いったいどういう経緯があって、こんなことになってしまったのだろう。
全ての証拠を覆い隠すかのように、白い布でソレを包みながら
ガンガンと痛む頭を無理やり働かせて、私は必死に昨日のことを思い出そうとする。
***
悪くない一日だと思っていた――少なくとも、昼下がりの頃までは。
その日の法廷は、特に狩魔流の“準備”を必要としない、至ってシンプルなものだった。
当然の如く私は勝利し、特に感慨もないまま控室へと戻った。
ただ、誰もいないはずの部屋に入ると――そこには既に先客が我が物顔で寛いでいた。
「ご苦労だったわね」
ホットの緑茶の缶と自販機のどら焼きを両手に持って、師匠の娘がそれらを忙しく交互に口へと運んでいる。
「地下の図書館に篭っていたのだけれど、休憩がてらに見学させてもらったわ」
師匠は基本的に休暇を取ることを良しとしない。
しかしその娘であるメイが暮らす土地では、休暇を取った上で仕事もちゃんとこなす人間が「完璧」と見做されるらしい。
どちらの考えにも対応するためにメイが取ったのは、休暇に家族と過ごしつつ、毎日スキルアップを欠かさないという道だった。
そのため、彼女は休暇中も土日以外は図書館に篭ったり父親の法廷を傍聴したりと、忙しく勉強を続けている。
ただ、今目の前にいる彼女の様子を見ている限り……父親の前以外では、効率よく息を抜くことも弁えて行動しているようである。
「見ていたのか」
気付かなかったため、驚き混じりに応じると、メイは湯呑のような仕草で緑茶を啜って溜息をついた。
「お手並み拝見させてもらったけれど……まだまだ、詰めが甘いわね」
「そうだな。さらに精進する必要がある。」
有難い指摘に同意すると、何故かメイは面白くなさそうな顔をした。
ただそれは、理由はよくわからないが、いつものよくあることなので気にしないことにしている。
荷物をトランクに詰めると、私は局に戻るためにそれを持って立ち上がった。
「もう行くの?」
「ああ。執務室で事務処理の作業が待っているからな」
検事局まで、部下の刑事が私を送ることになっている。
今から行けば、ちょうど良いタイミングで車が玄関に着くはずだ。
「じゃあ私も、そろそろ図書館に戻ろうかしら」
役目の終わった包装紙と缶をゴミ箱に入れて、メイが先に部屋から出ようとする。
その横顔にいつもと違うものを見つけて、私は彼女を呼び止めた。
「メイ」
「何よ」
私はそのまま手を伸ばして、すぐ近くにいる彼女の、唇の横に手を伸ばした。
「付いている」
そこに残っていた餡を指で摘み、比較的大きなそれを自分の口に放り込む。
「君は甘いモノのことになると、途端に幼くなるな」
そう言って子供扱いしたからだろう。メイの顔が見る見る真っ赤になり、何かを叫ぼうと大きく口を開いた。
だが、彼女は何も叫ばなかったし、私もそれ以上彼女を見ることができなかった。
――突如、ゆらゆらと世界が揺れ始めたから。
余波にすら敏感な私はその場で凍り付き、気のせいであってほしいと願ったが
それは間違いなく地震で、床からの振動と視界の揺れが私から現実を奪う。
途端に空気が薄くなり、暗くなる視界の中、男の怒鳴り声と大きな叫び声が頭にガンガンと響いて――
次に意識を取り戻したとき、私は控室のソファに寝かされていた。
息をしやすいようにするためかクラバットが緩められており、スーツの上着が近くのハンガーにかけられているのが視界に入った。
ふと近くを見回すと、小さなテーブルが近くにあり、汗をかいた天然水のボトルとプラスチックのコップが、その上にセットされている。
部屋は、汗をかかない程度の適温で調整されていた。
室内には誰もおらず、しんとした空気が流れている。
私がコップの水を口に入れ喉を鳴らす音が、やけに大きく響いたような気がした。
しばらくすると外から鞭の音と若干コミカルな男の悲鳴が響いてきて
私は自分を介抱したであろう二人が、部屋のすぐ外にいることに気が付いた。
恐らくメイだけでは私をソファに運ぶことができないので、私を追ってきた刑事がそれを為したのだろうと推測される。
