4月某日 午前8時
アメリカ・某所
固定電話の受話器に手を置いて、大きく息を吐く。
受話器を持ち上げて目的の番号を途中まで押して……
そこで躊躇いを感じて、受話器を元の位置に戻す。
そしてまた、大きく溜息をつく。
そんなことを何度繰り返しだろうか。
休日の朝をたっぷり2時間は無駄にしている自分自身に、冥は心底呆れていた。
その手に握られているのは、小さなメモ。
別れ際に、“落ち着いたら連絡が欲しい”と御剣怜侍から押し付けられた、彼の連絡先。
冥はこの連絡先に謝礼の電話をせねばならない。
冥が手負いの状態でアメリカに戻ったことを姉に知らせたのも
日本を離れた冥の、職場と住居の後処理をしたのも
アメリカの検事局に戻れるよう、日本の検事局から内々に口添えをしたのも……
全て、御剣怜侍だった。
お陰で冥は、連絡を受けて駆けつけた姉の世話になることができ、
後処理をするために日本に戻ることなく、治療に専念することが可能になり
退院後、スムーズに元の職場に復帰することができた。
あの空港での別れから、約1ヶ月。
ようやく落ち着いた日常を取り戻した冥は、御剣へ感謝を伝えようと
しばらく荷物の中に閉まっておいたメモを取り出したのである。
メモに書かれているのは携帯電話の番号だけ。
礼状を送るにしても、一度連絡をとって住所を聞く必要があった。
基本的に直情径行の彼女が、たった一本の電話に躊躇しているのには理由がある。
――気まずい。
日本での出来事を思い出していくと、あの国での自分の振る舞いの幼さに……顔から火が出る。
思い出す限り、それはまるで駄々っ子のようだった。
特に、御剣怜侍の前では、相当取り乱して喚いていたように思う。
極め付けに……長年抱えてきた本音を洗いざらいぶちまけた上
検事になってから誰にも見せないようにしてきた泣き顔まで見られてしまった。
これだけ情けないところを見せてしまった上に
負け犬の遠吠えのごとく、宣戦布告までしてきたのだ。
落ち着いて考えれば考えるほど、恥ずかしくて居てもたってもいられなくなる。
しかも、それだけのことをした相手が……父の凶行の被害者でもあることを考えると
本来ならば、合わせる顔も、聞かせる声もあったものではないだろう。
それでも、御剣が冥にしてくれた多くのことを考えると
このまま礼も言わずに逃げるのも、ありえないことだと思った。
日本との時差を計算して、まだ迷惑な時間にはなっていないことを確かめる。
今度は息を止めて受話器を上げ、一気に何桁もの番号を入力する。
――とにかく、礼を言ってしまえばいいのよ。
呼び出し音を聞きながら、自分にそう言い聞かせる。
20秒程待っていると、左耳の向こうに遠い世界が広がった。
『……御剣だ』
予想していた通りの声がする。
なのに、覚悟が足りなかったからか……思わず動揺してしまう。
「知らない番号からの電話にわざわざ名乗るのは、考えものではないかしら」
つい、名乗るよりも減らず口の方が先に漏れてしまった。
『……め、メイ?!』
名乗らずとも、相手には通じたようだ。
「久しぶりね」
『あ、ああ……。』
受話口の向こうから、騒がしい空気が伝わってくる。
「もしかして、タイミングが悪かったかしら?」
『いや、そうではない。少し驚いただけだ』
『お、もしかしてかるま検事ですか?』
『……その名前を聞くと、頭の奥でムチの音が響くッス……!』
ざわざわとした雑音の中に、聞き覚えのある声がいくつか混ざる。
『す……少し待っていてくれ。ここは騒がしいので場所を変える』
『おいミツルギ!メイって一体誰な』
知らない男の声がしたが、途中で御剣が通話口を塞いだらしく、左耳の向こうは静寂に包まれた。
もしかすると、週末の和気藹々とした時間を邪魔してしまったのかもしれない。
しばらくして、受話口からの音が解放される。
『……待たせた』
御剣が外に出たのだろう。
今度は遠くに車の音が聞こえた。
「賑やかね」
『ああ……近々日本を離れるので、成歩堂たちが餞別の席を用意してくれたのだ』
「そう。元気そうで何よりね。」
楽しくやっているようで、安心する。
『……君は、元気か?』
「ええ。全力で鞭を振り回しても、身体が痛まなくなったわ。」
