検事局のロビーの片隅にある、ソファと自動販売機が設置された一角。
非常階段に近いそこは、時折手の空いた刑事たちの休息の場となる。
今日も数人の刑事たちが、缶コーヒーを片手に「鬼の居ぬ間の洗濯」に勤しんでいた。
職場での愚痴などを面白おかしく話していた彼らだが、そのうちの一人の発言で話の向きが変わったようである。
「お、見たことのないお客さんがいる」
玄関の近くに、黒のベストスーツを着た女性が立っている。
「検事かな――だがそれにしちゃ、若いが」
「いや、むしろそこそこの立場の人みたいだぞ」
検事局長と向かい合い会釈や握手など交わしていることから、そう推理したのだろう。
別の刑事が眼を凝らしてじっと女性を見つめる。
しばらくしてから、彼は再び口を開いた。
「ああ、狩魔検事の娘だな。アメリカで検事をしてる――」
――見事、正解だ。
狩魔検事の令嬢は、数日前から通訳を兼ねてアメリカから視察に来ていた。
すると、それを聞いた刑事の一人が、納得したように声をあげる。
「ってことは、アレか。御剣検事の許婚とかいう」
「そうそう、それそれ」
「……え、御剣検事に婚約者がいたのか?」
根も葉もない噂話に、輪の中の一人が食いついた。
どうやら、他の数人も息を呑んで続報を待っている様子である。
「狩魔検事にゃ娘しかいない。だから御剣検事が婿養子で後継者になるんだろ」
「へえ、そうなのか」
「一時期、色違いで揃いのスーツを着てただろ。あんなのを許してるのがその証拠じゃないか」
誰かがそう言うと、何故か全員が何かを思い出したかのようにクスクスと笑い始めた。
しばしの時間と共に笑いが収まると、また誰かが実しやかに噂の根拠となる材料を投げ入れる。
「それに、あのムッツリの御剣検事が、あのお嬢ちゃんの前だけ人が変わったように笑っているからなあ」
「つまり……本人達も了承済みってことか。」
「だと思うな」
話はここで途切れるかと思われたが、また一人、何かを思いついたかのように口火を切る。
「しかし、御剣検事もまだ若いが……あの嬢ちゃんは……」
その発言に、その場は妙な空気に包まれた。
「……こりゃ、犯罪だな」
「……全くだ」
彼らが声を落として頷き合ったその時、鋭い音が彼らの足元に響く。
一斉に振り向くと、そこには噂の中心人物が両手に鞭を握って立っていた。
高慢で鋭い視線が、一人一人の刑事をじっと睨みつける。
「……そこ、邪魔よ。バカらしい話をしている暇があったら、そこを退きなさい。」
蜘蛛の子を散らすように逃げていった刑事たちは、知る由もない。
狩魔の娘が進もうとしていた先――彼らの近く、死角に当たるソファに
噂の「御剣検事」が、「許婚」とやらを待つために、ひとり佇んでいたことなど……。
「全く、くだらない話をする暇があったら局内の掃除でもしていたらいいのよ!」
パパの職員名簿で名前と所属を割り出して、職務怠慢でアメリカから揺さぶりをかけてやる――
などと息巻く助手席の彼女を、私はちらりと窺い見た。
私の視界からは捉えることができなかったが、どうやら彼女は先程の噂話をそれなりに聞いていたようである。
「第一、狩魔の後継者は私よ!こんなショボい婿養子なんていなくても、立派にその名を守って見せるわ!」
ギチギチと鳴る鞭が、彼女の苛立ちを如実に表現している。
隣で車を運転する「ショボい婿養子」――もとい、同門の弟子である私は
彼女とは違う思いを抱いて先程の噂話を回想していた。
「だが、……いつまで、こんなことを続けるつもりだ?」
彼女のボルテージが少し落ち着いたところを見計らって、私は思っていたことを問いかける。
すると彼女は先程とは打って変わって、私と同じくらいの落ち着いたトーンでその問いに答えた。
「いつかは終わるでしょうね。でも、それは今じゃないわよ」
「だが、ああいう噂を立てられた以上、騒ぎになる前にケリをつけるのが賢明だろう」
そう主張するも、メイは私の意見に同意するつもりはないようだった。
「あの手の噂は、気にする必要ないわよ」
「だが、もし先生の耳に入ったら――」
先生は秘密裏に調査するだろう。私の知っている限り、その可能性が高い。
だが、彼女は全く動じていなかった。
「この件に関しては、パパはたぶん動かないと思うわよ」
「まさか。こんな醜聞を先生が見逃すはずが」
私が食い下がるからだろうか――明らかに不機嫌さの増した声が、助手席から私の鼓膜を突き刺した。
「……このことについては、パパはきっと気にしていないはずよ」
「どうして、そんなことがわかる?」
それに対する彼女の返答は、意味不明だった。
「レイジが声変わりする前から、いろんな人間が言ってきたことだもの。今更よ。」
「――どういうことだ?」
意味を掴めず私が聞き返すと、メイがあからさまに呆れたような溜息をついた。
「こっちの家の家政婦たちとか、台所でよくそういう話をしてたわよ。
……パパが未来の婿養子を連れてきた、とかね。」