――人に今の姿を見られると冷静ではいられない私の性分に配慮して、たぶん二人は外で待っているのだろう。
全ては非常に適切で、手厚い配慮がなされていた。
だが、裏を返せば、彼らがどれだけ私のこの状態のことを知っているのかが、はっきりわかるというものだ。
――情けない。
プライドに妨げられ声に出すことすら叶わぬその言葉を、私は心の中で叫び、力が抜けたようにソファに突っ伏す。
あの事件から立ち直って誰よりも立派に道を進んでいる姿を常に演じているくせに
普段叱ってばかりの部下よりも、道理を諭してばかりの妹分よりも――本当は、私は弱いのだ。
直面せざるを得ないそれをどうしても受け入れられず、私は暗闇だけを見つめて光から逃避する。
その状態から立ち直り、何食わぬ顔で部屋のドアを開けるまで、さらに長い時間が費やされることになった。
***
「御剣検事、やっぱり一度病院に――」
倒れたときに頭を打ったかもしれないと、糸鋸刑事がやたら私を心配する。
「だったら、せめて自分が家までお送りするッス」
いらんと一蹴すると、刑事は「事故が」とか「体調が」とか、検事局の駐車場に響くぐらいの大声で口煩く私に言い募ってくる。
思春期の息子に説教する母親心のようなソレは、やたらと私の気に障った。
ただ、私がポツリとこう漏らすと、それまでワンワンと吠えていた部下の声がピタッと止まる。
「給与査定の限界というものが人間が生活できる水準を保てるものなのか、是非検証してみたいものだな」
それでも納得できずに訴えかけるような目をしている忠犬を一瞥だけして車の窓を閉めていくと
入れ替わりに後部座席の窓が開いて、当然のように乗り込んできた令嬢が何でもなさそうに刑事に声をかけた。
「大丈夫よ、ヒゲ。途中で発作を起こしたら、この鞭で目を覚まさせるから。」
「ええっ!それじゃあますます検事が大変な方向に――!」
叫び声が駐車場に木霊するが、メイが鞭を車内に回収するのを見届けると私はさっさと車を発進させた。
自宅のマンションに戻ると、私は真直ぐに台所を目指し、戸棚から琥珀色の液体の入った大瓶とグラスを掴んだ。
そのまま、他のものには一切目もくれず、無言で寝室に閉じ籠る。
どうしても眠れない時のためにと常備している、ただ酔うためだけの、強くて安い酒。
食欲などわかずとっくの昔に空となった胃袋に、アルコールを吸収させていくだけの作業が始まった。
度数40前後のそれを少しずつ口に運ぶと、喉から胃までに、じんわりと灼けるような熱が広がっていく。
時折グラスを満たしつつ、その感覚だけをしばらく追っていると
そのうちに体温があがり、頭がくらくらと非現実的に揺れていくのを私は感じた。
それらの強い刺激に潰され、気付かぬうちに意識を失うことだけを望んで
私は封を切ったばかりの糖蜜酒を呑み込んでゆく。
だが、妙に緊張したままの神経は、意識が流されていくことを許さず
それなりに時間が経っても、私は思考を閉じぬことができぬまま
明文化されないレベルの、悪い物思いに徐々に囚われ始めていた。
胸の辺りに湧き上がるものを吐き出すため、
楽しくもないのにくつくつと空笑いをして、直後にソレを冷淡に観察する。
たまに脳裏を掠めるあの日の記憶すら、まるでどうでも良いことのように笑い飛ばした。
本当はどうでも良いわけなどないという思いが同時に現われ、せめぎ合い、
その葛藤とアルコールが粘膜を刺激する痛みとが重なっていった。
だがそのうちに、虚無感が全身に広がり、私は座ったまま頭を抱えて小さく呻く。
覚束ない手つきで瓶から琥珀色の液体をグラスに注ぎ、全てを振り払うように一気にあおった。
――いつまで、あの記憶に悩まされるのだろう。
やはり一生、このまま恥を晒しながら苦しみ続けるのが、私の運命というのだろうか。
内臓を焼けるような感覚とくらくらとした頭の感覚が、私の苦痛を鈍磨させていく。
すでに味などよくわからぬまま、私はまた一杯、酒精を注いで喉に流し込んだ。
重力がいつもより強く働き、私の体を倒そうとしている。
いつでもそうできるように、今宵はベッドに腰掛けて深酒を嗜んでいた。
それでも、私には眠るという選択肢が与えられていない。
