闇の中で、目の前の像だけが、淡い光を纏っていた。
“どうして、銃を投げたりしたの?”
知っている中で一番幼い姿の彼女が目の前に立っている。
“あなたがそんなことをしなければ、パパもきっと……あんなことはしなかったのに”
涙を流して自分を見上げる。その目は、悲しみと憎悪で満ちていた。
“あなたが震えたまま大人しくしていれば、きっと誰も不幸にならなかったのに……”
いつの間にか年相応の姿になった彼女が、同じ目で静かにこちらに詰め寄った。
“ねえ、どうして銃を投げたりしたの?どうしてあなただけが、罪を問われずにのうのうと生きているの?”
彼女が、手の鞭を御剣の首にかける。
何故か、体が動かなかった。
“会いたかったわ、御剣怜侍。こうして復讐を遂げたくて……ここまで来たのよ”
彼女が、涙を流したままうっとりと微笑み、その両の手に力を篭める。
首に巻きついた鞭が窮屈に鳴り、御剣から酸素と血の巡りを奪っていった。
“あのまま、窒息してしまえばよかったのに”
遠くで、感情のこもらない声が聞こえて……
――!!
そこで、目が覚める。
首に手を当て、そこに何もないことを確かめた。
その上で、いつもは巻きついていても平気なはずのクラバットに手をかけ、手早く外す。
仮眠をとっていた執務室のソファの上で、御剣は肩を使って呼吸を整えた。
師の死刑が確定してから、時折、こんな夢を見る。
この前までは、幼い彼女がただ泣いているだけだったのに
彼女に再会したからだろうか……よりリアルで救いようのない内容に変化を遂げていた。
伝え聞いた“復讐”という言葉が、御剣の心にある後ろ暗い思いを強めている。
彼女と顔を合わせることを、どこか怖いとさえ思った。
それでも……憎んでいるはずの自分に縋るほど追い詰められた、昨夜の彼女の姿を脳裏に浮かべると
やはり、傍にいたいとも思うのだった。
3月23日 午前7時――
宣言どおり、その男は朝早くにのこのこと現れた。
「面会時間はまだまだ先のはずよ」
冥がそう咎めると、御剣は1冊のファイルを差し出す。
眠る時間がなかったのか、少し疲れているのが表情から伝わった。
ここから直で法廷に向かうつもりなのだろう。ファイルの中身は今回の事件の記録だった。
「付箋より前は、キミの資料だ。そこから後ろを読めば、状況は把握してもらえる。」
できるだけ速いスピードで、新しい記録に目を通す。
一日で増えたページの多くは、昨日の公判の速記と、御剣の筆跡で書かれた捜査メモで占められていた。
10分で大まかに目を通し終え、冥は非常に不愉快になり……顔を歪めた。
「……とんだ、茶番だわ。」
しかも、全く笑えない。
華宮霧緒のこと、実行犯の正体、綾里真宵の誘拐、弁護士への要求……そして担当検事と弁護士の“共闘”。
冥の狙撃もこの事件に絡んでいるのだということも、そこに記載されていた。
つまり、この時間に御剣がここに通してもらえたのは、「被害者」への事情聴取のためなのだろう。
「……私は証言として有効なものは……恐らく何ひとつ、目撃していないわよ」
ファイルを返しながら、冥は自分が役に立たないことを正直に告げる。
「……そうか」
それは承知、と言いたげな返事だった。
「時間外の面会を許可してもらった理由はそこだが、私はキミと他の話をするつもりで来たので、問題ない。」
そう言えば、昨夜も安全を確認すると言って、特にそこに気を配っていた様子もなかった。
「……職権濫用ね」
冥がそう言うと、御剣がフッと笑みを漏らした。
それから彼は椅子に座り、冥と視線を合わせるように向かい合う。
「……キミは何故……検事として、日本に来た?」
唐突に、事件とは関係のないことを問われた。
このストレートさを考えると、恐らくこれが、彼にとっての“本題”なのだろう。
「……あのヒゲあたりから、聞いているのではないかしら?」
暗にあの刑事との繋がりを皮肉るも、男はそれをすんなりとかわした。
「キミの口から、聞きたい。」
ストレートで意志の通った声が、部屋に響く。
冥が公言していることは、ひとつだけだった。
「“復讐”よ。……裏切り者への。」
御剣を直視する。しばらく二人は睨み合うようにしていたが、しばらくすると御剣が俯いて、視線を外した。
「……そう、か。」
吐き出すようにそれだけ言うと、男は再び視線を冥の方へと戻した。
