ぼんやりと開いた双眸が、あどけない光を反射する。
「……レイジ」
寝起きで掠れた声が、小さく私を呼んだ。
「そんな格好で……何を、してるの?」
私の持つ肌色を見える範囲で一通り眺め、メイはゆっくりと起き上がる。
状況を把握していないのだろう。
ぱさりと音を立てて、彼女を包んでいた布が膝の上に舞い落ち
白い肌の大部分が昨夜の跡を残したまま顕になっても、彼女は眠そうに手を瞼に寄せるのみだった。
対照的に私は少なからず動揺し、しばらく居所を探して視線を彷徨わせる。
「……どうしたの?」
不思議そうにそう尋ねた彼女は、私の視線をしばらく追ってから
何かを感じた様子で自身の身体に目を落として――
「きゃあっ!」
常々意識して低めのトーンの声を出している彼女には珍しい、黄色い悲鳴が部屋に響く。
ずり落ちたシーツを肩まで引き上げて、メイは真っ赤になって私から顔を逸らした。
しばらく気まずい沈黙が部屋を支配し、少なくとも私はいたたまれない思いでその場に硬直した。
取調べ中の黙秘などで、沈黙には慣れているはずなのに
数分すらも耐えられず、私の方からその空気を破ることにする。
「その……すまない」
ベッドに胡坐をかいたまま、目の前の彼女に手をついて頭を下げた。
「私はどうやら、君に対して取り返しのつかない狼藉を働いたようだ」
その言葉に、外方を向いていた彼女がぴくりと頬を震わせてこちらを向く。
「働いた、“ようだ”?」
怪訝そうに私を見る彼女と視線を合わせることができぬまま、私は正直に記憶がないことを告げた。
「実は……君に水をもらったあたりから後のことを一切思い出せない。」
そう白状すると、彼女は眉を寄せてしばらく私を見ていたが、嘆かわしそうに大きく呼吸を漏らす。
「……深酒のせいで、途中から記憶が抜けてしまったというのね」
冷たいその声に、私はただ頷くことしかできなかった。
下を向いた私は何も言うことができず、彼女の方もしばらく何も言わずに私を眺めているようだった。
再び野長い沈黙に耐え切れずに私が上を向くと、冷淡に私を見遣る彼女と、ばっちり目が合った。
何よ、と言いたげな彼女に、私は意を決して彼女に問いかけた。
「何があったか、私が何をしたか……できれば君の言葉で教えて欲しいのだが」
すると彼女は、馬鹿を見るような目で私を一瞥する。
「知って、どうするの?」
「私が考えている通りに狼藉を働いたのだとしたら、然るべき償いを」
「誰のために?」
何かとても辛辣で、どこかひどく痛いところを突いたその問いかけに、私は言葉を失う。
私は何も言えなくなった間に、彼女は持ち前の弁舌を垣間見せた。
「恐らくあなたは、自分が無実である可能性に賭けたいだけか、
もしくは、然るべき償いとやらをして責任を果たしてスッキリとしてしまいたいだけよね。」
それは確かにいくらか的を射ていたが、それ以上に彼女を心配してのことだった。
「そういうつもりでは――」
「私にとっては、そういうことよ」
慌てて修正を試みたものの、冷静な方向に怒っている彼女の一刀両断の前では、なす術もない。
どこにポイントがあるのかは掴めないが、彼女の中に氷点下の怒りが存在していることは確かなようだった。
だがそれも、事実を知らなければ謝ることも宥めることも叶わない。
「第一、言わされるこちらには、新たに恥をかかされることになるのだけれど、それも承知の上なのかしら?」
続けばやに投げかけられたその指摘は、非常にご尤もであった。
「……ではせめて、具体的なことを君が極力語らずに済むようにすれば、構わないだろうか」
「嘘をつくかもしれないわよ」
悪意と悪戯の際どい境界の光を湛えて、メイの眼が笑った。
仕事上必要があれば、彼女が表情ひとつ変えずに嘘をつくことができることは私も知っている。
ただし、プライベートな部分でそこまでポーカーフェイスを保てるほど豪胆かといえばそうでもないはずだ。
それでも何となく、言葉の裏から語りたくないという意向が読み取れたので、私は特に言い返さない。
「ならば、まずは証拠の話からしよう。その、君の身体に残された、その……」
「私の身体に何が残っているというの?」
恥ずかしさからうまく言葉が出てこない私を変なものでも見るようにしながら、メイが尋ねた。
「だから、その……」
「何よ?はっきり言いなさい!」
もしかして、さっき「きゃあ」と声をあげたのは、生まれたままの姿であることに対してであって
それ以外のことに気が回らず、他のものにはまだ気付いていないのではないだろうか――?
