「暗闇」

 

『キケンではないのか?』
『シンパイされるほど 落ちぶれてはいないわ。』

空へ飛び立とうとした彼女は、呼びとめた御剣の問いにそう答えて笑っていた。
だが、彼女は一言も云わなかった――“危険ではない”とは。
恐らく、殺された仲間と同じ末路を辿ることを覚悟して、彼女は今回の捜査にあたってきたのだろう。

大規模な組織犯罪に果敢に立ち向かう彼女は、同志として誇らしい。
ただ、大きな事件に飛び込んでいく無謀さや、単身で立ち回る危うさは、
まるで自分を護る本能が壊れてしまったかのようにも見えて
彼女個人を見守る身としては全くもって生きた心地がしない。

過去を含めて、御剣の知る限りでも片手の指では数えられないほどの人間が
組織によって、その未来を奪われている。
少なくとも御剣の手の届く限りは、彼女を決してその列には加えないように。
そして願わくば、彼女が自身を大事にすることを思い出すように。

組織の首領を捕えることに成功し、余罪の追及のために走り回るメイを時折目で追う。
御剣自身、メイから託された殺人事件の家宅捜索を続けながらも
彼女を守る方法についての思索を、頭の隅で巡らせていた。

******

捜査員たちが作業を進める中、御剣は細かい指揮を出して大使館内を歩き回る。
仕事の合間にメイを捉まえることができないかと時折周りを見渡していた彼は
アレバスト側の館内で鞭を手に肩を怒らせて歩くメイの姿を見つけた。

御剣が声をかけるまでもなく、彼女はヒールをカツカツと鳴らしながら近付いてくると
真正面から大声で金切り声をあげた。

「御剣怜侍!」
呼ばれた方にとっては、この検事のヒステリーなど懐かしい日常のBGMのようなものだったので
いつもの調子で彼女に声をかける。
「メイ、君を捜していたところだ。話したいことがある。」

「……あなたが狼捜査官に打診した件についてのことかしら」
金切り声が張りつめた静かな声に切り替わるが、
メイの様子は話しかけてきた時と同じ沸点を保ったままだった。

「知っているなら、話が早い」
狼に持ちかけた話を耳にすれば、彼女はきっと怒るだろうと思っていた御剣は
想像の範疇を離れない彼女の態度を受け流して、用件を切りだした。
「出国までの間、日本側で君の警護を手配しようと思っているのだが」

「ふざけないで!」
どうだろうと問うまでもなく、返事は即答だった。
「どうして私が、護られなければならないの!」
弱い立場として扱われることを良しとしない、メイらしい返答である。

だが、それを踏まえてでも必要を感じて警護を打診した御剣は
理解を促すように、静かに眼前の同志に語りかけた。
「君だって思い当たらないはずがないだろう?
  現在、組織から第一に狙われているのは、君かもしれないということを」

世界的な犯罪組織のリーダーとしての被疑者の罪を問うということは
場合によっては芋蔓式に、組織の幹部の罪を暴くことにもなる。
主要なスパイだったはずの捜査官が逮捕された今、
組織の残党には今までと同じ質と量の情報が届かなくなったと考えて良いだろう。

現在、捜査で得られた情報を集積して一元化しているのは、それを武器に法廷に立つメイである。
そしてそのため、地下に潜る組織の幹部たちを引きずり出すかどうかの判断も
おそらく現場レベルでは、彼女に委ねられているはずだ。

つまり、彼女を無口にしてしまえば、さまざまな意味で司法による攻撃を防ぐ可能性が高くなる。
身内の権力争いに集中したいはずの幹部たちがそれぞれ
メイに危害を与えることを考えていても、全く不思議ではない状況なのだ。

「そうね」
それだけのことを説明するまでもなく、メイは御剣の言葉に頷く。
一度同じような理由で狙撃を経験している彼女にとっても、想定の範疇のことだったのだろう。
「でも、それは覚悟の上よ」
本当はその時の恐怖を克服できていないはずなのに、彼女は全く動じることなく、御剣の申し出を断る姿勢を保っていた。

「もっと、自分を大事にしたらどうだ」
全く動じない様子の彼女に焦れた御剣は、少しだけ私情を込めて説得を続けようとする。
するとメイは革手袋に包まれた人差し指を立てて左右に振りながら涼しい表情で笑った。
「確かに、私がいなければ、裁判は混乱するでしょうね。
  ただ、昨日であれば私の存在は絶対必要だったでしょうけれど、今はそうでもない」

涼しい目はどことなく冷淡さを帯びていき、不吉な言葉が御剣の背中に不穏なざわめきを与える。
「実績のある、優秀な部下がいるもの」
開かれた左手は、真っ直ぐに御剣を指している。
同じように直向きな視線を投げかけながら、メイは言葉を続けた。
「私に何かあれば、あなたがアレバストの法廷に立てばいいわ。……去年と同じように」
優雅に笑う口元とは対照的に、彼女の目は全く笑っていない。