飲酒によって増幅された恐怖と憎しみが、澱のように私の全身にまとわりつき
心の芯を不自然に覚醒させている。
だがどうせ、眠ったところでいつもより鮮明な悪夢に襲われるだけ。逃げる道などないのだ。
それでも往生際悪く逃げ道を探すかのように、私はサイドテーブルの瓶を杜撰な動きで掴む。
悪循環などという言葉は、とうの昔に記憶から消し飛ばされていた。
どれくらいそうしていたのかはわからない。
ふと寝室の外から聞こえる物音を聴覚が拾い、私はこの家に一人ではなかったことを思い出す。
先に家まで送ると言っているのに、ここまで付いてきた人物がこの家の中にいたのだった。
玄関を開けたときに、酒を飲むから送ってやれないとだけ告げて、そのまま放っておいた招かれざる客である。
それを忘れるくらいに酒と記憶に呑み込まれていたことを自覚し、私は改めて、吐き捨てるように嘲笑する。
ただ、一人ではないという事実が、私の心に仄かに光を与えたことも確かだった。
しばらくの物音の後、ノックと共に寝室のドアが開く。
「入るわよ」
主の許可も得ぬまま、見慣れたじゃじゃ馬がドアを開けて部屋に入り込む。
その両手は、満たされた硝子の水差とグラスの乗った盆で塞がっていた。
どうしようもない私の姿には何一つコメントを与えずに、彼女は整った動作でサイドテーブルにそれらを置く。
「本、読ませてもらったわ。礼を言うわね。」
メイは時折、私の持っている本を読みたいと言って私の部屋へ来る。
これは、私が狩魔家に居候していた頃も、独立した今でもよくあることだ。
連続写真のようなスローモーションの視界に囚われた私は、
隣に腰掛けたメイに、あっさりと酒の入ったグラスを奪われ
代わりに冷水の入ったグラスを手に持たされる。
「頭を冷やしなさい」
促されるままに飲み干すと、きんと冷えたその水からは微かな柑橘の味がした。
狩魔の人間は、馴れ合うことを良しとしないため、メイは基本的に、表立って私を心配することはない。
それでも何故かこういう夜には、たいてい傍らに彼女がいた。――もちろん、彼女が日本にいる時だけの話だが。
私が今日のように調子を崩していると、彼女は本のついでだと言いながら、
こうして冷水や、時には濡れタオルを持って私の部屋を訪れる。
私の家に上がりこんだ目的はあくまで本なので、彼女は本を読み終えるまで書斎から出てこない。
だが、こういう夜に彼女が欲するのは、たいてい薄く図解の多い本であるのも確かなことだった。
私は酔って項垂れるふりをして、隣に座る彼女の肩と頭に体を預ける。
いつもならば、こんなことをすれば「セクハラ」とか「フケツ」とかいう言葉と共に
突き飛ばされるか鞭が飛んでくるところだが……
こういう夜だけは、彼女は何も言わずに私が眠るまでそのままにしてくれる。
ほっとさせる体温に縋りながら、私は心の中で何かに祈った。
私がいつまでもあの記憶から解放されないというのならば、
どうかいつまでも、この温もりが手に届く場所にあるように。
「兄妹」のまま――崩れようのないこの丁度いい距離のままで。
彼女の手が労わるように私の髪を撫でる感触を快く思いながら、私は切にそう願った。
***
そんな風に願ったばかりなのに、数日前には毅然と壁を作ったはずだったのに
いったいどうして、こうなってしまったのだろう。
必死に思い出そうとするが、先程の部分で私の記憶は途切れている。
だが、重要なのはその後のことなのだ。
流れに沿えば思い出せるかと思って一日を振り返ってみたものの、何も得られず
地震のことを想起した分のダメージを、二日酔いの頭痛に上乗せするだけの結果となってしまったようだ。
だが、私は早急に思い出さなければならない――メイが、目を覚ます前に。
あの後一体何が起こったのかを把握して、然るべき対応を考える必要があった。
もう一度現状を確認してみよう。
私は今、寝室のベッドの上にいる、
そして同じベッドのすぐ近くに、メイが眠っていた。
今から少し前、私は肌寒さを感じて目を覚ました。
カーテンの隙間から外の光が漏れており、どうやら朝がきたのだと認識する。
