「迷子をさがして」

 

男が去っていたのを耳で確認して、冥はかぶっていた布団を下方にずらす。
息苦しさから解放されて、思わず溜息が漏れた。

――あの男は、心の底からバカに違いないのだわ。

加害者の娘に対して、加害者意識を持つなんて。
自虐的とも言うべき言葉を思い出して、溜息が再度口を吐く。

それだけ御剣の中で、「あのこと」はまだまだ気持ちの整理のつかない混沌とした闇なのかもしれない。
そう考えると……あの言葉の裏にあるものは、相当の――

そこまで考えて、思考が止まった。
何故かそれ以上考えることが怖くなって、冥は御剣の心情について考えることをやめる。


次の瞬間ふと、先ほど御剣から見せられた資料のことが脳裏をよぎった。
その内容を反芻しながら、自分の降りた裁判について思考巡らせる。

実行犯は、極秘の重要事項としてもともと頭に入れていた人物だったが
その犯行を実際に目の当たりにすると、薄ら寒いものを感じた。

依頼人を守るためならば、どれだけの人間を犠牲にしても構わないということだろう。

冥自身、担当検事であるという理由で狙撃され、こうしてベッドとの抱擁を余儀なくされている。

だがむしろ、綾里真宵……そして場合によっては真犯人の汚名を着せられるであろう、
華宮霧緒に関することの方が深刻だ。

命や人生……言い換えれば、あるはずの未来を奪われようとしているのは、二人とも共通している。

話を恐ろしくしているのは、どちらかを助けようとするともう片方が犠牲になる状況が作り出されるであろうこと。
これは実行犯の意図するところではないのかもしれないが……
どちらをとっても、後味の悪い結果になることは間違いなかった。

担当弁護士の成歩堂と担当検事の御剣が、昨日から見苦しい馴れ合いをしているのは
そして恐らく、今思えば……あの刑事が単独で弁護士に情報を垂れ流していたのも……
それを防ごうという意志に基づいた、合意と努力の表れだと見受けられる。

だとすれば、それがうまくいかなければ……きっと、彼らも傷つくだろう。

あの正義の味方然とした弁護士にとっては、今までの彼の信念が覆されるか、
あるいは、大事にしている様子だった少女を失う事態になる。

御剣は恐らく、真犯人を見逃そうとはしないはずだ。
それで綾里真宵を犠牲にしたとしても、法廷の中で動じることは、ない。
ただ、素顔に戻ったときの彼は深く悲しみ、また自分を責めるのではないだろうか。

そこまで考えて、冥は思わず笑った。

昨日までならば、考えられなかった事態が起こっている。

これだけ成歩堂龍一に嫌悪感を抱き、御剣怜侍を憎んでいるのに、
彼らを心配している自分がいた。

そして、勝利のためならば、被告人だろうが証人だろうがどうなろうと構わないと思ってきた自分が
綾里真宵と華宮霧緒の身を案じ……
自分と似たような考えを基に行動している、今回の実行犯を恐ろしいと感じているのだ……。

******

「狩魔さん、電話ですよ」

看護師に起こされるまで、冥は自分がいつの間にか眠っていたことに気付かなかった。
時計を見ると、すでに午後2時過ぎを指している。

「警察の方からです」
そう言われ、職員用と思われる電話の子機を受け取った。

電話の相手は、警察ではなく検察の人間だった。
「……メイ!」
切羽詰った御剣怜侍の声の背後から、慌ただしい現場の声と音がする。
裁判は、まだ終わっていないようだった。

綾里真宵が監禁されていたと思われる場所から、
被告人の罪を立証する可能性のある、いくつかの遺留品が発見された。
ただ、それを持ち出したヒゲの男が裁判所に向かう途中に事故にあったらしい。

