「未来なき幸福」

 

見慣れない広さの部屋に、見慣れない照明器具。
いつもと寝心地の違うベッド。

馴染みのない環境で、腕の中に在るモノだけがしっくりと私の五感に馴染んでいる。 

急にアメリカへの出張が入ったので、私はそちらで暮らすメイに連絡をとった。
彼女は多忙のようだったが、私が訪ねると時間を作って自宅に招いてくれたのである。

そのため私は久々に、こうして彼女と二人きりの時間を満喫しているのだった。

私たちは日本で会うことが多く、互いの立場の保全を考慮して、逢瀬は私のマンションのみと決めていた。
そのため違う場所でこうしているのは、なかなか新鮮で面映ゆい思いがする。
それが、彼女が普段暮らしている場所だと思えば、尚更のことだった。

腕に抱いた彼女は、いつもの事後と同じように、ゆらゆらとまどろんでいる。
より疲れて見えるのが、いつもと違うところだろうか。
昨日は徹夜で仕事をしていたと言っていたから、今も相当眠いものと思われた。

明日の朝には互いに自分の仕事へと戻らねばならないので、私たちに残された時間は少ない。
だからなのか、彼女は眠らないように時折無理に目を開けながら、私と他愛無い話を続けている。

表面には出していないが、私は久しぶりの逢瀬を愉しんでいた。
しかし一方で、彼女が寝不足で身体を壊すのではないかと心配で仕方がない。
何とはなしに、私はまるで自分の存在が彼女の負担になているようだと感じた。

だからだろうか――私は気がつくと、この場にそぐわないことを口にしていた。

「話は変わるが――この関係は、いつまで続けるつもりだ?」

私と彼女が「男と女」の間柄になってから、かなり長い時間が経過している。
少なくとも当初はあどけなかった彼女が、完璧な淑女に見えるくらいの時が過ぎていた。
――中身は相変わらず気性の激しいじゃじゃ馬だったとしても。

そしてその間、以前は女性関係で落ち着いているとは言えなかった私が、
自分でも驚くほど落ち着いて、彼女との関係のみを続けている。
それくらい、彼女の存在は私の心身にしっくりと馴染んでいた。

ただそれでも、私は事あるごとに、彼女を突き放そうとする言動を止めたりはしない。

すっかり大人びた彼女は、私の言葉を受けてまたかと言いたげに溜息をつく。
それから肩越しに私の顔を見遣って、可哀想なものでも見るような笑みを浮かべた。

「半年会わない予定だったのを、2ヶ月で音を上げた男がしゃあしゃあと言うセリフではないわね」
その言葉に、私は喉の奥をぐっと鳴らすしかなくなった。

彼女の言う通り、私達は本来ならこうして触れ合える距離にはいなかったはずなのである。

今まで、メイはスケジュールを調整して、ひと月からふた月に一度は来日していた。
父親に会いに来た彼女は、「そのついで」と言いながら私にも会っていくのだ。

ただ、2ヶ月ほど前、私に電話をかけてきた彼女はこう言った。
“半年ほど、どう考えてもアメリカから出られそうにない”と。

明言はされなかったが、電話口から伝わるそわそわとした空気から
どうやらメイは大きな仕事を任されたようだと感じられた。

同業の彼女が成長していくのは、嬉しく頼もしいことである。
そう思った私は、すんなりと彼女の知らせを了承した。
これはつまり、少なくとも半年間は彼女に会えないということだったが、私は些事として捉えていた。
半年など、すぐに経過するだろうし、うまくいけば、この捩じれた関係を終わらせることができるのではないかと。
 
 
だが、現実はそうではなかった。

彼女がしばらく来日しないと知ってひと月ほど経過すると、私は心許ない気分になることが多くなったのである。

もともと、私の精神は安定しているとは言い難い。
過去の記憶と――それに由来する毎夜の悪夢と寝不足は、確実に私を蝕んでいる。

メイは時折、私の状態を横文字の長い言葉で呼び、遠回しに治療を勧めてきた。
ちなみに糸鋸刑事も、似たような覚束ない言葉を出して、もっとストレートに医師を勧めてきたりする。

だが、私はそれらに応じたことがない。
彼らも多分理由をわかっているから、強く勧めてはこなかった。
完璧な狩魔の人間が、精神的な事について助けを求めるなど、恥以外の何物でもない……ということを。
メイはわが師匠の娘だから、そのことを尚更よく理解していたはずだと思う。

