午後5時57分、警察署 刑事課――
誰もいない課内を睨みつける。
その手に持った鞭が、ギチギチと音を鳴らした。
裁判が終わり、“反省会”の開催のために刑事課を訪れた狩魔冥は
捜査員全員から逃げられたことを知り、怒りを顕にしてそこに立っていた。
各員の予定が書かれた黒板には「事後処理→直帰」の文字がずらりと並んでいる。
敗訴してご機嫌が斜めに急降下中であるはずの、狩魔検事が主催する“反省会”……つまり八つ当たりに
巻き込まれたくないがために、課内全員で事前に結託しての行動だったが、
それを冥本人が知るわけがない。
……たとえ、不自然はあるとしても、今日は年の瀬だ。
全体的に妙にとぼけている、この街の人間ならば……
仕事に片がつけば新年に向けてのプライベートに直行、ということもありえる話。
眉間に皺を寄せながら、メイは溜息をつく。
息をついてから落ち着いて見てみると、1人だけ黒板に何も記入されていない捜査員がいた。
名前は糸鋸刑事……冥の言うところの「ヒゲ」の男。
何も書いていないということは、つまり建物の中で課の近い場所にいる、ということだ。
彼女にとって、署内で一番鞭を振りやすい相手が、まだ残っている。
ならば、特に問題はない。
あの男を捕まえるための機械を検事局に置いてきたことを悔やみながらも、
冥は少し楽しげな表情で刑事課の外へ歩き出した。
機械がなくても、署内ならば、ヒゲのいそうな場所のおおよそ見当はつく。
一番考えられるのは、署員のために設けられた、建物奥の休憩スペース。
案の定、スチールのパーティションで区切られたそこに、複雑な緑色の大柄な人影を見つける。
逃げ遅れたヒゲの男は、冥の位置に背を向け、携帯電話を耳に当てていた。
――電話中だろうと何だろうと、知ったことではないわね。
まずは挨拶に一発……と鞭を構えた時、ヒゲが受話口に向かって、興奮したような声をあげた。
「ご指示のとおりだったッス。
きのうの家宅捜査が効いたッス!」
声を押し殺そうとする努力が見られるが、もともと声が大きい男だけに丸聞こえだった。
発言の内容に聞き捨てならないものを感じて、直感的に冥はヒゲの視界から身を隠す。
付近の壁に潜み、冥は意識を集中して聞き耳を立てた。
ヒゲは、冥に気付かずにそのまま通話を続けている。
「‥‥あの。見抜いていたッスか?
きのうの時点で‥‥真相を。」
電話の相手が発言している声が、少しだけ洩れてくる。
相手が落ち着いた声の男だということが推察できるが、
その男が何を語っているのかまでは、今の距離では聞き取ることが不可能のようだ。
「‥‥成歩堂 龍一‥‥ッスか。」
ヒゲに指示を出せる人間。
昨日の時点で、事件の真相を見抜くだけの能力をもった人間。
成歩堂 龍一を知っている人間。
3つの条件を同時に叶える候補は、ひとりしか思いつかなかった。
だが、彼は今行方不明で……誰もその行き先を知らない。
もちろん、ヒゲも行方を知りたいと言っていたはず。
なのに、ヒゲがその男と連絡を取っていることは、にわかに信じられなかった。
だが、間髪を入れずに決定的な証言がもたらされる。
「ハッ!
ではお待ちしているッス!