想像もしていなかったことを「解決」の方法として出され、御剣はしばらく言葉を失った。
それでもどうにか頭を回転させて、伝えたいことを音にしていく。
「私が言いたいのは、そう言うことではない」

「君に何かあれば……家族が、君の姉上や私がどれだけ辛い思いをすると思っている?」
御剣にとって、メイは最後に残された、たったひとりの大事な「家族」である。
これまでの人生で、肉親や家族のように思っていた人間を次々と喪った彼にとって
最後の家族が同じようにいなくなるなど、本来は何があっても想像すらしたくないことだ。

考えているうちに今にも掴みかからんばかりの態度となった御剣を目の前にして
メイはたじろぐ様子を見せた。……しかし、それもほんの一瞬だけのことだった。
困ったような表情で微笑むと、メイは目を伏せたまま口を開く。
「姉さまにはすでに家族がある。もう、私の家族ではないのよ」

「戸籍上の話だろう。私の知る限り、姉上は君のことを心配している」
昨年メイの負傷を知らせるために連絡を取った電話口からも、
その後御剣のもとへと送られてきた季節の挨拶からも、
メイの姉上が妹を心配している様子が伝わってきた。

少なくともメイに何かあれば、あの人は悲しむだろうという確信がある。
それだけに、バカなことを……と御剣はメイを諌めようとする。
だが、それより早くメイが言葉を継いだ。

「御剣怜侍、あなただって赤の他人に過ぎないじゃない」
視線を上げたメイは、小馬鹿にしたような微笑みを御剣に披露する。

その言葉は、確かに事実だった。
だが、それだけではないはずなのに、彼女は残った大事な部分すらばっさりと切り捨てるような態度を見せている。
彼女からだけは言われたくなかったその言葉を振り払うように、御剣は声を絞り出す。
「血が繋がっていようがいまいが、どんな間柄であろうが……
  私にとって君が大事な存在であることに一切、変わりはない」

湧きあがるさまざまな感情を全て押し殺して、どうにかそれだけ伝えると
その言葉を受けたメイは、考え込むように腕を組み、ゆっくりと目を閉じる。
ほどなくして口を開いたメイの声は、相変わらず冷たい響きがした。

「天涯孤独のあなたが身内同然の私に執着するのは、決して不自然なことではないわ。」
再びゆっくりと開いた目は、まるで1年前のことを彷彿とさせるような、明らかな拒絶を含んでいる。
「けれど、 そもそも“身内同然”なんていうのは、
  パパによって作られた幻に過ぎないと……そろそろ理解してくれないものかしらね?」

突然二人の師のことを引き合いに出され、御剣は眉間に皺を寄せて不機嫌を表す。
確かに御剣とメイを会わせ、長い間同じ屋根の下で暮らすようにしたのは、他でもない彼だった。

きっかけはどうあれ、ふたりは長い年月を一緒に過ごしてきた。
多くの喜怒哀楽を、そしてさまざまな希望や苦悩を、ふたりで共有してきたはずだった。
それすらも否定するかのようなメイの言葉に、御剣は怒りすら感じて声を震わせる。
「幻……だと?」

「あなたが私に与えるべき立場は、本来こうあるべきだわ」
静かに目を伏せて微笑むと、メイは優雅にその手を自分の左胸に当て、
揃えられた指先で己を指し示す。

「あなたのお父様の、仇の娘。」
それはあまりにも、冷やかに嘲笑うような所作だった。

「……私に、君を憎めと言うのか?」
そう問うと、メイは幾分穏やかな様子で小さく頷き、御剣に応える。
「今のあなたにとって、憎むことはとても難しいのだとは理解しているつもりよ」

「憎むべき者を憎むことは、あなた自身とその足跡の否定に繋がるもの」
その言葉は言外に、しかしはっきりとメイの父親――狩魔豪のことを指していた。

御剣の狩魔豪への思いは、非常に複雑なものだ。
憎んでいないと言えば、嘘になる。
信じていた人に裏切られたことを、嘆き悲しんだこともあった。

ただ、師から与えられた知識と理念は、全て師の信じたものだけで構成されているのも事実で
検事としての土台を与えてもらったことに、御剣は心から感謝もしている。

それに、法廷に戻ると決めた時点で、割り切れないながらも気持ちの整理はついていた。
複雑な思いと向き合いながら生きていく覚悟も、その時に決めている。

メイは、確かにその男の娘である。
しかし、彼女は御剣の肉親を殺したわけでもなければ、嘘をついて裏切ったわけでもない。
ただ父親を慕って、その背中を追い続けていただけだ。