「……だが、本当にそれだけだろうか?」
「どういうこと?」
そう問うと、御剣は何かを訴えかけるような目をして、冥に彼なりの考えを提示した。
「復讐より先に、キミにはしておきたいことがあったはずだ」
お得意の議論中であるにもかかわらず、珍しく余裕がないように見えるのは……気のせいだろうか。
御剣が、書類ケースの中から、1つのエアメールを取り出す。
冥は、そこにある筆跡に馴染みがあった。
「返事を、くれなかったくせに……」
父が逮捕されてしばらくのち、悩んだ末に冥が御剣に宛てた手紙だった。
「すまない……最近、読ませてもらった。」
1カ月以上が過ぎても返事がなかった時点で、読まれなかった可能性も考慮に入れていた。
加害者側の人間の手紙など、傷ついた被害者にとっては苦痛のはずなのだから。
「これを読んで……アメリカにいるキミには、何も伝わっていなかったことを知った。」
……それは、もどかしい日々だった。
まず、御剣が殺人容疑で逮捕されたというニュースが飛び込んできた。
遠くの国の一検事の不祥事など、アメリカのメディアが大きく取り上げるわけもなく、
インターネット経由のニュースは、通り一遍のことか、客観性の薄い憶測が含まれたものかのどちらかで
冥のもとへは、正しいと思われる詳細などほとんど入ってこない。
慌てて父に連絡を入れるも、詳しいことは教えてもらなかった。
“日本に来るな。そして、御剣と連絡をとるな。己の仕事を全うせよ。”
それは、厳しい口調での命令で……冥は父に逆らうことができなかった。
数日後、御剣が無罪となり……
今度は父が殺人教唆の罪と、御剣の父親を殺害した罪で逮捕される。
世界が、崩れるかと思った。
勾留され連絡のとれない父の代わりに、思いつく限りの知り合いに連絡をとる。
だが、すでに何らかの手が回っており、誰一人、何が起こったのかを話してはくれない。
“日本に来てはいけない。御剣と連絡をとってはいけない。アメリカで仕事を続けなさい。”
父とほぼ同じことを、全員から諭された。
……今振り返れば彼らは、まだ若い狩魔の娘を、過酷な事実や中傷から守ろうとしていてくれたのかもしれない。
それでも当時の彼女にとっては、もどかしくて不満なことにしか映らなかった。
父へ宛てた手紙の返事にも、やはり同様の内容だけが書かれていた。
アメリカの検事として、その事件の捜査や法廷の記録の閲覧を求めても、
「部外秘のため、開示できない」の一点張り。
御剣が逮捕され無罪となった事件についても、同様の理由で開示は断られた。
パパは一体何故、レイジのパパを殺したりなんかしたの?どうして……?
そしてレイジには、いったい何があったの……?今、どうしているの……?
――いったい、何が起こったの?今、どうなっているの?
求めた答えの大部分は、彼女の手に届かない。
毎日もどかしい思いに駆られながらも、どうにか己の仕事を全うしていく日々が続いた。
次第に我慢ができなくなり、父の言いつけを破って……冥は御剣に手紙を書いた。
深く傷ついているであろう彼に、謝罪の言葉を紡ぐ。
事情を聞き出すような一言を書いて送ったことを、
望まれるはずもない手紙を書いて送ったこと自体を……
あとで後悔したりもした。
自分でも、何のためにそれを書いて送ったのか、その時はよくわからなかった。
今思えば……とにかく返事が、反応が欲しかったのだろう。
だが、御剣からの返事はこなかった。
手紙を書いてしばらく後、御剣が“死”を仄めかす言葉と共に失踪したという噂を耳にする。
もう、限界だった。
冥は日本行きを心に決めたが……
ただ行くだけでは望むものをほとんど掴めないことは、今までの流れから予想できた。
冥は、自分独自のコネクションの中から父の影響の薄いルートを探した。
そこから日本の司法に時間をかけてアプローチをかけて……
自分が持つ全てを駆使し、
やっとの思いで秋霜烈日の紋章を手に入れる。
こうして彼女は日本の検事として認められ、受け入れられることとなった。
目的の検事局には父と御剣の分の席が空いていたため、そのどちらかに座る。
その強引な横入りに非難の声が上がり、“どちらにしろ汚れた椅子だ”と陰から言われたりもしたが、気にはならなかった。
あれだけ熱望した記録の数々を手に取ることができるのであれば、外野の声はどうでも良かったのだ。