さて、話を戻すが――私は、どうしても彼女に会いたくて仕方がなくなったのである。
情緒が不安定になると彼女に会いたくなる傾向は子供の頃からあったが、
彼女はどんなに少なくても一季に一度は来日していたので、少し辛抱すれば彼女に会うことができた。

だが、私が不安定になり始めた時点で、半年のうち1ヶ月しか経過していなかった――つまり、残り5ヶ月は待たなければならない。
しかも彼女は、次にいつ来れるかを明言していないので、全く見通しを立てられない状態だった。

それでも何とか日常生活を続けていたが、2ヶ月を待たずして私は限界に達した。
せめて1ヶ月以内に会う見通しが立たないと、どうしようもない――そんな精神状態である。

どんな状態になっても仕事を完璧にこなす自信はあったが、
気分の不安定と寝不足が相まって不注意になり、壁に頭をぶつけたり
買ってきたばかりの紅茶の葉を床にぶちまけたりと、日常的な部分では散々な日々が続いた。

そこに降ってきたアメリカへの出張の話を二つ返事で受けたのは、当然のことと言わざるを得ない。
 
 
腕の中の彼女は、言葉に詰まった私を空気を背中に受け、ふわふわとまどろんで笑っていた。

「たまたまだ。たまたま、私以外にこちらに来れる人間がいなかったから来たまでだ」
私がしどろもどろになりながら言い返すと、メイはふっと小悪魔のような笑みを浮かべる。

「そんなに一生懸命弁明するなら、そういうことにしてあげるわ」
「――ご理解いただけたようで、何よりだ」
 
「だが、いつまでもこのままでいいわけがないだろう?」
続けざまに私が問いかけると、彼女は相変わらず眠そうに言葉を返してきた。

「初めに言ったけれど、コレは節操のない弟弟子の……素行を正してるのよ」
さっきまで楽しそうにしていた声は、“姉弟子”らしいツンとしたものに変質している。
「私が“もう大丈夫”だと思ったら、その時に終わりにしてあげるわ」

以前、私は精神安定剤代わりに人肌を求め、素行の良くない女性関係を続けた。
彼女がそれを快く思っていなかったところに
酩酊した私が彼女にまで「節操のない」行為に及んだことが、この関係の発端となっている。
この発端に関する部分が更生されるまでは、どうやら彼女は関係を続けるつもりらしい。

ただ、彼女が続けて発した音は、この問題がそれほど単純なものではないことを暗示していた。
「だから――自由になりたいなら、ちゃんと私を安心させなさい」

彼女が問題視している私の行動は、私の精神の不安定さに起因している。
つまり、彼女を安心させるには、私はその部分を何とかしなければならないのだ。
恐らく彼女はそう考えているのだろうということが、声のトーンから伝わってくる。

だが、残念ながらそれは永遠に無理だ――私は心の中で即答した。
あの記憶から解放されるような奇跡でも起こらない限り、私は“大丈夫”になどならない。
そしてそんな奇跡は、きっと一生訪れない。

私は、しばらく会えないと禁断症状のようなものが起こるくらいに、メイに依存しているらしい。
「依存」とはあまり良いイメージのない言葉だが、
彼女に懸想する私にとっては、そこに大したデメリットはない。

薬物や嗜好品に依存するよりもよっぽど安全な―ー“幸福な依存”だ。
だから、私は一生このままでも何の問題もない。むしろ、その方が嬉しい。

だが、彼女にとって、このまま続けることが良いなどと、私は思えない。
それに、恐らく彼女は、心配な弟弟子の面倒を見るために
無理やりスケジュールを調整して、本来望んだ以上の来日を繰り返していたのだと思う。
つまり、自由を奪われているのは、実はメイの方だということだ。

「私はこれ以上変われない。更生させようとしているのならば、無駄なことだ。」
私が正直にそう申告すると、彼女は別段困った様子もなく、さらりとこう言った。
「じゃあ……ずっとこのままね」

「“ずっと”と言うが、君はこの先どうするつもりだ?
  いつか、君がパートナーを見つけて、結婚することになっても、こんなことを続けるというのか」
私が尚も言い募ると、彼女はうーんと眠そうな唸り声を上げてからそれに応える。

「ああ――その点は気にしなくていいわよ」
相当頑張って起きているのだろう。
その言葉はだんだんと、いつもほど呂律の回らないものになっていく。

「私、恋愛に特に興味ないし、結婚する気も、ないから……」
その意向は、初耳だった。

「それでは、君の次に狩魔を継ぐ人間がいなくならないか?」
「ウチは世襲じゃないわよ。……私は望んだからこうなっただけの話で……」
――これも私の知らないことだった。
もしかすると彼女は、眠さに負けて普段言わないようなことを口にしているのかもしれない。
その予想が的外れではないと確信したのは、その後の彼女の言葉を聞いた時だった。