真顔で問い返してくる彼女を見てそう感じた私は、少し姿勢を変えて、後方にあるクローゼットに向けて指をさす。
「……そこの鏡で自分の身体を見て欲しい。」
彼女は怪訝な表情を返してきたが、私が頷くと渋々といった様子で示された方向へと歩いていく。
「あっち、向いてなさいよ」
少し強めの語気に従って、私は窓に映る風景を眺めながら彼女が戻ってくるのを待った。
だが、彼女が戻ってくるより先に私に届いたのは――
「――な……何よ、これ!」
驚きを主成分にした、大きな悲鳴だった。
「恐らく、内出血だろう」
上半身に散った赤や紫に衝撃を受けているのだろうと判断して、私は背を向けたまま答えを返す。
「内出血?それがどうして、こんなにたくさん付いているのよっ!」
恐らく昨日までなかったであろう異変に、彼女が相当動揺しているのが声色から感じられた。
それが「キスマーク」と呼ばれるものであること、その印がつくまでの大まかな過程と、
それが一般的に情事の証拠として扱われることを、できるだけ感情の含まれない音で説明する。
名前は聞いていても実物を知らなかったのか――それとも彼女の暮らす土地では違う響きの言葉が使われているからか。
彼女は常套である“そんなの知っているわよ!”という言葉を一切返してこなかった。
代わりに、「な」という音を何度も何度も発音してから、弾けるように叫んだ。
「何てことしてくれたのよ!」
わなわなと震え黙ってそれを聞いている様子だった彼女だったが、
しばらくして私の前に駆け戻って、真っ直ぐに睨み付けてくる。
「隠せないところにまで、そんなものを付けるなんて!」
シーツで身体を隠しながら首筋に片手を当て、顔を真っ赤にして怒り狂っている彼女を見て、私はひとつの確信を得た。
メイは、この印をつけた人間を私だと認識している。
彼女は、仕事上必要な時や父親に良く思われたい時にはさらりは嘘をつくことがあるが
こうして顕にしている感情を偽れるほど、器用な人間でもない。
彼女から大事なものを奪ったのは、やはり私なのだ。
そう感じた瞬間、考える前に謝罪の言葉が口から出た。
「……すまない。」
「全くだわ」
不機嫌そうにベッドに腰掛けながら、メイが低い声で吐き捨てた。
「今から家に帰るのよ?パパに見つかったらどうするのよ」
私の謝意と彼女の懸念はどうやらずれているようだったが、
彼女の指摘は、確かに互いにとって深刻な問題に違いなかった。
先生は、決してこのことを快くは思わないだろうという確信がある。
「服を買いに行こう。襟の高いものであれば隠せるはずだ。」
「もちろん、レイジがプレゼントしてくれるわよね?」
静かに怒り狂う高飛車に、私は歯向かうことなく頷いた。
「行きつけの店は後が面倒だから、少し遠出してもらうわよ」
「……承知した」
そう答え、私は改めて姿勢を正す。
「ひとつだけ、教えてもらいたいことがある」
「何よ?」
腕を組んで胸を張り構えている彼女に対し
私はいろいろなものを振り切るように、直球で言葉を投げかけた。
「私は、君の純潔を奪ったのだな」
「そうだけれど、それが知りたいこと?」
今更、と言いたげな苛立つ声を浴びせられ、私は力なく首を横に振った。
「いや、その件は確定事項だと考えている」
そう伝えると、彼女は「ふーん……」と意外そうな声を上げた。
「私が知りたいのは……有無を言わさず、そうしたのか、ということだ」
状況を話したがらない彼女の様子が、私の疑念を誘っている。
弱い部分を見せたがらない彼女の性分を思うと、そこは納得できるまで確認しておくべきだと思われた。
私の問いを耳にした彼女は口を半開きにしていたが、
しばらくすると呆れたような表情でため息をつき、ゆっくりと口を開いた。
「嫌だと言える状態でなかったことは確かね」
「けれど、脅されたり暴力を振るわれたりしたわけでもないわ」
どうやら最悪の事態である力尽くでのことではなかったようである。
――逃げようと思えば全力で蹴りつける隙も十分にあったし、という音は、とりあえず聞かなかったことにした。
だが、メイの言葉の使い方と、彼女にだけ残された情熱的な赤い花たちを見る限り、
