私の精神はかなりの変調をきたしている。
その最中に起こった、今回の敗訴。
何度も思った通り、私には破滅の予感ばかりが纏わりついている。
自分でも、自分がどうなってしまうのかがわからなかった――この先のことも、私自身の精神も。
それを不安に思うたび、彼女を巻き込んで傷つけるのがとてつもなく恐ろしかった。
――彼女には、私の分も幸せになってもらわなければ困る。
だから私は、彼女を捨ててしまおう――捨てられるより先に、そうしてしまった方がいい。
私は彼女の横に寝そべり、両手を隙間に入れて彼女の体を抱きしめる。
ちょうど良い体温が、血の気が抜けたままの私の身体を温めてくれた。
――この温もりを覚えておこう。
彼女はここから先に連れていくことができないから、せめてこの温もりだけは記憶に残して連れていく。
最後の瞬間まで、それを拠所に生きていこう。
それが私に残された、唯一の救いに思えてならなかった。
私は、彼女に対する思慕を短い言葉で囁く。
眠ってしまった彼女に届くはずもないそれは、ほんの一瞬で部屋の空気の中に溶けていった。
<終わり>