窓から入る太陽の光が、裁きのように法廷の中を照らす。
だがそこには、誰もいない。
冥はそこにいるたった二人の人間の、片割れだった。
辛うじて検事席に立っているものの、冥は後ろの壁に凭れて右肩を押さえ
証言台に立つもう一人の片割れを、残った力で睨みつける。
ただ、明るい法廷の中なのに証言台は影となり、相手の姿を見ることはできない。
近くにいるというのに、その声はまるでラジオから聞こえてくるように雑音混じりの遠い声だった。
「殺人者の娘だというのに、正義の味方気取りとは。」
その声を、冥は知っている――いつか法廷で聞いた、トランシーバーで出廷した証人の声。
冥の肩を狙撃した、あの忌々しい殺し屋のものに間違いなかった。
あの時と同じように右肩を打ち抜かれ、傷を押さえた左手はヌルヌルとした血の感触で気持ちが悪い。
激痛でまともに言い返すこともできぬまま、冥はただ、睨み返すことしかできずにいる。
「あなたはしょせん、人殺しの二代目。私と似たようなものです。
――だから、それを忘れないようにと印をつけてあげているのですよ」
穏やかで丁寧な声が、裏腹に恐ろしいことを冥に告げる。
「違う!私は――」
全ての力を振り絞ってその言葉に抗おうとするが、それ以上の言葉を見つけることができなかった。
悪を裁くと大口を叩いてはいるが、確かに冥は人を殺し欺いた男の娘であったし
たった1年ほど前までは、“完璧”な勝利のためならば何でもするような、
私欲に塗れた薄っぺらい志の持ち主であったことは事実なのだから。
「ふむ……」
冥が言い淀んでいるうちに証言台の影がゆっくり薄れ、その声からも雑音が消えていく。
「我輩に怒鳴りつけるとは、偉くなったものだな、メイ」
そこに現れたの姿は……そしてクリアになった声は、紛れもなく冥の父のもの。
「……パパ」
驚きと懐かしさと恐怖と――多くの感情が混ざり合い、冥はただ父を呼ぶことしかできない。
「久しぶりだな、メイ」
銃を向けたまま、父は冥に声をかける。
その顔は笑っていたが、冥の知っている機嫌のいい父のものではなく
憎しみを湛えたような、いびつに歪んだ笑顔だった。
「聞くところによると、貴様は我輩の教えを捨てたそうではないか」
その表情のまま、内心後ろめたく感じていたことを話題にされ、冥は独りでに竦み上がる。
「我輩の育てた、“完璧”な狩魔の名に傷をつけた小娘に、裁きを与えねば」
――違う、私の知っているパパは、そんなこと、言わない!
銃口に睨まれながら、冥は心の中で、目の前の父親を否定する。
「それは、どうだろうか」
いつの間にか隣にいた御剣が、事務的な涼しい目で冥の父を見据えている。
「私や父は、似たようなことを言われて陥れられたのだがな……君も、これを見ただろう?」
目の前に提示されたのは、確かに冥が以前目を通した――父の罪が暴かれた法廷の、逐語記録。
「違うわ……私は聞いていないもの!」
『そうやって、事実から目を逸らし続けるのか』
御剣と父と、両方から同じ言葉を投げかけられる。
――違う。だって……私はこんなパパ、見たことがないもの……。
項垂れる冥の近くで、甲高い電子音が聞こえてくる。
それは室内に響き渡り、冥が音のなる方に首を傾けた瞬間――
――視界がぱっと、一変した。
そこは薄暗いホテルの一室で……冥は置かれたデスクに突っ伏している。
先程まで、激痛の走っていた肩は何ともなく、血に濡れた感触もない。
そこまで確認して、冥はようやく先程までのことが夢であったことを認識した。
安堵の溜息をついた冥の耳に、先程まで聞こえていた電子音が再び飛び込んでくる
。
そのことにぼんやりと気がつくと、冥は硬いデスクと触れていた上半身を起こしながら、それを手に取った。
「……もしもし」
「生きてたか。驚かせるなよ」
液晶に表示されていた名前を持つ男の、心底安堵したかのような溜息がスピーカーから聞こえた。
「今、ドアの前にいる。晩飯を持ってきたから開けてくれ」
こうして1日に1度は狼捜査官が、生存確認を兼ねて食事や必要な物を持ってくる。
いつもならば部屋にズカズカと入り込んで食事をとっていくはずの狼がだが、
今日に限っては部屋に入ると後ろ手にドアを閉め、それ以上歩こうとはしなかった。
「どこか、悪いのか?」
大男はメイの身長まで腰を落として、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「少し眠くなって、仮眠をとっていただけよ」
食事を受け取りながら事も無げにそう答えるが、捜査官はまだ納得していないような表情を見せていた。
「しっかりしてくれよ」
「アイツはこっちでバッチリ有罪になったが、俺達の目的はあくまで密輸の件だ。」
密輸組織を摘発し裁くことで、組織の影響で荒廃が進む国や地域・団体の状況悪化を防ぐ。
それぞれが立ち直っていく為には、まずはそれが不可欠――
そう判断されたからこそ、国際警察は外部から検事を招いてまで、大がかりな捜査を行ってきたのだ。
「そうね。志半ばに倒れたアクビー・ヒックスのためにも、首領を裁き……組織の力を削いでいかなければ。」
「ああ、あいつにゆっくり眠ってもらうためにもな……」
冥が鞭を握りしめて答えると、狼も神妙な表情でそう頷いた。
「俺とアンタは、アクビーの件じゃ志を同じくしている……つまり仲間みてえなもんだ。