彼女から誘ったわけはなく、私が働きかけたと考えるべきだと思われた。
もちろん、ミスリードの可能性もあるが、確認するまでもないと思った。
私に課せられた責任は、どちらにしろ変わらないのだから。
「痛かっただろう」
そう声をかけると、彼女は詰まったような様子でそっぽを向き、少しだけ顔を顰めて見せた。
「全然痛くもなかったし、怖くなんてなかったわよ」
ああ、痛かった上に怖かったのだな……と、涙目になった彼女を見ながら思う。
「本当に、すまない。」
「私はしてはいけないことをした。年若い君に対して――」
後から思えば、この言葉の途中から、心なしか彼女の拳が強く握られ、だんだんと肩がせり上がっていったような気がする。
「君を健全な方向に導く責任のある年長者(オトナ)として、あるまじき行為だ」
私がそう謝罪の言葉を告げた後も、いつの間にか俯いていた彼女はそのまま身体を振るわせ続けた。
もしかして、泣いているのだろうか――怖かったことを思い出して。
しばらくして心配になり、私は彼女の名を呼び、彼女に触れようと利き手を伸ばす。
だが、そこまで至近距離に入らないうちに、鋭い痛みが私の手を止めた。
鞭で鍛えられた彼女の左手が、力加減なしで私の右手を弾き飛ばしたのである。
そして、同時に顔を上げた彼女には涙の影もなく、業火を髣髴とさせる怒りだけが映し出されていた。
「絶対、許さない。」
声ははっきりと聞こえる大きさだったが、視線とは裏腹に低く冷たい。
いつものヒステリックな声を出してくれる方がマシだと思えるような、今までにない響きがそこにあった。
何がきっかけで彼女をそこまで怒らせたのかをわかっていない私は、
混乱しつつも、覚えていない間にしたことを考えれば当然だと、ただひたすら頭を垂れた。
「鞭で打つなり、好きにしてくれて構わない。君の気が済むようにさせてもらう。」
「鞭くらいで気が済むわけないでしょう」
私の申し出は、あっさりと切捨てられる。確かにそうだと呟くしかなかった。
「それなりのペナルティは被ってもらうわよ」
「ペナルティ、とは?」
内心恐る恐るの心境で私が尋ねると、メイは人の悪そうな笑みを浮かべて私に宣告した。
「金輪際、他の女との関係を切ってちょうだい」
私はうっかり、「はあ」と気のない声をあげる。
彼女の怒りの強さから、ロープ無しで急流の吊橋からバンジージャンプをしろ、
もしくは検事を辞めろ、父の門下から出て行け、と言われてもおかしくないと思っていたのに……
想像より相当、スケールもダメージも小さい話のように感じられたのである。
「君が望むならそうするが……そんなことで構わないのか?」
「もちろん、これから新しい女をトッカエヒッカエするのも禁止よ」
「ああ、わかっている」
そう応じると、メイは相変わらず睨み笑いの目を続けたまま、楽しげに口を歪ませた。
「じゃあ、決まりね。」
どうやら話はついたようだったが……怒り具合を考えると軽すぎるペナルティに、私は問わずにはいられなかった。
「たったこんなことで、気が済むのか?……第一、君に利益は?」
「もちろんあるわよ」
「私には全くそう見えないのだが。」
重ねてそう問いかけると、メイはすっと笑うのを止めた。
「ずっと、目障りだったのよ」
そう呟いて、彼女は表情の見えない様子で私から視線を外す。
「仮にも狩魔の人間ともあろう者が、女にだらしないなんて――見苦しくて仕方ない」
本当に心底不愉快だったのだと感じられるだけの空気が、そこに存在する。
いつから気付いていたのかはわからないが、微妙な年代の彼女がここまで深刻になるだけのことを、きっと私はしていたのだろう。
先生はそこにも気付いた上で、あの時私に釘を刺したのかもしれない。
師から与えられた役回りをこなせず大事な妹を傷つけていたことを、私は心の底から恥じた。
これからは振る舞いに気をつけようと、改めて彼女の提示したペナルティを受け入れる心積もりを固める。
「わかった。謹んで君の望みを受け入れよう」
真っ直ぐ彼女を見てそう誓うと、ある程度気が済んだのか、メイの目が少しだけ柔らかめに細められた。