時計を見ると、6時を少し過ぎた時間を差していた。
二日酔いのせいか、頭痛と全身のけだるさを感じながら身体を起こそうとして、私はあることに気が付いた。
どうやら私は何かを抱いて眠っていたようで、腕と胴体にそれと触れている感覚があった。
それは柔らかく暖かくて――一体何を持ち込んだのだろうかと見下ろして、私は思わず凍りついた。
私の目に飛び込んできたのは、銀に似た色を持つ髪と、透けるように白い肌の色。
妹弟子であるメイが、私の腕の中で、寄り添うように安らかな寝息を立てていた。
私の認識では、彼女とは兄妹のように育ってきたと思っている。
ただ、一方で他人同士だということも弁えていたので、同じ寝室で一夜を過ごすような習慣はなかった。
――少なくとも彼女の年齢が二桁になって以降は、そういうことはほぼなかったと記憶している。
なので、どうやら同じベッドの上で一晩一緒に眠ったらしいというだけでも、
私にとっては非常に非日常的なことだ。
それだけでも十分、困惑しているというのに――
私達は二人でひとつのシーツに包まっていたが、互いにそれ以外は何も身に纏っていなかった。
つまり、素肌が触れ合った状態で私達は寄り添っていたことになる。
酔いの残滓以外の要因でぐるぐると目を回しながら起き上がり、慌てて辺りを見回してみる。
脱ぎ散らかされたものがベッドの端や床に散乱した部屋の惨状を見て、しばらく呆然とした後
ふと思い立って、私はいくつかのことを確認するべく、もう少し詳細な現場検証を開始することにした。
そこにいる二人の人間に残された痕跡も含めて、私に見つけることができたのは、
メイの薄化粧に残った涙の跡、そして私の背に残る線状で新しい、複数の傷跡――そして、シーツに残された、鈍い赤。
その他シーツに刻まれた皺の強さなど、集めた証拠をロジックで繋いでいくと――
とんでもないことをしてしまったのかもしれないと、心臓が嫌な音を立てて早打ちを始める。
どうやら私は昨晩、相当に情熱的な夜を過ごしたようである。
ただし、一切、覚えがない。
メイの身体をシーツで包みながら、必死に昨日の記憶をたどったが、
隣に座った彼女に肩を貸りて安らいでいたところでぷっつりと線が途切れている。
そのまま眠ってしまったと考えても、全くおかしくないと感じるくらいの場面だった。
ただ、鑑識に回すわけにもいかないが、ここに記すことも憚られるような証拠が双方の身体に残されている。
私が仕事でここを捜査しているのだとしたら、ここにいる男が何もしなかったとは決して断言しないだろう。
むしろ、ここまで証拠が揃っていれば「有罪」と判断して、取調の準備を始めるに違いなかった。
つまり、客観的に判断すれば――どうやら私は、彼女にひどい狼藉を働いたと推測される。
残された血痕と一般的な知識を照らし合わせれば――彼女のほうは相当に痛い思いをしたと考えられた。
素顔に戻る余裕もないままに眠りについたであろう彼女の涙の跡を、しばらくぼんやりと眺めてみる。
私にとって、彼女はそのようなことをしていい存在ではなかった。
師匠の娘であることや、歳が離れていること、妹と見做して大事に思ってきたこと……
理由は山のようにあるというのに、私はそれを無視して取り返しのつかないことをしてしまった……ようだった。
今ひとつ確信を持てないまま、私の全身は、背中から広がる動揺と硬直の感覚に繰り返し翻弄される。
自分が何もしていなければいいのに、と願うが、状況を鑑みると、彼女に何かが起こったことは間違いない。。
私でないとすれば、他の誰かがここに侵入して、彼女を傷つけたということになってしまうのだ。
絶対にそのようなことは許されてはならないし、それだったらまだ、私がそうしたと考えるのが妥当で安全で、気も楽なのかもしれない。
だが、そうなると、私は自分で大切なものを台無しにしてしまったことになり――
そんな風にぐるぐると混乱する頭を無理やり巡らせて、私は真相と落とし所を求める無益な作業を延々と続けた。
――時が経過し、ゆっくりと目を開いた彼女が私の名を呼ぶ、その瞬間まで。
<おわり>