‥‥御剣検事どのッ!」
ヒゲが、その名をはっきりと口にした。
数秒後、相手から終話をした時に聞こえてくる機械音が繰り返されるのがぼんやりと聞こえてくる。
――“御剣、検事。”
あの電話の向こうに、御剣怜侍がいたことを確信する。
同時に、ヒゲが携帯を仕舞う音が聞こえた。
どうすればいいのか、わからない。
頭の中が、真っ白だ。
それでも何とか頭を働かせて、ヒールの音が聞こえぬように留意しながら、その場を去る。
冥は、休憩所と刑事課からできるだけ遠ざかるような道を選びながら、署内を歩いた。
署員とすれ違う可能性があるため、取り乱すことはできない。
表面だけ優雅に歩きながら、冥は強く願った。
――誰もいない場所へ、行きたい。
すぐに、その場所から一番近く、人気のなさそうな場所を思いつく。
多くの事件の記録が眠る、資料室の一つ。
主に新聞の一面に取りざたされるような難事件、未解決の事件の資料が収められた場所だ。
年の瀬で、大きな事件もいちおう片が付いている。
だとすれば……この時間にわざわざここへ入ろうとする人間は、恐らく誰もいない。
冥は、そこへたどり着くともどかしい手つきで鍵を外して、やや乱暴にドアを開け放つ。
案の定人気の無い真っ暗な部屋に飛び込み鍵をかけ、明かりをつけぬまま、座り込んだ。
走ったわけでもないのに、口からは酸素を求めるような荒い呼吸が繰り返されている。
《ご指示のとおりだったッス。
きのうの家宅捜査が効いたッス!》
あのヒゲは、昨日、電話の主から何らかの指示を受けていた。
――……そうだ。
1日目の法廷が終わって、検事局へ帰る車の中でのできごと。
自分に家宅捜査を考えるきっかけを与えたのは、確かにあのヒゲだった。
“今までのパターンから考えると、
あの弁護人は被告人以外のサーカスの人間を告発しようとするんじゃないッスかね……”
車を走らせながら、運転席のヒゲがそう話しかけてきたのだ。
一考の余地がある発言だったため、冥はしばらく考えを巡らせた。
思いついたいろいろな可能性の中で、冥は一つの道を選んだ。
“……だとしたら、あの男が現場を荒らす前に、
改めて家宅捜査でもして……他の住人の無実を証明しておく必要があるわね”
冥はその場で、ヒゲに家宅捜査の手続きを命じた。
“珍しく冴えているじゃないの”
冥が声をかけると……ミラー越しにヒゲが困ったように笑った。。
その間、ヒゲは一度も目を合わせようとはしなかったような気がする。
あのヒゲとは、遠い昔に面識があった。
当時からバカな男だとは思っていたが、その言動から
その男の人柄の良さを感じたのを、朧気に覚えている。
そんなヒゲのことなどすっかり忘れていた、たった数年の間に……冥の父は「伝説」と共に「禁忌」の存在ともなった。
父の名を知る多くの捜査員や検事達は、腫れ物に触るような態度で、彼女と距離を置いている。
つまり、彼女は組織の中でやや孤立した立場にいた。
それを認識していたからといって、別にだからどうこう……というわけでもなかったが。
その中で、あのヒゲだけは――たとえ鞭の分を差し引いても……屈託無く、自分に接してくる。
冥がどれだけ鞭を使っても、小言を言いながらも言うことを聞いていた。
そうして冥と関わりながらも、他の捜査員達と上手に渡り合い、さりげなく冥と彼らのパイプ役を務める。
ちょうど1年前に御剣怜侍が逮捕された時、
唯一彼を信じたという逸話を持つバカのことを、冥は内心では信頼していた。
だが……その男は、あくまで御剣怜侍の腹心であり、忠義は彼に向いている。
冥はあくまで、御剣の名残を持つ付属物(おまけ)として、親身にされてきたのだ。
そのことを、今更ながらに思い知らされた。
だから、御剣が望めば、ヒゲは簡単に冥を裏切る。
簡単な構図だ。
先ほどの電話から考えて、あのヒゲを使って冥に家宅捜査をさせたのは……間違いなく、御剣怜侍だ。
それに、今になって考えてみれば……
冥が証拠として採用しない方針にした物品の分析結果を、
相手側の弁護士が詳細に知っていたことも不自然だ。
あれも同じ人物の差し金である……ということは、充分に考えられる。
つまり、御剣は、ヒゲに一つまたは幾つかの指示を出した。
少なくとも確実に、ヒゲを使って冥を操作することを、簡単にやってのけた。
それは恐らく、あの男……冥が打ち倒そうとしている弁護士が勝訴するよう、話を運ぶために。
御剣怜侍はあの弁護士の味方となった。
そして、冥を……狩魔を裏切ったのだ。
“裏切り”については、失踪までの彼に関連する多くの法廷記録から、ある程度把握していた。
だが、彼女自身が直接それを実感したのは、この時が初めてだった。
冥は、笑った。
腹の底が怒りのような感情で震えている。
だが、出てくるのは笑い声だけだった。
幼い頃、大好きな父よりも、長い時を一緒に過ごした“弟弟子”。
反発しながらも一緒にいると安心できた、7つ年上の少年。
泣き喚く幼い彼女を抱き上げた、強い腕と、大きな身体。
ついていきたいと彼女を必死にさせた、広い背中。
面倒くさそうに溜息をつきつつも、振り返って見せる、優しい眼差し。
世界のどこよりも、一番安心できる場所。
たとえ袂を分かったとしても、それだけは変わらない。
――心のどこかで、そう信じ切っていたのに。
その愚かさに気付いて、冥は腹立たしさを一層の笑いに込めた。
だれも、いない。
ここには、だれも、信じられる人間がいない。
――私が信じられるものは、やっぱりパパだけなのね。
そう、父の精神と教えさえあれば、ひとりでも、充分に闘える。
父の教えを、完璧に遂行することができれば、今度こそ念願を叶えられる。
次こそは必ず勝つことを、心の中の父に誓う。
その間も、冥は低い声で笑い続けた。
数日前に冬至の訪れた、冬の夜。
明かりもなく暗幕に閉ざされた部屋に――光は届かない。
<おわり>