……それが基準なのか、と小さな声が聞こえた気がした。
『生活は、順調か?』
「お陰さまで、法廷にも立ち始めたわよ」
『そうか……思ったより早かったな』
「誰かさんがいろいろと協力してくれたお陰で、スムーズに復帰できたの」
『ム……それはよかった』
御剣の声に、心なしか安堵の音が含まれたような気がした。
「その誰かさんに感謝を伝えるために、こうして電話したのよ」
『……そうなのか』
「ええ……先日は、いろいろと世話になったわね。礼を言うわ。」
そう伝えると、御剣がフッと笑ったような音が聞こえた。
『……礼には及ばない。私はしたいようにしただけだ』
「そう……でも、こちらは助かったわけだから、きちんとお礼がしたいの。
研修先の住所を教えてもらえるかしら」
『……ム、住所か。それは構わないが……
君はさっき……礼を言っていたではないか。』
どうやら、それ以上は必要ないと言われているようだった。
「日本では世話になったら3度感謝を伝えて、菓子折りを贈ると聞いたわ。
それに倣うのは当然のことよ。」
はっきりと言うのは癪だが、最大限の礼を尽くしておきたかった。
それに対して、電話口ではフム……と男が思考する時の呟きが漏れ聞こえる。
『気持ちはありがたいのだが……私に何か送ってくれるつもりなら』
『物よりも、電話や手紙の方がいい』
「……電話や手紙?」
『君が元気で暮らしているのか……君自身から教えてもらえることが、私は一番嬉しい』
それは懐かしい、兄弟の声色のように聞こえる。
「でも……」
御剣がそれを望むならそれでもいいのかもしれないが、
冥の中には、御剣と連絡を取り合うのに躊躇いがあることも事実だった。
『“勝負はこれから”などと言っていたのに、連絡も寄越せないような生き方をするつもりか?』
挑戦的な男の含み笑いに、冥はつい、反射的に言葉を返す。
「そ、そんなことは、あり得ないわよ!」
『では、決まりだな。』
御剣の声に、してやったりと言いたげな響きが含まれる。
簡単に乗せられてしまったことに気付くのに、そう時間はかからなかった。
連絡先を確認し合って、電話を切る。
まるで大仕事を終えた後のように、冥は深い溜息をついた。
これからは、噂を聞いたり仕事先で偶然会うくらいの関係が妥当だろうと思っていた。
昔のような気安い関係には、戻るべきではないのだろう、と。
なのに今、繋がりを断たれなかったことに、安堵している自分がいる。
走り書きで住所を書き足された先程のメモを、冥は無意識に軽く、唇に当てる。
その顔に浮かぶ困ったような幸せそうな表情は、しばらくの間誰に見られることもなく保たれていた。
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「さっきの電話、狩魔検事から?」
矢張が店の会計をしている間に、成歩堂が尋ねてくる。
その横で、綾里真宵も興味津々の表情で聴き耳を立てていた。
「ああ。向こうの検事局に無事復帰できたそうだ」
「そうなんだ。」
「良かったね、かるま検事」
「……ああ。」
成歩堂がレジ横の飴の存在を教えると、真宵はそちらに走っていく。
後に残されたのは、幼馴染の2人だけ。
「どうでもいいけど、御剣」
法廷で矛盾を指摘した時のような笑みを浮かべて、成歩堂が御剣に言った。
「さっきから、顔……緩みっぱなし。」
「!……そ、そうだろうか」
「また矢張に問い詰められるぞ」
「……それは面倒なので、気をつけることにする。」
たくさんの飴を手にした真宵が戻ってくると、成歩堂が優しい目をして彼女を見下ろす。
外で待っている糸鋸と春美のところへと、真宵と並んで歩く男を見ていると
御剣も微笑ましい気分になる。
――私も、今のあいつと同じような顔をしていたのかもしれないな。
何とはなしに、ポケットの中の携帯電話を取り出してみる。
さっきまでただの通信機器だったそれは、今ではメイと繋がるための拠り所となった。
長年使い込んで見慣れたはずのそれが、全く新しいものにすら感じるから、不思議なものだ。
そんなことを考えて、御剣は真顔に戻したばかりの顔を、こっそりと再び緩めた。
<おわり>