冥が使っていた電波受信機でヒゲを探して、
警察が回収する前に、遺留品を確保して届けてほしい――
手短にまとめると、そういう依頼らしい。

「…………」

状況は、弁えているつもりだ。
だから、いつもの調子で撥ね付ける言葉を出す気にはならなかった。

かといって、この男の言葉を、あっさり承諾する気にもなれない。

……人の命がかかっているのに……
どうしても、「わかった」という言葉が詰まって出てこなかった。

状況を変えたのは、御剣の言葉だった。

「“狩魔検事”――頼む。キミの助けが必要だ。」

時間がないのだろう。後ろで、御剣を呼ぶ声がしている。
思惑がどうであれ、最大限に敬意を払われたことで、ようやく声を出すことができた。

「遺留品を持っていけば……どちらも、守ることができるのね?」

御剣の説明から、被告人の無罪が立証できていないことが暗示されている。
だとしたら、華宮霧緒への“冤罪”に話が傾いている可能性も、多分にあった。

冥の質問の意図を察したのか、数秒の間を置いてから、御剣が答える。
「ゼロに近い可能性が、楽観的に見て五割にあがるといったところだが……。」

それは、十分な上昇だった。

「ならば考えておくわ。せいぜい時間を稼いでおくことね」
一方的に、電話を切る。

御剣が朝に置いていった荷物を漁ると、いつもの仕事着の替えが見つかった。
迷わずに引っ張り出して、それを着込む。

必要なものを持って、冥は病室を飛び出した。
電話機を取りに来た看護師に止められそうになったが、使い慣れた鞭で突破する。

依頼に応じるならば、一刻を争う事態だった。
誰にも、止められるわけにはいかない。

******

御剣から受け取った手がかりは、裁判所から車を相当飛ばして、20分前後である、ということ。
怪我人がひとり、徒歩で捜索するには……不可能な距離だった。

捜査員たちと連絡を取り協力を持ちかけて、現場の地点など、情報を受け取る。
その上で、敢えて警察車両ではなくタクシーを拾って、車を走らせた。

……現場から裁判所までの最短ルートを中心に、受信機をフル稼働させる。
 

「……見つけた……!」

ヒゲの男は、相当無理な近道を思いついたようだった。

広くて人気のない廃工場の敷地内を、無理やり横切ろうとしたのだろう。
配電用の電柱に、オンボロの車体が見事なほど無残にくっついている。

車の中には頭から血を流した状態で、馴染みのヒゲ男が動かない状態でハンドルに突っ伏していた。
幸いエアバッグは開いているので、もしかしたら、軽い怪我と気絶で済んでいるのかもしれない。

「ヒゲ!起きなさい!」

頭を打っている可能性がある時は刺激を与えてはいけない、という一般論を忘れ、
冥は車のフレームをガンガンと叩いた。

しばらくすると男の肩がぴくりと揺れ
そのままのっそりと、大男が上体を起こす。
生きていることを確認して、冥の口から思わず安堵のため息が洩れた。

「……自分は……?」
「どうやら軽傷のようね、ヒゲ。」

割れたガラス越しに改めて声をかけると、ヒゲは恐れ慄いた表情でゆっくりと冥の方を向く。
まるで死神でも見るような目と、視線がぶつかった。
失礼極まりないわね、とは言わずに、冥は用件を伝えた。

「検察側から依頼を受けて、あなたが持ち出した遺留品を回収しにきたわ。
  車の中を調べさせてもらうわね」

「……検察側からの……ッスか」
ヒゲの言葉に、警戒が滲む。

「あなたのことを心配しているようだったわよ、あのオトコ。」
敢えて、依頼主の個人名は口にしなかった。
それでも充分、ヒゲの思惑と外れたことにはならないということは伝わったようである。

携帯電話でもう一台タクシーを手配すると、車内の捜索を開始した。

元刑事はしばらく驚いたような視線をこちらに向けていたが、
途中で我に返ったように、冥を手伝おうとする。

見たところ、怪我も大したことはなさそうだが、
普段より意識が朦朧としているようにも見えた。

「あなたは黙って安静にしてなさい。病院行きの車を呼んであげたから」

そう言うと大男はますます戸惑っているようだったが、
いちいち、この男に構っている時間はなかった。

遺留品らしきものは、事故前には助手席に置かれていたのだろう。
助手席とその足元に、乱雑に散っているのが見えた。

割れたガラスの破片に注意しながら、ボーイの制服とビデオテープを拾い上げる。
どちらも、法廷記録や御剣のメモから関連がうかがえた。

そして……ピストル。
ホテルでの事件には、使われていないはずのもの。

だとすると恐らく、これが……私を。
一瞬戦慄が走り、鎮痛剤が効いているはずの肩が、激しい痛みと熱を感じる。

ピストルをさっさと視界から消すために……いや、荷物をまとめるために
冥はヒゲからコートを借り、それでくるむ。

「……物は、ここにあるだけね?」

やはり朦朧とした表情の男がそれに頷いたので、車内の捜索を終了する。
ほどなくして到着したもう一台のタクシーにヒゲを押し込むと、冥も待機していた車に乗り込んだ。

「できるだけスピードを出してちょうだい。ただし、安全運転で。」

御剣の電話から、もうとっくに、1時間ほど経過している。
確認をとったところによると、裁判はまだ終わっていないようだが……。
間に合うか、どうか、わからない。

――終わらせていたら、ただでは済まさないわよ……!