仲間がシケた面してるのを、見過ごす気はさらさらないもんでな」
「時化た顔なんて、してないわよ!」
表面的にはいつも通りにしていたはずなのに反対のことを指摘され、冥は反射的にボルテージを上げて言い返す。
狼はそれを楽しそうにニヤニヤと見下ろしながらその言葉に応じた。
「ま、俺にはそう見えたのさ……それでだ。」
「今日はアネさんの気分転換になりそうな差し入れを用意してきたのさ」
そう語る狼の声は楽しそうに弾んでおり、表情も楽しげに輝いている。
邪気なくそんな表情をされると、冥の方も少しばかりは期待せずにいられない。
「……何かしら?」
「アンタの大好きなモンさ」
冥の好物を知っているということは、きっと御剣から何かを聞いてきたに違いない。
思い浮かぶのは、あの店のケーキや焼菓子、あっちの店の大福、そして法廷の――
さまざまな「大好きな物」を想起している冥の目の前で、狼が後ろを向いてドアを開けている。
「待たせたな!こっちに来てくれ!」
部下に買って来させたのだろうか。
狼が外に向かって誰かを呼ぶと、絨毯に吸収されて小さくなった足音と人の気配が近付いてきた。
床に映った人影が冥の視界に入るのと同じタイミングで、狼が歩を退いて部屋を出る。
無言で部屋の前に立った人影の主が、冥の視線の先にスッと紙袋を差し出した。
袋に印刷されているのは、法廷名物のどら焼きと同じ模様――確かにそれは、冥の大好物。
だが、それを手にしているのは、狼の部下ではなく……赤いスーツの――
それを認識し、反射的にドアを閉めようと身体を乗り出して、手に力を込める。
しかしどれだけ力を入れても、それは微動だにしなかった。
「あぶねえな。検事さんの腕が挟まるとこだったじゃねえか」
捜査官の手ががっちりとドアを押さえつけてその動きを固定している。
「茶菓子を持ってきた。一緒に、食べないか?」
赤いスーツのよく知った男は、いったん狼に目礼をしてから冥に視線を合わせ、微笑と共に包みを差し出す。
冥が躊躇して一歩後ろに退くと、狼の手がドアを押し、扉を全開にした。
「ミスター・ロウ!ぶ……部外者をここに連れてくるなんて!」
慌てて大男に怒鳴りつけると、食えないその男は悪びれずにニッと笑顔を見せる。
「検事さんは機密を知った関係で、名目上はアンタの部下だ。完全な部外者ってわけでもないさ」
「そういう問題じゃないっ!」
冥が全身で反論するも、相変わらずこの男には全く通じない。
捜査官は楽しげに口を歪めると、御剣の真後ろに己の身体を廻した。
「まあとにかく、俺の“差し入れ”……ありがたく受け取ってくれ」
ドン、と音がして御剣が軽く白目をむくのが見える。
よろめいたその男が前のめりに傾き、バランスを取るように歩を進めた。
よほど強く押されたらしく、ドアの半径よりも奥まで御剣が部屋に入ってくると、その後ろでドアがバタンと閉められた。
「狼士龍!どういうつもりなの!」
「言っただろ?気分転換さ。今日は検事さんと菓子でも食べてゆっくりしてくれ。」
狼の声が、だんだんと遠くなっていくのが聞こえる。
それでも言わずにはいられなくて、冥は大きな声で言葉を返した。
「よ、余計なお世話よ!」
こうして冥は、正直なところ気まずい思いを抱いている相手と二人きり、部屋に取り残された。
ふと薄明かりの中、冥をじっと見ていた御剣と目が合う。
彼は困ったような……それでいて嬉しそうにも見える表情で冥に笑いかけた。
内心で慌て、ついと視線を逸らすと、御剣が脇に抱えた大きな封筒に目が止まる。
どうやら、狼伝手に頼んでいた資料も、御剣が持参してくれたようだった。
「資料だけ置いて、さっさと出ていきなさい。御剣怜侍。」
受け取るために冥が手を伸ばすと、御剣は資料と反対の手に持っていたどら焼きの紙袋を冥の方に差し出した。
それを受け取って何気なく袋を開けると、そこには懐かしい小袋が6つ、整然と並んでいる。
厳選の材料で焼成された甘さ控えめの生地と、柔らかく練り上げられた餡の絶妙な調和――
冥の頭の中で昔食べた味が再現され、思わず心がゆったりと躍る。
「直売店を見つけてな。そちらで新しいものを分けてもらった」
その言葉で視線を上げると、御剣が優しい目で冥を見守るように眺めている。
そこでようやく、冥は自分が資料ではなく、うっかり和菓子を受け取ったことを自覚した。
「違うでしょう?そうじゃなくて、資料を寄越しなさい!」
御剣は笑いを堪えるような表情で冥に資料を渡す。
その様子が気に障って、冥は資料を受け取ると中身も確認せずに近くの棚にそれを置き
つっけんどんに御剣に向かって指先を突きつけた。
「さあ、用は済んだのだから……さっさと帰りなさい!」
すると、失礼な扱いを受けているはずなのに、その男は楽しげな表情を崩さず……ニヤリと笑って冥に問いかけた。
「せっかく“部下”が資料と土産を持って来たというのに、労いもせず帰すというのか?」
冗談半分とはいえ、どうやら暗に“上司”としての資質を問われているようである。
だったら冥は姉弟子として“上司”として、その挑戦を受けねばならない。
「……わかったわよ!」
部屋の奥に進みながら、冥は望んだわけではない客に一つだけ断りを入れた。
「お茶を淹れてあげるから、飲んだら帰りなさいよ?私はまだまだ仕事があるんだから」
<おわり>