あまりに飛躍した作り話に、私はしばらく呆気に取られ、危うく運転を忘れそうになった。
「そんなの、初耳だ」
「英語圏から来た幼児だからって、言葉が通じないと思っていたのかしら……
私の聞こえる場所で世間話をするバカが結構多くてね。私は何度も聞いたわ」
よほど嫌な記憶らしく、彼女は忌々しげに吐き捨てた。
「あまりにもウンザリで、パパに貴様を追い出すように頼んだこともあるくらいよ」
「そう、だったのか……」
思ってもみなかった昔話に、私はそれ以上気の利いた感想を述べることができない。
しばらく間をおいてから、黙り込んだ私の横で彼女が大きく息を吐く音が聞こえた。
「パパからは、婿養子など根も葉もない話なのだから聞き流すように……と言われているわ。」
だからこの期に及んで改めて調査などしないはず――彼女は自信たっぷりにそう言い切った。
「――そうだわ。書店に寄ってくれるかしら?」
先程の話題はもう終わりとでも言いたげに、メイが私にそう問いかける。
彼女の意向が定まっている以上、話を続けても彼女の機嫌を損ねるだけだろう――私はそう判断した。
「構わないが――何か、欲しい本があるのか?」
そう尋ね返すと、彼女はとある和書を挙げる。
その本は、前回の来日の帰り際に彼女が欲しがっていたものだ。
「それなら、私の家にある。寄って持って行けばいい」
「――そうなの。じゃあ、お言葉に甘えようかしら」
私が何気なく家に誘うと、彼女は済ました声色で――だが少しだけ楽しそうに、そう答えた。
和書や邦画のDVD、紅茶や緑茶や甘い和菓子――
去り際に彼女が欲しがった品を用意するのが、私の習慣となっている。
そして、再来日した彼女がそれを求めたとき、私はその品を持っていることを告げ、家に誘う。
これはお互い相談したわけではなく、暗黙のうちに確立された合図のようなものだった。
あれからも、私は変わらずこの土地で検事を続け、メイもアメリカで同じように走り回っている。
変わったのは、メイが日本に来る頻度が上がったことだ。
今までどおりの休暇に加えて、アジア方面への視察や会議などの帰りに、週末だけ寄ったりすることもある。
彼女は一回の来日につき、たいてい一度は私のマンションにやってくる。
それは昔からそういうもので回数が極端に増えたわけでもなく、以前と比べて特に目立つことはないはずだ。
ただ、彼女の来訪が先生の多忙な日と重なるようになったのは――重要な変化だと、私は思う。
私が鍵を開け扉を開くと、メイは自然な動きで玄関に入っていく。
そして、その後ろ姿を眺めながら、私も部屋に入り鍵を閉める。
「メイ」
呼びかけると、彼女は玄関と廊下の境界線で止まったまま、不機嫌そうに答えた。
「わかっているわよ。靴は脱ぐんでしょう?」
本来の習慣とは違う行動をとろうと、彼女は面倒くさそうに肩を落として180度向きを変える。
それほど広くない玄関で、向かい合った彼女が少しだけ身体を屈めて自分の足に手を伸ばした。
体温がわかるのではないかと思うほど、彼女の上半身が私に近付く。
彼女の空気を肌で感じた途端、私の心臓が数度跳ねた。
靴を脱ぎ終わり顔を上げた彼女は、私と目が合うと、何かに思い至ったような表情をする。
そのまま彼女は、私の肩に顔を近づけ――そして数秒もしないうちに悠然と離れた。
慌てふためく私のことなど気付いていないかのように、彼女は小さな声で呟いた。
「レイジの、匂いがする」
少し瞼を伏せ、ご機嫌な様子でメイが笑った。
その表情は艶やかで、声は砂糖のように甘くて――私を更に落ち着かなくさせる。
誰にも邪魔されない、ふたりだけの空間だからだろうか――彼女の態度が、少し無防備に感じられた。
「ちゃんと、約束守っているのね」
満足げな笑顔を見せると、メイはさっさと板張りの廊下にへ上がった。
その姿を見ながら、私はただ立ち尽くす。
日常では――少なくとも廊下にいる時には感じない全身のざわめきに、私はひどく動揺していた。
心臓が早鐘を打ち、全身が強ばり、体温が恐ろしく上昇しているのがはっきりと感じられ――
次の瞬間には、本能的な動きでメイの腕を掴んでいた。
そしてまるで、それ以外の動きを知らないかのように彼女の手を引き、
もう片方の腕で華奢な肩を白い壁に押し付ける。
「ちょっと、――痛いじゃない!」
メイは眉を顰め、咎めるような声をあげるが――私は見逃さなかった。
彼女がほんの一瞬だけ、怯えたような表情を見せたことを。
いつもならば守ってやりたいと思うはずのその表情が、今は全く別の欲求を刺激する。
――もっと見たい……暴きたい。
普段の取り澄ました姿ではなく、その虚勢に覆い隠された、臆病で素直な彼女を――
「……レイジ」
私の腕で壁に押さえつけられた彼女が私に投げかけた声と視線は、私を我に返す。
高揚したままの神経は私の表情をそのままに留めていたが
内心では、自分の無意識の行動に狼狽する他なかった。
――違う、彼女に無体なことをしてはならない。大事な、妹のような娘だろう!