「だからたぶん」
とろんとした目を更に蕩けさせて、彼女は私の腕の中でほんのりと微笑んで言葉を続ける。
「私にとって、レイジがただ一人の男になると、思うわ……」

普段なら絶対に口にしないような甘い言葉をゆっくりと吐き出しながら、彼女は眠りに落ちていく。

私の腕をぎゅっと抱いて、幸せそうな表情で眠る彼女を見ているうちに
私はある一つのことを実感した。
それは、今まで何となくそんな気がしていたが、
確信もないし、敢えて深く考えないようにしてきたことである。

どうやら彼女は、私のことを憎からず思っているようだ。

私に他の女性の影が見えると不機嫌になり、
私が彼女をそのような対象から外していることを告げると、傷ついた表情をして怒った。
恋人同士でもないのに、「更生」名目で私とこのようなことを続けているにも拘らず
彼女の方は変に摩れた様子もなく、この関係を楽しんでいるかのように見える。

極めつけに、幸せそうな表情で「ただ一人の男」などと言われてしまっては
もう認めてしまうしかないだろう。

私たちは、互いにとって互いが「唯一の相手」――
何の確認もなく、約束などしていなくても、想い合っているのだということを。

もしかしたら、メイも私のことを好きでいてくれるのかもしれない、と
彼女のふとした表情から思うことは、これまでにもよくあった。
彼女が天邪鬼だということを理解してよく見ていれば、彼女はとてもわかりやすい。

つまり恐らく、私はずっと彼女の気持ちに気付いていたのだと思う。
だからこそ、彼女を異性として見ていないような態度を取り続け、
一方で、彼女を異性ではない身近な存在――妹として近くに置き続けてきたのだろう。

本音の部分では、私は彼女と何らかの絆でとにかく強く結ばれていたかった。
私の一方通行ではなく、彼女の方からも私との絆を強く求めて欲しかったのだ。

私の感じている彼女からの思いが、愚かな的外れではないとしたら
その中途半端な扱いで、まだ若い彼女をより混乱させていることだと思う。

――それでも、私はこれからも、今までと同じように知らぬ振りをする。
むしろ、わかっていながら突き放すことさえするだろうと思う。
 
 
悪夢は未だに薄れることなく、毎日のように私を苛んでいる。
揺れる足元、薄れ行くように感じた酸素、閉所の圧迫感、初冬の寒さ、争い合う大人の声、
そして――己と家族に忍び寄る、死への恐怖。

それら全てが、子供に返った夢の中の私を襲いかかる。

しかし私にとって恐ろしいのは、それだけではない。
もっと恐怖すべきものが、その先にある。

――「父を殺したのは、私なのかもしれない」という疑念。

私が混乱の中投げたあの鉄の塊は、大きな破裂音を放ち、誰かが断末魔のような声を上げた。
そして、あの密室の中、父と口論をしていた男と私には特筆すべき外傷はなく、
父は、拳銃の弾に撃たれ死亡している。

状況から考えて、父を殺した可能性が一番高いのは、私なのだ。

認めたくない。認めたくないが――あの悪夢は毎夜私に知らしめるのだ。
――父を殺したのは、お前自身なのだと。

それなのに私は、父を殺され天涯孤独の身となった憐れな子供として振る舞い
父を殺していないかもしれない男を、心の中で無理やり殺人者に仕立て上げ、憎んだ。
――「私は殺していない」ことを前提とすると、父を殺せたのはあの男だけだから。

そして私は、その男を無理やり無罪にねじ込んだ弁護士に失望した。
自分の罪を必死に否定し続けた当時の私は、
弁護士が父を殺した男を庇い守るような仕事でもあると思い知って
被害者遺族として納得のいかない結末をもたらし得る「弁護士」に憎しみを感じたのだ。

ただ実際には――男は本当に殺していないかもしれないのに、
あの弁護士は「殺していない」という彼の言葉を信じなかった。
その上、彼の将来が壊されることもわかっていながら
「殺したかもしれないが、心神喪失状態のため責任を問うことは妥当ではない」
という趣旨の判決をもぎ取ったことも、大きく影響しているだろうと思う。