御剣が昔のように「犯人」に対してどうしようもなく憎しみを感じていた時期であれば
正直なところどうであったかはわからない。

だが、ある程度の気持ちの整理がつき、また狩魔豪が死をもって贖罪を済ませてしまった現在
その娘のメイへと憎しみを向ける理由も、それだけのエネルギーも、御剣はすでに持っていなかった。

メイが真実を知った後でも御剣の苦しみを理解し、気遣う様子を垣間見てからは
御剣の中での彼女の位置ははっきりと決まった――信頼のおける、大事な存在だと。
だから、御剣ははっきりと答えることができた。
「私には君を憎む理由も、遠ざけるべき理由もない」

「むしろ君がいてくれるからこそ、私は憎しみに囚われずに生きていられる」
そう言葉を続けると、メイは御剣から視線を外し、思いつめたような表情でぽつりと呟いた。
「やはり、あの時の言葉は、あなた自身の思いだったのね」

「あの時の、言葉?」
「先月……あなたは、綾里真宵の気持ちがわかると言ったわ。
  あの小さなお嬢さんのために、悲しまずに明るく振舞うあの子の気持ちがわかる、と。」

ひと月前の法廷の後、春美を探す真宵の様子を見て、御剣は確かにそんな風に感じ
過去に自分もそんなことを考えて振舞っていたことを思い出して、少し胸が締めつけられるような感傷に浸った。
真宵を心配していた成歩堂に、彼女の気持ちを代弁するつもりでそれを言葉にした。
そして、その場にはメイもいた。

先述の通り御剣の中では、DL6号事件に関するメイへの蟠りは、1年以上前に解けていた。
ちゃんと必要なことを十分に話し合って、禍根を取り除いたと考えていたのである。

だからこそ、御剣はメイが同席していても、自分と重なる少女の気持ちについて語ることができたのだ。
むしろ、そんな配慮が必要だと思い至ることもないほどに、それはごく自然なことだった。
「その通り……私は、君がいるから、強くなれるのだよ。」

真宵が春美を大事に思うように、御剣もメイを大事に思ってきた。
そのことを理解してほしいとの思いから、御剣は彼女の推量を肯定する。
だが、それによってメイの表情が和らぐことはなかった。

「けれど、見方を変えればこういうことにもなるわ。」
その声から話の流れが悪い方に進んでいる空気を感じて、御剣はぎくりと戦慄する。
――私は何かを、間違えたのだろうか?

「私がいると、あなたは憎しみも悲しみも……押し殺したまま生きなければならない」
「違う!私は押し殺してなど」
必死に軌道修正を試みる御剣の言葉は、メイの強い口調にあっさりと押しのけられた。
「押し殺した感情は……どれだけ抑えても、ふとしたきっかけで漏れてくるものよ。
  そして言葉より率直に、身体が真実の思いを語る……例えば、先月の地震のようにね。」
地震での気絶という事実を証拠として提示されたことによって、御剣は反証の糸口を見いだせなくなる。

御剣がメイを遠ざけるべき根拠を滔々と並べ立てる彼女の姿に、御剣はあることを理解した。
蟠りは御剣の方には残っていないが、メイの方では水面下に、まだ多くの苦悩が強く残っているのだと。

だとしたら、望みがあるように感じたにもかかわらず、あっさりと求愛を断られたことについても、妙に納得がいく。
メイが御剣との絆を受け入れるためには、もっと話をする必要があった……御剣は今更ながらそう痛感した。

加害者の娘でありながら、被害者遺族である御剣と多くのものを共有して育ってきたために
彼女はどちらの立場にも立つこともできず、抱えてきた複雑な思いを未だ消化できていないのだろう。

重すぎる真実が鎖のように巻きついて、ゆっくりと侵食していくように彼女を過去に縛りつけている。
当事者でもないのに大きな影響を受け、今でも彼女が苛まれているそれは、緩い絶望の匂いがした。

言葉が途切れ、しばらくふたりの間に沈黙が訪れる。
合間に、メイがぽつりと呟いた。
「きっと私が傍にいる限り……あなたはあのエレベーターから、抜け出すことができないのよ」

けれど、それは彼女も同じなのかもしれない……御剣はそう思った。
御剣が傍にいる限り、メイもまた過去に囚われて苦しみ続けるのではないだろうか、と。

もしかすると傍にいなくても、あの事件の真相が記憶の中に存在する限り
彼女はずっと、あの小さな機械の檻に閉じ込められるのかもしれない――
御剣の脳裏に、あの忌わしい闇の中で小さくなるメイの姿がぼんやりと浮かんだ。
 
 
彼女をそこから解放する術も言葉も、御剣には何一つ思いつかない。

法廷や捜査ではいくつも先を読めるはずの思考も、多くの人間を論破できるはずのその口も、
まるで固まったように動かすことができぬまま、御剣はその場に立ち尽くすしかなかった。
 
 
<おわり>