「自由が減って大変でしょうけど、せいぜいがんばることね。」
「ああ、精進する。」
どうやら、これで話がまとまったようだ。
いろんなため息が出そうになるが、彼女の前では控えておこうと、私はこっそり息を呑み込む。
だが、続けて彼女から出た言葉は、思わずその空気を変な器官へと押し遣った。
「でも、安心なさい。――女好きのキサマのお相手は、姉弟子である私が責任をもって引き受けてあげるわ」
突如出たその発言に、ベッドの上で胡坐をかいていた私は、咽せながら思わず立ち上がった。
「な、何を言い出すんだ、メイ!」
だが、そう言いながらうっかりとバランスを崩し、よろけて再び同じ場所に座り込む。
メイは、そんな私を馬鹿馬鹿しそうに眺めながら、呆れたように嘆息をつく。
「だって完全に女遊びを絶ってしまったら、逃げ道がなくて約束を守れなくなるでしょう?」
「そんなことをしなくても、私は約束を守る」
「残念ながら、現時点でそれを信じることはできないわ。」
彼女の中で私がどれだけロクデナシの女たらしに思われているのか、想像するのが恐ろしかった。
「だが、これ以上君を」
それでも言い返そうとした私の声は、彼女の強い語気にあっさりと遮られた。
「誰でも構わないんでしょう?」
敢えて意識してこなかった図星をくっきりと突き刺され、私はぐうの音も出なくなる。
「だったら、私でも構わないじゃない」
その目はすっかり醒めており、全く笑っていなかった。
「私は可愛い弟弟子が大人しくイイコでいてくれるためなら、お相手するくらいは問題ないわよ」
――いや、問題は大いにあるだろう!
今置かれた立場を無視して、私は彼女の滅茶苦茶な言い分に突込みを入れようとする。
「それにこれは、ペナルティの一部よ。」
だが実際には動揺で口が回らず、彼女の方が先に、恐ろしい後出しの条件を放っていた。
「キサマにとって、私は健全な方向に導くべき子羊か何かだったようね」
結論を言い渡し、そこから段階を追って話を進めようとする彼女は、いつものじゃじゃ馬ではなく
いつかアメリカで法廷を見学させてもらった時の、検事席に立つ彼女を髣髴とさせた。
「私の方がキサマを導くべきオトナだ、という事実はこの際置いておいて――
キサマの思う健全から外れた私を目の当たりにするのは、さぞかし後ろめたいことでしょうね」
やや事務的に人の闇を暴く視線を直に当てられ、私は珍しく彼女に追い詰められたことを思い知らされた。
「だとしたらそれなりに、ペナルティの上乗せになるんじゃないかと思ったのよ」
その指摘に反論の余地を見出せず、私は項垂れるようにがっくりと首を振った。
「ああ……君の言うとおりだ。」
上目遣いで彼女の様子を窺うと、彼女は何かを見定めるようにじっと私の方を見据えていた。
しばらくそうしてから、彼女は一瞬目を伏せて表情を穏やかなものに変化させる。
「それじゃあ、決まりね」
軽々とベッドから立ち上がると、メイは自由になる片手を伸ばして気持ち良さそうに背伸びをした。
「さあ、そろそろ服を買いにいくわよ。さっさと支度なさい!」
自分の着ていたものを手早く拾い上げると、メイはシーツを纏ったまま部屋から出て行った。
ほどなくして、風呂の扉が閉まる音がしたから、シャワーを浴びに行ったのだろう。
一方、私はその場に取り残され、なす術もなく立ち尽くしていた。
――誰でも構わないようなことだから、君だけは駄目だったのに。
ぼんやりとした想念の乱発で混乱をきたす中、そんな言葉だけがはっきりと頭の中を駆け巡る。
だが、自分からそれを踏みにじるようなことをしたのだから、
後悔したところで、もう遅いのだ。
それでも、戻せるものなら、昨日の夜まで戻ってやり直せたら――
そうやって何もせずに叶うわけのないことをひたすら願い逃避していたところ
服を着て戻ってきたメイから受け慣れた制裁を浴びることになったのは、また別の話である。
湯に打たれて気分が落ち着いたのか、メイは至って普段通りの彼女に戻っていた。
その切り替えの早さに私は妙に感心したが、その感想は心の中に留めておくことにする。
<おわり>