ちなみに霊媒師をインチキだと思うのも、父を殺した本当の犯人を告げなかったから。
父ならば私が殺したことを知っているはずだし、虚偽の証言をするわけがないのだ。

とにかく私は、あんなに慕っていた父を殺した上、父を殺された憐れな子供の皮をかぶり続けた。
そして、自分の罪はひた隠しにしながら、罰されるべき自分の代わりに罪人たちを断罪する――
そんな卑怯な大人へと成長した。

今の私では尊敬していた父に、顔向けができない。
また、昔の私を信じて手紙をくれる幼馴染がいるが、
彼に対してもあまりの恥ずかしさから、返事を出すことができない有様だ。

――それくらい罪と矛盾に満ちた人間に、誰かを幸せにすることができるのだろうか。

彼女に触れるたび、愛しいと思うたびに、私は彼女に愛されたい、幸せにしたいと思う。
だが、どちらも無理なのだ。

仮初のものであれば、可能なのかもしれない。
しかし、生涯を通じては、絶対に無理なことだと思う。

DL6号事件はすでに判決が下り、いったんの決着はついている。
しかし、だからといって絶対に安心できるものでもない。
小さなきっかけから大罪が露見するということなどよくある話だ。

姿を消した、あの冤罪かもしれない男が再び姿を現すかもしれない。
あの男は間違いなく、心神喪失状態などではなかった。

恐らく彼は、人生をめちゃくちゃにした私のことを恨んでいるだろう。
このまま黙って何もせずに終わるなど、あり得ないはずだ。

今の私はそれなりに社会的地位があり、それなりに敵も多い。
あの男が現われて「御剣怜侍は父親を殺した」とでも言いだせば
世迷言とは思いながらも秘密裏に調査を始める人間は何人かはいるはずで――
そこから真実が暴露されるかもしれないのだ。

時効前であれば、私は法に則って裁かれるだろう。終着点は奈落の底かもしれない。
時効後であっても、私が罪人を裁く立場である以上、社会的制裁は免れないはずだ。

どちらにしろ、私にはこの先、高い確率で破滅が待っている。

あの男の恋人は、自殺したと聞いている。
殺人の罪は、殺人者だけではなく、その周りの人間にもそれほどのダメージを与えるものなのだ。
ましてや、メイは私と同じ検事だ。彼女の検事としての未来にも影響を及ぼすかも知れない。
それに彼女は、今までの私の振る舞いと真実を照らし合わせて、私に対して心から失望するだろう。
どう考えても、彼女と幸せに手を取り合う未来を予想することは不可能だ。

それに、相手がメイであってもそうでなくても――
例えばもし将来、万が一にも結婚などしていたら、私と結婚した女性は「殺人者の妻」となる。
その場合は離婚してしまえばいいのかもしれないが、もし子供が生まれていたら――
たとえ戸籍を弄ったとしても、その子が「殺人者の子」であることは
――その血を引いているという事実は、変えることができないのだ。

だから、私には誰とも結ばれることはできない。子孫をつくることもできない。
その相手が幼い頃からの大事な存在であれば、尚更のことだ。

だから、彼女が私の愛情を求めていることを知っていても、私が彼女をどれだけ想っていても
私達がこれ以上踏み込んだ関係になることは、絶対にあり得ないのだ。
 
 
時効まで、すでに1年を切った。
そろそろメイとの関係を切らなければ――そう思いながら手放せずにいる自分は
相変わらず卑怯で罪深い人間だと思う。

彼女の甘い表情に幸せを感じるくせに、私はあまり彼女に笑わない。
私に近付こうとする彼女をわざと突き放したりもする。
傷ついた表情に思いの丈を感じて喜び
不安でしがみついてくる、その手の強さと温もりに癒されてきた。

私が彼女にしていることは、ずるくて残酷だ。
まともな感覚では、きっとできるはずもないことだ。
――そう、きっと私はまともな人間ではないのだろう。

腕の中にいるメイの頬を突いてみたが、彼女は既に眠りに落ちていて、何の反応も示さない。
「君は完璧を良しとするはずなのに、男を見る目は、限りなく悪いな」

決して振り向くことのない卑怯者の腕の中で、日頃見せないあどけない顔で寝息を立てている。
そんな彼女が哀れで、それ以上に愛しくて
私は彼女を起こさないように気をつけつつ、その華奢な身体を包み込むように抱きしめた。

ただもう少しだけ、幸せな夢を見ることができたら――
そう思って私はこれからもきっと、彼女との関係をズルズルと続けていくのだろう。

 

<おわり>