メイは自分でも気付かないうちに、あの2人の男たちの手腕に祈っていた。
 

そして、約30分後――

ヒゲから聞いた抜け道を運転手に伝え、改めて協力を仰ぐと、
運転手はワクワクとした表情で、最大限に冥の期待に応えてくれた。

その間に、現場の捜査官から遺留品の詳細について問い合わせ、
裁判所に詰めている職員に連絡をとって、裁判が続いているかどうかを確認する。
審議は、まだ終わっていない、とのことだった。

裁判所に到着すると、冥は運転手に礼を言い、料金とチップを渡して車から降りる。

――行かなければ。

あの法廷には、私の手の中にあるものを必要とする人間がいる。
そして、狂わされるべきでない、いくつかの人生が守られるかもしれない。

普段、冥が聖域である法廷を走ることはない。
だが、ことは一刻を争う。

履き慣れたヒールの踵を響かせながら、冥は可能な限りのスピードで走る。
そして、無我夢中で、目的のドアを叩き開けた。

その場の静寂と弁護士の叫び声から……冥は、間に合ったかもしれない……そう肌で感じ取った。

遺留品の説明を終えた冥は、適当な場所でお手並みを拝見しようと居所を探す。
ふと、御剣怜侍がその傍らを示していることに気が付いたため、そちらに歩み寄った。

向こう側の席では、弁護士と助手が何やら相談をしている。

「私は担当でも、あなたの助手でもないのだけれど」
小声でそう問いかけると、御剣も小声で声を返す。

「さっき、怪我をした方の肩を使ってドアを開けただろう」
だから、と言わんばかりに言葉が続いた。
「審議の行く末を見たいのであれば、私の傍でそうしたまえ。」

御剣の指し示す場所は、彼の立ち位置の左後ろのあたりだった。
そこにはトランクケースが置いてあり、ご丁寧に、彼のコートが敷かれている。

「そこならば多くの場所から、死角になる。」

多少見苦しいことになっても、ここならば大丈夫だと言われているらしい。

実のところ……痛覚を誤魔化すための薬は、念のため病院を出る前に飲んではきていたが
気が抜けた途端、鈍く痛みを感じ始めている。
それ以上に血の気も引いていて、少し身体を休めたいのも確かだった。