その全ての流れを見透かすかのように、目の前の男が言った。
「受け入れられない悲劇に見舞われたとき、多くの人は、立ち直る術を求める。
……真実を知ろうとすることも、その一つの試みだ。」
たとえ、その結果救われることがなくても、それどころか……余計に苦しむのだとしても。
きっと多くの人は、真実を手に入れたくて仕方がなくなるのだろう。
冥も、確かにその一人だった。
「もし……真実を求めた人間が手にしたものが、実は虚偽で固められたものだとしたら……
もしくは手に入らずいつまでも闇の中に取り残されるとしたら……それはどんなに残酷なことだろう。」
御剣がそうして闇の中で15年を生きたことを、冥は知っている。
男の心中を思い、胸が締め付けられた。
「さて、“狩魔”の後継者であるキミに問いたい。」
男が改めて、冥の目を直視する。
「法廷とは、検事とは……誰のために……何のために、存在するのか?」
ここは、先述の言葉を考慮に入れた上での答えを求められている……そう考えるべきなのだろう。
だがそれでも、彼女が出すべき結論は決まっていた。
「私が“狩魔”である限り、その答えはパパと同じだわ。」
天才の名を受け継ぐ者は、忠実なる再現者であることが暗黙のうちに求められる。
“そんなくだらん問いに答える必要はない。我々はただ、カンペキな勝利を求めるのみ。”
恐らく父ならば、そう答えるだろうと、冥は思う。
「では……キミの考えは、どこにある?」
「……パパと同じよ。」
そう答えると、御剣が可笑しそうに口の端を歪めた。
「そう答える時点で……キミはすでに狩魔豪と同じではない。」
体温が上がるのを感じた。
「彼ならば、戦術として意義を感じる時以外は、はっきりと考えを述べるだろう。
“誰かと同じだ”などとは、きっと言わない。」
天才の名を受け継ぐ者は、忠実なる再現者であることが暗黙のうちに求められる。
……彼を超える才能でも、持たぬ限り。
そんなものは、持ち合わせていなかった。
例えば御剣怜侍が持つ、鋭敏なロジックのセンスや発想に匹敵するようなものを。
だから冥は、できるだけ純粋な複製となる必要がある。
狩魔豪の栄光をそのまま照らし出す、写し鏡のように。
それなのに、コピーにすらなれていない。
一番言われたくない相手に
それを指摘され、冥は目を伏せて唇を噛みしめた。
「キミが敢えて口にしなかったのは……私に気を使ってくれたのだろう?」
その声は、どちらかというと優しい響きをしている。
それだけに“キミには覚悟が足りない”……そう揶揄された気がした。
中途半端に目の前の男の心情を慮ったがために、
父を再現するという最大の使命を放棄したのだと指摘されたのだ、と。
先ほど読んだ記録の御剣は、華宮霧緒から必要な証言を得るために、
彼女の存在を否定しかねないほどの揺さぶりをかけて、言葉を引きずり出していた。
冥自身、昨日の出廷の件では、御剣の迫力に負けて担当を降りたようなもの。
――キミは、“ゲーム”が楽しかっただけ。覚悟なんてない。
だから、キミは私に勝てないのだよ……。
そう、言われたような気がした。
そのやりとりは、御剣が思った以上にメイの心を抉ったようだった。
目を逸らして歯を噛みしめるメイの表情から、御剣はそう感じていた。
狩魔豪のコピーとしては邪魔な性質を、メイはたくさん持っている。
例えば、実は意外と正義感が強かったり、面白いほどまっすぐな性分をしていたり……
……隠してはいるが相手を思い遣ったり、情に篤かったりするところも、その一部だろう。
決して悪いことではなく……むしろ御剣には好ましく映るのに。
特性に合った振舞い方をすれば、彼女の実力をより高みに乗せていくことも可能なはずなのに。
現実には、そうした性質が彼女を追い詰めていくのだ。
「メイ……」
たまらなくなり、声をかける。
「キミが今のスタイルを続けていくことは……
恐らく、キミ本来の持ち味を殺してしまうことになる。私は、それが心配だ。」
メイが、怪訝な表情をした。
「私は……パパの後継者。持ち味なんて必要ない。むしろ邪魔なものよ。」
敢えて己を殺すのだと、ごく自然な声が返ってきた。
それを聞いて御剣は……恐らく、がっかりした。
彼女の心には、父親の言葉しか伝わらないのだ……と。自分の声は届かないのだ、と。
