「誤算」

 

3月21日――辞令は、あっさりと降りた。

例の検事局の管轄内で殺人事件が発生したため、
予定を前倒しして、早急に応援に向かうように、とのことだった。

多数の証拠と共に犯人は逮捕された…が、いくつか懸念材料がある。

逮捕された容疑者がそこそこ名の知れた芸能人だったため、マスコミが騒いでいる。
そして、この管轄では誤認逮捕が告発される頻度が、他の地域より抜きん出ていた。

担当検事は一番優秀な人間に任せているが……念には念を。
検事局と警察の威信を失墜させぬよう、最大限に動いてほしいという要請が、
現地から御剣にあった。

昨夜、事件を知った直後に、向こうの検事局長と話をつけておいたのが効いたようだ。

辞令を受け取り、御剣は早足で本庁を去る。
彼を知っているのか、庁内ですれ違った人間の何人かが
時折驚いたように彼を見て振り向いたような気がしたが、構ってなどいられなかった。

――早く、あそこに戻らなければ。
その思いだけが、今の御剣を動かしていた。

あの場所へ戻るのは、自分の信念を貫くため。
だが……「今」戻ることを願ったのは…。

 

そして、同日 某時刻。
警察署内 刑事課――

御剣は、懐かしいドアの前に立っていた。

扉の向こうでは、鞭の音と刺々しいメイの声が聞こえる。
クビを言い渡された糸鋸刑事の抗議の声がそれに続いた。
そして、ドアの磨りガラスには、青いスーツを着た黒髪の男の影が映っている……。

刑事と打ち合わせを……と思ってここへ来たのだが、すでに役者が揃ってしまっているようだ。
予想外ではあるが、混乱した現場のことを考えると……それも仕方のないことだろう。

御剣は深呼吸をする。そして、ドアのノブに手をかけた。
メイの怒りの声が引き続き聞こえる。

「だいたい、キサマのようなウラギリ者さえいなければ……」
口調が昔より固くなってはいたが、いかにも彼女らしい口上だった。
思わず懐かしい気持ちがこみ上げる。

だからだろうか。
……御剣は、ごく自然に扉を開け、その場に割って入ることができた。
「“私は負けなかった”‥‥そう言いたいのか?」

彼を見た知己の驚いた表情と声は、恐らく一生忘れられないものになりそうな気がした。

 

旧友と「挨拶」を済ませると、御剣が冥に向き直る。

「・・・・やれやれ・・・・。なんでもヒトのせいにするその性格。
  ・・・・変わらないな、メイ。」

近々戻ってくる、という話は小耳に挟んでいた。
それでも、今ここで会うのは想定外だったし、
こんなに気安く話しかけられるのは、もっと想定外だった。
この男の自分への態度は、もっとよそよそしいものや
憎しみを表現されるものの方が……自然なはずなのだが……。

それではなくても、検事局あたりですれ違ったら……あからさまに無視してやろうと思っていたのに。

元気そうな顔を見て、どこかほっとした自分にも腹が立つ。
この男は、あらゆる意味で「敵」であり、「裏切り者」なのに……。

「・・・・よ・・・・よくも・・・・
  よく恥ずかしくもなく、私の前にカオを出せたものね!」
全てを振り払うような思いをもって、冥は怒りの声を男にぶつけた。

 

まるで手負いの獣のように、メイが吠える。
こんなに余裕のない彼女を見たのは、初めてかもしれない。

それを更に追い詰めていくのが何なのか……彼女を一番追い詰めるのは誰なのか。
何も知らぬまま、ただ彼女に安息を与えたくて、御剣は“親身”に言葉をかけ続ける。

「どうやら、キミには荷が重いようだ。
  ‥‥だからこうして、帰ってきたのだよ。」

そう告げると、メイの表情が一瞬だけ怒り以外の感情で顔を歪めた。

「か、勝手なことを言わないで!
  私は・・・・私はまだ、負けを認めたわけじゃない!」

ゲームに負けた駄々っ子のようなことを、目の前の少女が叫んでいた。
何が彼女を、ここまで頑なにさせるのだろう。

「この事件は私のもの。……・ゼッタイに、わたさない!」
お気に入りの玩具を奪われそうになったコドモのように、彼女は再び声を大きくする。

それでも少しずつ冷静さを取り戻し、最後には減らず口を叩いて、彼女は去っていった。
言葉には何の感銘を受けなかったが、その様子に心痛を感じずにはいられない。

「あいかわらずのジャジャ馬だな。」
基本的には変わっていない勝気な彼女の姿を追想し、思わず笑みが漏れる。
笑えるほど情況が良くないということも、重々感じてはいるのだが。

自分の態度と言葉が、彼女にどう映ったのかはわからない。
だが、彼女が一瞬だけ見せた素顔から、
自分の本意が全く伝わっていないことだけは、はっきりと理解できた。

彼女は御剣のことを、自分に危害を加える存在だと認識しているようだ。

それに、御剣が刑事を使って彼女の担当事件に手を回したことを、彼女は間違いなく気付いている。
その行為に、「裏切り」という名前がついていることも確認した。

もう一度、話に行こう。
明日の朝ならば、彼女も少しは落ち着いているかもしれない。

私は君から何かを奪いにきたのではない。傷つけにきたのでもない。

君を守りたくて、今……こうして帰ってきたのだ……
……ちゃんと伝えるために、会いに行こう。

 

この時点で……彼は知る由もなかった。
先ほどのやりとりが、大変な事態を引き起こすきっかけのひとつとなった、ということを。

 

動揺をひた隠しにしながら、冥は目的地に向かって歩き続けた。

まるで、担当を交代しろと言わんばかりだった。
明言ではないが……ある意味であからさまに、彼はそう言っていた。

明日法廷を控えている事案にそんなことをするのは
さまざまな意味で配慮に欠ける行為だと、知らないはずはないだろうに。

だとすれば……あの男がよりによって今日戻ってきたことを加えて考えると、
上層部も、この事件を御剣に担当するよう望んでいるか、
もしくは冥のサポートに回るようにと話がついているのだろう。
――相変わらず、権力への根回しが上手な男ね。

とにかくどちらにしろ、冥ひとりでは力不足だ……そう言われているも同然のことだった。

だから、冥は証明しなければならない。
自分ひとりで完璧に、あの弁護士から有罪を勝ち取ることができるのだ、ということを。

ただ、懸念が一つあった。
あの弁護士に告発される隙を持つ人間が……ひとり、いる。

真犯人ではないが、恐らく……罪になるだけのことをした女。
理想の女性に依存して、最終的に自殺未遂までしたという、弱い女。
亡霊にしがみつく、憐れな女。

彼女の守りを固めておくことが、勝敗の鍵を握るだろう。
証言台に立つであろう彼女を、検事席からコントロールできる状態にしておく必要を感じた。
予め彼女を揺さぶり、支配することさえできれば、簡単なことだ。

罪をひとつ見逃すことになるけれど……勝利の前では、些事にすぎない。
彼女にとっても、魅力的な取引となるはずだ。

罪を見逃されるだけではなく、新たな“依存”の対象を見出すことができるのだから。

弁護士側の人間以外、困る者は誰もいない。
有罪となるべき人間が有罪となり、自分は勝利する。

そしてその時、のこのこと出てきたあの男との決着もつくはずだ。

なんと完璧な図式だろう。
冥は、勝利を確信しながら……女の居る部屋のドアをノックした。

ただ……そのロジックが、あくまで「自分が法廷にいる」前提で組み上げられていることを
当然ながら……彼女が意識することはなかった。

<おわり>