理性の部分が、冷静になろうと私の中で普段の認識を取り戻そうとする。
だが、それはもう今更のことだ――そう反論する本能に、言い返す言葉がない。
私たちは、もともと血が繋がっているわけでもなく、もはや清らかな関係というわけでもない。
どれだけ取り繕って「兄」のままでいようとしても――やはりもう、仕方がないのだ。
“あのムッツリの御剣検事が、あのお嬢ちゃんの前だけ人が変わったように笑っているからなあ”
刑事たちの一人が言っていたことが、不意に脳裏で響く。
私は全く笑わない人間ではないが、彼女の前にいる時に良く笑っていることは確かだ。
必死に背伸びをする姿に思わず頬が緩んだし、彼女の前では素直に心を許すことができた。
それはあくまで彼女を妹のように、そして志の近い友人だと感じているからのはずだ。
そう……こんなに生々しい感情ではなく、もっと清らかなものであるべきで――
「レイジ――どうしたの?」
葛藤によって動けなくなった私を心配するように、メイが私を覗き込んだ。
澄んだ青の虹彩に、私はあっさりと意識を捉えられる。
私の身体は再び吸い寄せられるように彼女に近付き、押し付けるように彼女の唇を貪った。
――ああ、そうか。
その温度と感触に安堵と高揚の両方を呼び覚まされ――私は突然あることに気が付く。
私は彼女のことが愛しいのだ……と。
清らかなままでいてほしい――せめて、これ以上汚れてしまわないように。
手に入れてしまいたい――汚しても構わないから。
一見相容れない思いだが、その二つは私の中に同じ位の強さを持って存在している。
ただ、彼女に抱く相反するこの願いは、同じ気持ちから生まれているのかもしれない――
そう考えると妙に腑に落ちる自分がいた。
――だが、それならば……いつからだ?そのきっかけは?
一応の納得はしたものの、次々と私の頭の中に疑問がわいてくる。
――私はずっと、そのような感情に淡白だったはずではなかっただろうか?
どんな女性といても、巷で言われるような激しく燃える思いにはならず
相手が去っても、特にダメージを感じなかった。
情の欠如した人間なのだと思い、そのことに打ちのめされることはあったが
どれだけ頑張っても、「この人こそ」と誰かを思うことは出来なかった。
ただ、今隣にいる彼女が、もし私から離れていったら、私は相当痛手を追うだろう。
もしかすると、見苦しくてもそれを防ごうと足掻くかもしれない。
――この感情全てが、「愛しい」というものなのだろうか?
彼女に対する思いは、妙な関係が始まる前後を考慮に入れても、これまで特に変化がなかったような気がする。
これが愛情というのならば、私はいつからメイを想っていたのだろう――?
名前の無かった複雑の感情の正体を掴むことはできたようだ。
だが、そうして手に入れた真実を前に、私の頭の中はますます混乱を増していった。
「……っ」
堪え切れずに発されたような小さな鼻声が、混迷する私の思考を突如、現実に戻す。
ずっとキスを続けていたことに気が付き、私はゆっくりと身体を離した。
視線を合わせると、メイは顔を真っ赤にして困ったように睫毛を伏せる。
その表情がますます私を昂ぶらせ――私は全ての思考を放棄して、彼女の首筋に噛み付いた。
<おわり>