だとしたら、これ以上言えることはないのかもしれない、と思う。
時計を見ると、8時を過ぎていた。
「……そろそろ時間だな。」
御剣は、自分の荷物を持って立ち上がる。
「いつか、君自身の言葉で……先程の問いに答えてほしいものだ。」
そう言って彼女の頭にぽんと手を載せると、メイの左手がそれを振り払った。
「また、上から物を言う……」
拗ねたような表情がよく知っている彼女と重なって……御剣は思わず頬の筋肉を緩ませた。
そのまま軽い挨拶をしてドアの方へ向かって歩く。
すると……数歩もしないうちに、背後から声がするのを聞いた。
「……御剣 怜侍。」
メイの声が、御剣の背に届く。
御剣が後ろを向くと、メイが真剣な目でこちらを見ていた。
「私は……狩魔の名に泥を塗った裏切り者に“復讐”しようと思って日本へ来た。」
別れ際に物騒なことを、言うものだ……と御剣が思っていると、メイが言葉を続ける。
「けれどそれは、法廷記録を読まずとも、
それまでのあなたの敗訴の件とニュースでわかる範囲のことを知っていれば……充分に思いつくことができるはずではないかしら」
心底、不思議そうな声に聞こえる。
まるで彼女の中では、記録を読み漁ったことと“復讐”の繋がりが薄いことを示しているように。
「“復讐”と同時に……ではなく、あくまで“先”に、私が記録を欲したと思うのであれば……・
記録の内容が“復讐”の動機になると考えているのであれば……その根拠は、何なのかしら?」
勘の鋭い彼女のこと。もしかすると、御剣の中の不穏な思いを悟られたのかもしれない。
メイが、じっと御剣を見詰めていた。
ちょうどいい機会だと感じる。
改めて彼女の方に身体を向き直って……御剣は、彼個人が問いたかったことをメイにぶつけてみた。
「記録を読んだことで……キミは、私を恨んたのではないか?
キミの“復讐”は、その上でのことではないのだろうか……私はそう思った。」
そこで言葉を止めると、部屋は静寂に包まれる。
更なる説明を求めるように、メイが冷ややかに御剣を見据えている。
御剣は、それに応えるように言葉を続けた。
「私があの時銃を投げたりしなければ、先生はきっと父を殺さなかった……。
キミは、そのことで……私を憎み、“復讐”を考えたのではないだろうか……?」
それを聞いたメイの表情は、相変わらず冷ややかだった。
その冷たい目を閉じて、メイは考え込む。しばらく、沈黙が続いた。
「……あなたはよっぽど、私のことを“何でも人のせいにする”ヒトデナシだと思っているようね……。
だとしても……今の発言は最大の侮辱だわ」
表情とは裏腹に、言葉には強い怒気が篭っている。
「銃を投げたコドモは、父親を助けようと必死だった……。そして、それから15年も苦しんだ……。」
次第にその眼に炎が宿り、刺すように御剣を睨みつけた。
「ずっと側で見ていたのに、そのコドモを責めるなんて発想が出てくるとでも?」
その表情を見たのは、再会してから初めてかもしれない。
地震に見舞われて我を失ったとき、悪夢にうなされたとき……
傍にいれば必ず、その目をしたメイが彼を現実に引き戻した。
懐かしいきょうだいが、目の前で……その絆を疑われたことに憤りを顕わにしていた。
御剣の心に、その思いが沁み渡る。
「すまない……」
御剣の口から、自然と謝罪の言葉がこぼれ出た。
彼女がその言葉の通りに御剣を見守ってきたというのであれば、
御剣の言葉は、彼女のこれまでの思いを……明らかに侮辱している。
「……そろそろ準備の時間だったわね。早く行ったらどうかしら?」
声が硬い。……“出ていけ”と言われているのがわかった。
「……ああ、行ってくる。」
御剣は、素直にその言葉に従うことにした。
「仕事が終われば、また来る。」
最後に振り返ってそう声をかけるが、彼女はすでに布団をかぶってしまっている。
もちろん、返事はなかった。
扉を閉めて、御剣は独り……表情を緩めた。
――私たちの関係は壊れていなかったし、恨まれてもいなかった。
その実感が、彼をようやく安堵させた。
ふたりでいた時間を彼女が否定しないのであれば……
個人としての御剣怜侍は……それで充分、救われる。
あとは、彼女が心から笑ってくれれば、それで良かった。
たとえ怒られても、もしこのまま嫌われて……離れ離れになってしまったとしても。
<おわり>