冥が黙って腰を下ろすと、御剣が一瞬だけ穏やかに笑う。
その後は弁護席を向き直って、成り行きを見定めるようにまっすぐと立っていた。

低い位置から、御剣怜侍を見上げ……眺めてみる。
冥の視界に映るのは、鋭く真剣な横顔と、大きな背中。

その姿に、懐かしい少年の輪郭が、朧気に重なる。

このくらいの身長差のころからだっただろうか。
冥が、この男の“背中”を意識し始めたのは。

――この男は相変わらず大きくて、私は相変わらず小さくて……
    結局、何も変わっていないのかもしれない……。

裁判の流れを耳で追う傍ら、冥はぼんやりとそんなことを考えた。

******

同日午後7時、検事局玄関――

必要な作業を済ませて最低限の荷物を持ち出すと、
冥は待たせていたタクシーに乗り込んだ。

車の中には、すでに大きなトランクケースが横たわっている。
するべきことを終えたので、冥はいつでもこの街を出ることができた。

法廷は、思いつく限り最良の結末で幕を閉じたが……・
冥の心中はその反対に、モヤモヤとしたものが未だに蠢いている。

あそこで戦っていた人間たちの言葉が、どうしても理解できないのだ。

中には、頭でならば理解できていることもあった。
勝敗よりも、大事なものがあるのだ……と。

それでも、何の葛藤もなくそれを受け入れて笑っている
成歩堂龍一の精神構造がわからない。

狩魔の人間にとって、勝利以上に大事なものはない。
それを曲げて新しい考えを受け入れることは、冥にとっては非常に困難なことだ。

それだけに……彼の敗訴で救われた人間が何人もいることを好ましいと感じつつも
冥には、負けて喜ぶ男の笑顔は、どうしても理解できなかった。

そして、同じ狩魔である……少なくとも以前はそうであったはずなのに
同じように穏やかな笑顔でそれを見守っていた、御剣怜侍の神経も。

いや、きっと……頭では、わかっているのだ。
御剣は、すでに冥には見えないものを見据えているのだと。

勝敗より大事なもの……“真相”を手に入れるためには、
検事と弁護士の信頼と、全力でぶつかり合うことが必要、という言葉が、それを示していた。

御剣は、成歩堂龍一にその“信頼”を見出している。
そして彼らは、その思いを共有しているようだった。

成歩堂と御剣は今、挫折を越えた向こうにある、同じものを見据えている。
……その先に、新たに構築されるものを、見ている。

冥にはどうしても見ることのできないものを、より高みの境地で確信しているのだ。

そこに入る余地はなく、どんなに追いかけてもそこには辿り着けないように感じて……。
冥は自分の無能さを――彼らにとって、自分が箸にも棒にも引っかからない存在だったことを思い知った。

自分はただずっと、一人でじたばたと、バカのように空回っていただけだったのだと。

それを打ち消すために――そもそも彼らが見ているものなど必要ないものだと言い聞かせるために
冥は狩魔の教えにしがみつこうともした。

だがすでに敗北を重ねた彼女は、本当はとっくに……“狩魔”を名乗る資格すら失っていた。

それらを思い知った途端、
冥はまるで大海の真ん中で一人浮かんでいるような感覚を覚えた。

焦燥と絶望の中、どうすれば自分が救われるのか、わからない。
どこへ行けばいいのかも、自分がどちらを向いているのかもわからない。

彼女にできたのは、ただ鞭を捨てて、その場から立ち去ることだけ。

鞭と、“狩魔”の名……最後の望みのようにしがみついていた浮き板を手放して、
ただ海の底に沈んでいくことだけだった。

******

約1時間後――

ホテル前で客待ちをしていたタクシーに乗り込み、御剣は行く先を告げた。
その手には電波受信機と、使い慣らした形跡のある鞭が握られている。

『ありがとう。‥‥お前たちのおかげだよ。
  お前と、‥‥彼女の。』

シゴトが残っている、と退席しようとした御剣に、
成歩堂は鞭を渡してそう言った。

あれだけ認められないと言っていた彼女を、成歩堂が認めた。
そして彼は、彼女のトレードマークとも言うべき鞭を、御剣に託したのだ。

もしかすると友人も、彼女の本性が血も涙もない“わからずや”ではなく、
心細いのを悟られまいとしているだけの迷子であることを、薄々察したのもしれない。

成歩堂に鞭を投げつける一瞬に彼女が見せた、悲しそうな目の光が、頭の奥でちらついた。

彼女にとって、鞭は彼女の一部であり、検事としての彼女自身の象徴でもある。
それを投げ捨てるということが、どういうことなのかを考えると……。

今度こそ取り返しがつかなくなる前に、彼女ともう一度話をしなければ。
御剣はそう感じたからこそ、楽しんでいた宴席の場を離れた。

受信機のスイッチを入れると、耳触りの良くない電子音がタクシーの中に響く。
発信機を持ったままの彼女の、素直ではないシグナルのように思えて
御剣の表情は愛しげに緩んだ。

当初は、彼女が落ち着く時間を見計らって病室を訪れるつもりでいた。
だがどうやら、そこに行っても……もう、彼女とは会えないようだ。

受信機が示す方角には、病院も検察局も、伝え聞いた彼女の住居もない。
その方向で目立つものと言えば、国際線の空港くらいに思われた。

これまでのことを踏まえると、彼女が日本を去ろうとしていると考えるのが妥当だ。

だとすれば、こうして助けを求めて叫んでいても、タイムリミットと共に彼女は消えてしまう。
それまでに、彼女を捉まえなければならない。

直面しているであろう“死”の淵から、彼女を引っ張り上げる。
もしくは、いつか再び蘇る日のために、必要な種を蒔いておく。

去年友人から御剣に与えられたものを、今度は御剣が、彼女に与える。

御剣にとって、それこそが残された最後の“シゴト”だった。


<おわり>